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ミイラ・ミイラ・ミイラコミュの中国・朝鮮半島

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(・∀・)キンジョダーヨ!!

中国(新疆ウイグル自治区は除く)では「湿屍」という、乾燥していない、液体に浸かった状態のミイラが多数見つかっています。
そして今でも明・清朝の時代の湿屍が工事現場などから発見されているんですが、清代の庶民の湿屍などは学術的価値なしということで火葬にしてしまうそうな。

朝鮮半島も土葬が主流であったためか、よくミイラが見つかっています。

明・清・朝鮮は、死後も肉体は重要なものという考えの儒教が盛んだったので土葬が主流だったようです。

コメント(159)

>>88-90でNY・NYさんが紹介してくれたモンゴル武将のミイラですが、それと同じミイラっぽい画像を発見しました。

大きなブーツをはいていて、ブーツにかかっている上着の裾にヒモのような装飾、腰当の形状などが似ている、弓と矢もある、1959年発見と「1958年の終わりに発見」で時期も近い、場所も青海省の砂漠という。

ただ、現在どこかで収蔵・展示されてるとかの情報は見つからなかったです(・∀・;)


诺木洪干尸:700年前的刀光剑影
http://www.sohu.com/a/26587366_117866

青海省海西モンゴル族チベット族自治州柴達木地区で1958年の終わりに元朝蒙古族武士のミイラが発見された。

1955年に青海柴达木诺木洪地区(青海省柴達木盆地(ツァイダム盆地。ほとんどをツァイダム砂漠が占める)諾木洪地区)の開拓が始まり、1958年に農場の労働者が土地を耕作していて乾燥した遺体を発掘した、とのこと。

「西寧に輸送してさらに調査」とありましたが、現在このミイラがどうなっているのかは不明。
>>[120]
いや〜、探せばあるものですね!
以前こちらに貼った画像と同一のミイラかはわかりませんが、私も腰当ての形状などから同一人物の可能性は高いと思います。
現在どうなったのかが不明なのが少し残念ですが、開拓の過程で発見者が面倒臭がって荼毘に付して埋葬しちゃった…というケースも少なくはないんでしょうね。
(我が国でもマンション建設前の整地で古墳や人骨などが見つかった場合もそんな感じですが)
この人が今もどこかの研究室の倉庫でひっそり眠り続け、また何かのきっかけで再発見(調査結果の発表含め)されるといいですね。
>>[121]
記事が出たのが2015年なので、NY・NYさんが投稿した2013年にはまだ記事がなかったんですな。

日本の本に載ってるぐらいだから、そこそこ有名だったのではないかと思うんですけどね。
保存状態を良好に維持するのが難しくて火葬埋葬してしまってる可能性もありますね(・∀・;)
モンゴル武将のミイラですが、
>>120の中国語の記事についてモンゴル語で書いてるフェイスブックのページがあったんですが、そこに「戦死したモンゴルの武将」と同じ画像(かなり荒いですが)が載っていたので、「戦死したモンゴルの武将」と中国語の記事のミイラはやはり同一ミイラの可能性が高いですな(・∀・)

フェイスブックのページの内容は、1958年に発見されてこんな身なりでした〜みたいな内容でした。
こちらがそのフェイスブックのページ。
https://www.facebook.com/1479579169037195/posts/1664544147207362/
>>[123]
またしても貴重な情報ありがとうございます…!
情報もある所にはあるもんなんですね〜。
フェイスブックのページも拝見しましたが、記事の内容は読めなかったものの、
下に載っていた馬に乗ったお姉さんがカッコよかったです(ミイラ関係ない…)。
>>[125]
あの頭を手前にして横たわってるミイラの写真をモンゴルの人が載せてるということは、あの写真は結構有名なのかもしれないとも思うんですが、手がかりは全然ナシですな(・∀・;)
こちらの記事↓、「诺木洪干尸:700年前的刀光剑影」というタイトルで、グーグル翻訳してみたところ「1958年末、元朝からモンゴル人の戦士の死体が在诺木洪地区で発掘」とあるので>>120のモンゴル武将ミイラのことが書かれていると思うんですが、
http://www.qh.gov.cn/dmqh/system/2015/08/10/010174419.shtml


文末に「さて、様々な理由により、研究価値の極めて高い元朝の武将の遺体は姿を消し、彼の人生経験の謎とそこに含まれる歴史的情報は未解決の謎となっており、残念です!」とありました(・∀・;)
黄澄存 その2

>>27で紹介した黄澄存ですが、すこし大きい画像がありました。
黄澄存 その3

こちらも大きめの画像。
鲁家山の女性ミイラ

湖北省荊州市にある荊州博物館で展示されている女性ミイラ。

2009年に魯家山古墓一号墓で発掘され、明末〜清初期に63歳で亡くなったと推測されています。

>>28と>>76でも紹介しています。
鲁家山の女性ミイラ

発掘時の姿と纏足の靴。
鲁家山の女性ミイラ

纏足のミイラっていうのは珍しいかも?と思ったですが、>>6の香河老人も纏足でした。
香河老人 その2

>>6で紹介した香河老人ですが、亡くなってから3年後の1995年の画像がありました(1枚目)。
このころは顔色も良かった?のですが、おそらく保存処置を行っていないために2006年には>>6のように黒っぽくなっています。

画像2、3枚目は2018年ですが、2006年とあまりかわりないように見えます。
青海省で発見されたモンゴル武将のミイラが中国でテレビ番組で紹介されてたんですが、紹介動画では>>120で紹介した画像と同じものしか出てこなくて、ちらっと映るミイラは別のミイラという。
やはりモンゴル武将のミイラは現存していないようですな…(・∀・;)

http://k.sina.com.cn/article_1730369420_v6723578c01902468g.html

弓矢は新規に撮影された映像があったので、それらは残ってるようです。
トルキ山古墓

トルキ山(吐尔基山)古墓は中国・内モンゴル自治区で2003年に未盗掘で発見され、10世紀前半の豪華な彩色木棺や副葬品、女性の遺体が出土しました。
女性は30歳代で、副葬品の豪華さから契丹族の皇族と推測されており、契丹の国家(のちの遼)の初代皇帝耶律阿保機の妹、ユルドゥグ公主との説もあります。
画像UPがミスってますな…(・∀・;)
トルキ山古墓 その3

女性遺体の頭蓋骨。色が黒っぽいのは水銀が原因で、生前に服用したのか死後に防腐剤などとして注入されたのかなどはよくわからないそうです。
頭部以外の部分がどうなっていたのかは不明。

2012年の「世界ふしぎ発見」でも紹介されていました。
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/old/bknm/20120728/p_1.html
トルキ山古墓 その4

こちらは復元図。
陳国公主

トルキ山古墓が「世界ふしぎ発見」で紹介されたのは展覧会(契丹 草原の王朝 美しき3人のプリンセス)のタイアップだったんですが、
展覧会では契丹の女性…陳国公主(第5代皇帝景宗の孫)、トルキ山古墓のプリンセス(初代皇帝耶律阿保機の妹?)、章聖皇太后(第6代皇帝聖宗の元妃)がフィーチャーされました。

「草原の王朝 契丹 ― 美しき3人のプリンセス ―」
https://www.tbs.co.jp/kittantokyo/

その中で、陳国公主とトルキ山古墓の女性は遺体が発掘されているのですが、章聖皇太后が葬られた慶陵(契丹の皇帝陵)は盗掘で遺物はほとんど残っていないようです。


陳国公主墓は1986年に内モンゴル自治区のチェリムモン盟?(盟は行政区画の一種。ジェリム盟(哲里木盟)の表記間違いか?)で発見されました。
(ちなみに現住所は通辽市奈曼旗青龙山镇(通遼市ナイマン旗青竜山鎮)斯布格图村。)

墓には陳国公主と夫の蕭紹矩が並んで葬られており、二人には金製の仮面と銀糸葬衣が着せられていました。

陳国公主は16歳で叔父の蕭紹矩と結婚、2年後の1018年、蕭紹矩が36歳、陳国公主が18歳で病死、とのこと。

陳国公主と蕭紹矩の遺体については情報が見つからなかったので、おそらく残っていなかったのだろうと思われます。
陳国公主 その2

ちなみに、向かって右の、仮面が白く汚れているほうが陳国公主です。
陳国公主 その3

金製の仮面と銀糸葬衣。
契丹女性のミイラ

1981年、遼王朝時代の古代墓群が内モンゴル自治区、烏蘭察布市(ウランチャブ市、当時はウランチャブ盟)察右前旗(チャハル右翼前旗)固尔班乡(固爾班郷) 豪堑营村の弯子山で発見されました。

羊飼いの老人が洞窟を発見、調査隊が組織され、10基の墓が発見されました。
6号墓からは、銅の網の覆いと金のマスクを身に着けた女性​の遺体が発掘されました。

遺体は頭を北に、足を南に向けており、身長160.9cm、体重56〜61kg、発掘時、肌には弾力性があり、まるで死んだ直後かのように保湿されていたそうです。

X線による調査で、歯の状態から彼女の年齢は30歳前後、髪の毛からは非常に高い濃度の銅が検出されました(契丹では食器や装飾品に銅が多く使われていたのが原因ではないかとのこと)。

内臓は腐敗しており、胃の部分からヒ素が検出されましたが、これは死後に注入されたと考えられています。

死因としては、遺体が横たわっていた地面に血の跡があり、出産などで大量に出血したために亡くなったのではないかと考えられているようです。


女性の遺体は密閉が不十分な石室で湿った沈泥に覆われた状態で900年以上の間、腐敗しませんでした。
その理由として、モンゴル高原で、墓のあるワンジ山の標高が海抜1600mと高く、乾燥・少雨・低温という環境、さらにヒ素と体内の高濃度の銅、体に纏っていた銅糸の網の防腐作用のためと考えられているようです。

彼女の素性についてはよくわかっていないようで、遼王朝の貴族階級などではなく、地元の有力者レベルではないか、とのこと。

ちなみに遼王朝の上流階級では、遺体が腐らないようにするために、死後、腹部をナイフで切り開き、胃と腸を取り出して洗い、次に香辛料、塩、ミョウバンを入れ、色のついた糸で腹部を縫合、皮膚に穴を開けて血液を抜き(?)、最後に金と銀で作られたマスクを顔にかぶせ、銅線の網で手と足を覆う、という処置を行っていたそうです。遼王朝の太宗である耶律堯骨は、この方法で遺体を保存処置されたそうです。
契丹女性のミイラ

烏蘭察布市博物館で展示されている様子。
発見時は肌の色が褐色で弾力があったのが、現在は乾燥してしまっているそう。

特徴として「ウエストが細い」と書かれてるんですが、たしかにすごい細いですな(・∀・)
契丹女性のミイラ その3

仮面を付けていたためか、顔の目鼻立ちがはっきりわからないです。
契丹女性のミイラ その4

発見時のようす。
契丹女性のミイラ その5

銅の網のほかに絹の服も身に付けていたが、絹の服はほとんど残っていなかったとのこと。
契丹女性のミイラ その8

烏蘭察布市博物館で展示されているマスクと銅の網。
契丹女性のミイラ その9

烏蘭察布市博物館で展示されている復元像。
安東市のミイラ

大韓民国慶尚北道の中部にある安東市、その市内を流れる洛東江の南岸で1998年4月に発見された、李氏朝鮮時代の男性ミイラ。

ミイラは木製の棺に納められており、棺が石灰と土の混合物でしっかり覆われて密封されていたために遺体が保存された、ミイラ化処置などは行われていなかった、とのこと。

男性ミイラの名前は「ウンテ(Eung Tae)」で、固城李氏(コソンニ氏、固城郡の李氏ということで、男性の姓名は「李ウンテ」と思われます)の一族、31歳で亡くなりました(1556-1586)。

身長は5フィート9インチ(約175cm)と当時としては長身で、あごひげが良く残っていた、とのこと。

現在は国立安東大学校の付属博物館に収蔵されているようです。
安東市のミイラ その2

女性の髪の毛で編まれた履物がミイラの頭の横に、そして家族や友人によって書かれた多数の手紙(13通、あるいは18通?)が棺やミイラの上で発見されました。

ミイラの胸の上には妻がウンテに宛てた手紙が置かれており、この手紙のためにこのミイラは韓国ではよく知られているようです。

手紙は「ウォンの父へ 1586年6月1日」で始まり、妻と彼女が身篭っていた子(ウォン)を残して亡くなってしまったウンテを責めるような、そして手紙を読んだら夢の中で会いに来て欲しいと願う内容が書かれていました。

「夢で会いたい」韓国で445年前に亡き夫宛てに書かれた悲しみのラブレターが発掘される!
https://tozanabo.com/archives/35222971.html

Mummified Love in Andong, South Korea
https://vagobond.com/mummified-love-in-andong-south-korea/

画像1枚目が女性の髪の毛で編まれた履物、画像2枚目が妻がウンテに宛てた手紙。
中国の三面記事になります。(グーグル翻訳)

故人の父親、唐淑泉さんは娘の遺体を調べるために棺を開けた。

唐徳清さんは25歳で自宅で亡くなった。 警察の身元確認によると、男性は自己投与による農薬中毒で死亡した。 事件後、遺族らは警察の結論に疑問を表明したが、唐徳清さんの遺体は埋葬されず、事件が起きた部屋に安置された。 驚くべきことに、16年が経過した現在、事件が起きた部屋はほぼすべて倒壊しているが、唐徳清さんの遺体は腐ることなく「ミイラ」となっている。 昨日、華西市リーダーの記者はこの奇妙な現象を調査するために南充市映山県清水郷老陰村に行きました。

唐徳清さんの遺体は瓦屋根の家に安置された。 ここは彼女の生前の寝室であり、彼女が最後に亡くなった場所でもあります。 瓦屋根の家々は老朽化し、ほとんどが倒壊し、屋根の半分と数本の石柱だけが残った。 隣には瓦屋根の家をすっぽり覆うほどの竹藪があり、地面には雑草が生い茂っています。

黒い棺は松の木でできていて、壁の隅に近かった。 上部はプラスチックフィルムで覆われ、下部はレンガと2つのベンチで支えられています。 16年間の風雨を経て、棺の表面はわずかにまだらになり、隙間は4本の鉄釘で塞がれた。

唐徳清さんの父、唐酒泉さんは斧を手に、鉄釘をこじ開けて棺を開けた。 同氏は記者団に対し、棺を開けるのは今年3回目だが「慣れてきた」と語った。 棺の蓋が徐々に開くと、中から唐徳清の遺骨が姿を現し、口は開いており、顔は焦げ茶色で、髪の毛はすべて抜け落ちていた。 体全体は布の層で覆われており、保存状態が良好です。 または、時間が経ちすぎて、生地の角が傷んで風化してしまいました。

「あれから16年になりますが、年に数回見に来ていますが、いつもこんな感じでした。」 唐淑泉さんは、長年にわたって娘の遺体は一度も腐ったことがなく、その理由は分からないと語った。 「しかし、確かなことは、腐食対策は何もしていないということです。」

唐徳清は唐淑泉の次女です。 1998年10月28日の夜、彼女は25歳で自宅で死亡しているのが発見された。

事件後、家族はショックを受け、彼女が強姦されて故意に傷害を負って死亡したのではないかと疑われた。 警察が捜査したところ、彼女の事故が起きた部屋で遺書が発見された。 同時に、法医学者は遺体を解剖し、「唐徳清の死は有機リン系殺虫剤3911中毒の自己投与によるものだ」という死亡鑑定結果を出した。

唐徳清さんの家族は警察の結論に不満を表明した。 「私は娘のことをよく知っています。彼女が服毒自殺するなどあり得ないのです。」 唐淑泉さんは、娘の死因が分からなかったため、事件後に松の棺を購入し、遺体を引き取っただけだと語った。 、しかし、彼女を埋葬することを選択しませんでした。 そのため、ここ数年、唐徳清さんの遺体は事件が起きた部屋に安置されており、家族は引っ越して別の場所に住んでいる。 今回のリリースは16年ぶり。

(続く)
http://art.people.com.cn/n/2014/0516/c206244-25024372.html
16年間風と雨に耐えた後、父はなぜ自分が腐らないのか不思議に思った

「当時は彼女の遺体が決して腐らないとは思いませんでした」と唐淑泉さんは語ったが、最初はいくつかの奇妙な点が彼の注意を引いたという。匂いを嗅いだことがない。」 唐淑泉さんは、後に警察が解剖を行った際に娘の遺体を発見したが、「多少の腫れを除いて、腐乱の兆候はなかった」と回想した。

唐酒泉さんはなぜ遺体が腐らないのか理解できず、そのため「彼女(娘)は不当な扱いを受けているに違いない。だからこのような行動をとったのではないか」という疑惑をさらに確信させた。 唐淑泉氏は、長年にわたってさまざまなルートを通じて関連部門に状況を報告するよう努めてきたと述べた。 同時に、娘の遺体の破壊を心配した彼は、「何も変わっていない、ただ乾燥させただけだ」と頻繁に棺を開けて検査した。

唐淑泉さんは、長年にわたって大きなプレッシャーにさらされてきたと語った。 「周りの人は理解してくれません。私が残酷な父親で、娘を放っておくと思われています。でも、私の心の痛みを誰が知っていますか?私はまだ主張しています。理由が分からない限り、一日たりとも、彼女が不当に扱われるのを許すわけにはいかない。」

唐徳清さんの遺体は一度も腐敗しておらず、地元住民の間では秘密ではない。 夕食後でも話のネタとしてよく使われることは多くの人が知っています。

王全生の自宅は唐徳清の遺骨が安置されている瓦屋根の家から遠くなく、直線距離で20メートルも離れていない。 王全生さんは長年にわたり、「最初は怖かったが、今ではほとんど慣れた」と深く感じていたと語った。

王全生さんは、唐徳清さんが亡くなった後、彼女の遺体が瓦屋根の家に保管されていたことを知ったと述べ、伝統的な概念の影響で「私たち家族は非常に嫌悪感を抱いている。人が土の中で死ぬのは大変なことだ」と語った。 「このように家の中に置くのは良いことだ。怖い!」王泉生さんは、その間、敬意を持って距離を保つことしかできず、瓦屋根の家の前を通るよりも迂回路を選ぶことを選んだと言った。

その後、唐徳清さんの遺体が腐乱していないことを知ったとき、彼はさらに恐怖を感じ、「夜も眠れないこともあった」という。 数年前、王泉生さんは瓦屋根の家から遠く離れた家を建て直し、家族は古い家から引っ越した。

王全生さんは今は安心していると語った。 「まったく怖くないと言ったら嘘になります。しかし、ここ数年、老唐(唐酒泉)は確かに簡単ではありません。私はこの問題ができるだけ早く解決されることを祈ることしかできません。結局のところ、死者こそが偉いのだ。」

解剖学の専門家による分析

死体が腐らない原因にはさまざまな要因が考えられる

死後16年経っても唐徳清さんの遺体は腐敗しなかったが、その理由は何なのか?15日、華西城読者の記者は成都中医薬大学の人体解剖学の李良文准教授にインタビューした。

唐徳清さんの状況を詳しく知った李良文さんは、この現象はさまざまな要因によって引き起こされている可能性があると分析した。

李良文氏は、唐徳清氏が亡くなる前に実際に大量の農薬を摂取していたとすれば、これが彼の遺体が良好に保存されていた重要な理由である可能性があると述べた。 「殺虫剤が体内に入ると、消化管内の細菌を殺します。これは、従来の医学で死体を保存するためにホルマリンが使用されるのと同じです。ある程度までは、死体の保存に役立ちます。」

同時に、李良文氏は、唐徳清さんが10月28日に亡くなったと分析した。もしその時、天候が涼しく換気条件が良かったなら、「これもまた、彼女の体表の水分の急速な蒸発と浸潤を引き起こした可能性がある」と分析した。外部細菌の侵入を阻止する役割を果たし、死体の腐敗を遅らせた。」

さらに、李良文氏は、唐徳清氏の死後、司法解剖が行われ、体内の臓器の一部が摘出されており、これも遺体の保存に関係していると考えている。 李良文氏は、「内臓の切除は、彼女の体内で細菌が繁殖する場所が少なくなることを意味し、その後、唐徳清さんの遺体が棺に入れられ、地面から封鎖されたことを考慮すると、「これらが原因で、細菌が繁殖する可能性がある」と述べた。

写真 http://art.people.com.cn/n/2014/0520/c206244-25041478.html
いつも情報提供ありがとうございます(・∀・)!!

ほかに画像が無いか検索してみたんですがミイラ遺体の画像は>>155の画像がいちばんいい画像でしたね。

画像1枚目は>>155の画像を拡大したもの、2枚目の「冤」の字は「あだ ・ぬれぎぬ」と読みます。
李氏朝鮮時代のミイラ

李氏朝鮮時代のミイラから採取された古代の糞便に含まれる寄生虫の研究で、サンプルに使われたファソン市で発掘されたミイラ。

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