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平家琵琶コミュの学術トピ、を目指すトピ

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平家琵琶は資料・史料・伝承者・研究者が少ないため、
すぐれた資料が活用されずに埋もれてしまったり、
「仮説」がいつの間にか市民権を得てしまったりすることがあります。

このトピでは、管理人が相伝者の視点でまとめた、
学術目的(のつもり)の駄文を気まぐれに載せていきます。
多くは「平家詞曲研究室」と重複することになると思いますが
mixiで探す方もあると思いますので。

コメント、ツッコミ、大歓迎です。
授業やレポートでの引用は、URL明記の上、ご自由にお使いください。
学術論文ではありませんので、論文や著書への引用は慎重にお願い致します。
著作権は放棄しません。あと、マナーを守る人を歓迎致します。

コメント(37)

平曲を最初に語ったとされる「生仏」から私に至るまでの略系図です。

スペースの限界で、現代の伝承者さんたちを省いてしまいましたが、
200句相伝(免状有)は宣昭師・私を含めて8名、
200句済み(免状無)が1〜2名、
100句済みが3〜4名、いるはずです。
名古屋の今井検校が伝承している数句も極めて貴重です。

そのほかに、コツコツと研鑽している方や、
100句済み以前でも演奏の機会を持たれている方もあります。
【琵琶床の起源を考えるために】

先日の演奏先に「琵琶床」があった。
一般的な「床の間」の端に、半畳くらいの大きさの地袋があり、
その上に板敷きor畳敷きの床があるのが、琵琶床である。

この琵琶床、正確な由来や用途については、今のところ情報が得られない。
Web上で唯一見つけたのが
「茶室を作ると薩摩琵琶を作って飾る」という情報であった。
そういう例があることは確かなのだと思うが、
それが琵琶床の由来かどうかは不明である。

千利休の指南書と言われる『南方録』
(発行されたのは千利休よりずっと後の時代)
書院の項に、違い棚に琵琶を飾る例が記されている。
これについては、詳しい資料も裏づけできる資料もないけれど、
【平家琵琶を飾る】ものであると私は確信している。
しかし、この違い棚と、「琵琶床」とは違うものである。

琵琶床が作られるようになった時代と地域が特定できれば、
【何琵琶を飾るのか】ということも推測できるかもしれない。

薩摩琵琶は幕末に薩摩藩藩士の間に小さな流行があったものの
庶民階級に普及するのは大正・昭和になる。
だから、琵琶床が作られ始めた時代が大正・昭和であれば、
【薩摩琵琶】を飾る床であると言える。

琵琶床が作られ始めたのが江戸後期くらいであれば、
おそらくは【平家琵琶】を飾る床であると考えることが出来る。

地袋に何を入れるのかも、まったくわからない。
地袋だから茶室の所有者の収納スペースだったとも言えるし
棚の一つとして、その茶会で使う何かをしまったのかもしれない。

琵琶床について情報をお持ちの方は、ぜひお知らせ下さい。
琵琶床の地袋部分の利用方法について葵さんが情報を下さいました。

楽器(琵琶ではなく、地袋部分に入る大きさの物)を収納する
掛け軸(お茶室に掛ける物)を収納する

こういう例があるとのことです。

起源はともかくとして、
地袋は地袋として所有者が活用すれば良いのでしょうね。
情報ありがとうございました。
【検校調査】

検校(けんぎょう)とは、
平家琵琶を伝承するための盲人団体「当道座」における
最高位のことです。
企業に喩えると「取締役」みたいな立場でしょうか。

検校の中にも順位があります。
さしづめ「ヒラトリ」「センム」「ジョウム」「代表」みたいに。

当道座は江戸時代(元禄以降)、
江戸と京都に役所のような機能を持つものがありました。
江戸は惣録(そうろく)屋敷と呼ばれ、
京都は職(しき)屋敷と呼ばれていました。

検校という位を持つ者の中には、
惣録屋敷に勤める者、職屋敷に勤める者、
大名に抱えられてその藩のお城近くに住む者などがありました。

検校という位に就く者は、出身地や居住地を姓のように名乗ることが多く、
有名なところでは「筑紫検校」「八坂検校」がいますし、
江戸後期には、麻布の坂の上=麻布の岡に住んでいるから
「麻岡検校」と名乗った検校もあります。
原則として、それまでに存在した検校と同じ名前は避けるようですが、
例外もあったと思われます。
【屏風絵に描かれた盲人の考察について】

狩野永徳(1543〜1590)の作とみられる屏風絵が新たに見つかったと、
昨日の朝日新聞朝刊にありました。
4枚折りの屏風が左右一対をなす「洛外名所遊楽図屏風」です。

右隻部分に描かれていた盲人の図を、推測しながら描画してみました。
なお、描画および下の考察は、
修士論文で検証した約200例の盲人の図像を参考にしています。

左の水色の人は、当道座の「座頭」階級の服装をしています。
当道座の階級と平家琵琶の教習度は、ある程度比例しますので、
座頭は「平家琵琶は少々語れるが、重要なものは未修得」と推測できます。

座頭の右に描かれるのは、座頭の部下のような立場の盲人です。
背中に紐でくくりつけているのは、座頭が使う琵琶でしょう。
子どもや犬を追いはらうためでしょうか、振り返って杖を挙げています。

右には「犬」「子ども2人」が描かれています。
この階級の盲人は、犬や子どもに追い回される立場だったのでしょう。

ここで注意しなければならないことがあります。

近年の文学・音楽史学の研究では、図像に対してずいぶん慎重になってきましたが、
少し前までは、盲人の階級を一階級と信じている研究者が多く、
「平家琵琶の伝承者達は犬や子どもに追い掛け回されていた」
と言わんばかりの論文や概説書が横行していました。

絵画というのは写真とは違い、「印象」を記録するものです。
器物や服飾の描写は、細部においては正しいとは限りません。
ましてや「貧しい盲人も平家物語すべてを語る事ができた」と思い込み
「屏風絵の情報は正しい」と信じていては、真実は見えません。

たとえばこの犬の絵をみて(私の描画技術の低さもありますが)
当時の犬は <すべて> この大きさでこんな色で、耳と尾が線だった、
なんて思わないですよね?

同様に、高い位(検校や勾当)の盲人ではなく「座頭が描かれていること」や
右の盲人が「琵琶を背負っていること」などは考察の対象となりますが、
琵琶の大きさを証明することはできません。

平家琵琶の伝承を後世に伝える責任を持つ位は「検校」です。
検校が屏風絵描かれることは少なく、
あっても「座敷」に「検校の正装」で描かれます。
また、輿に乗りますので、犬や子どもに追われることはありません。

検校は貴族や大名出身の中途失明者が多く、失明前に教養を得ています。
江戸後期には有力町人の子息も検校になる例が出てきますが、
昇進までの費用を考えると、相当な大店でないと無理です。

私がこういうことを述べると、必ず
「貧しい盲人もいたし、庶民も平曲を聴いたでしょう!」
と仰る研究者がいらっしゃいます。
庶民階級の平家物語の受容を研究なさっているのであれば、
庶民階級の平曲について、いくらでもお話させていただきますが、
たいていは特権階級に伝わった平家物語がご専門だったりします。
【由緒正しい琵琶の箱について】

博物館などに展示されるような楽琵琶・平家琵琶は、
たいてい作者や歴代の所持者が判明しており、
所蔵するときには立派な箱に入っています。

だいたい長持のような大きな木の箱(桐?)があり、
蓋に銘が、蓋裏に由緒が書かれているものもあります。

長持の蓋を開けると、
黒い漆塗りの、円筒と枇杷の実型の皿状を組み合わせた
変形の箱が出てきます。

黒い漆塗りの箱を開けると、
円筒部分に琵琶の「海老尾」や「転手」が
皿状のところに琵琶の「槽」や「原板」が収まっています。

本当に由緒正しく、戦火にも遭わなかった琵琶は、
長持と黒漆の箱との隙間に、由緒書きや極め、譜本などが入っています。

ちなみに壊れていない限り確認することは出来ませんが、
そういった琵琶は槽の裏側(琵琶の空洞内部)に
製作者や制作年代を特定できる何かが書かれています。
ただし音の微調整などのため、内部を削ることもあるので、
初代の書付が残っているかどうかは不明です。

「北野天神縁起絵巻」だったと思いますが、
火事に遭って家財道具を運び出す場面に、
長持を持って逃げる男性が描かれています。
近くに筝(楽筝)を持って逃げる別の男性がいますので、
この長持には琵琶(楽琵琶)が入っているものと考えられます。

岩佐又兵衛の「桜下乱舞図」などの屏風絵には
黒漆の琵琶を紐で背負った盲人がしばしば描かれています。
又兵衛の近くに、黒漆の箱に入った琵琶があったに違いありません。
荒木村重と平家琵琶が関わっていてくれると面白いのですが。
【那須与一と扇の距離について】

屋島の合戦で、平家の船が近づき扇の的を掲げ、
陸の源氏から弓の上手な那須与一が選ばれます。
汀から舟までの距離は「七、八反」。
汀に馬を進めた与一から的までの距離が「七反」。

この距離には諸説あり、20m、80m、160mなどの例が多いです。
私が支持しているのは20m説。
当時の屋島の地形は川幅くらいしか海が無かったという説があり、
これだと80mは不可能なのだそうです。

20mというと電車一両。
北風、夕暮れ、戦による疲労、源平両軍からの注目、義経からの圧力。
こういった悪条件を考えると、20mでも十分緊迫感はあると思います。
ただ、現代の弓道では的までの距離が30mといいますから、
20mでは、いくらなんでも近すぎる気もします。

きょう、演奏会の後に友人達と話しながら、二つの仮説を立てました。
〔1〕与一は「20mの距離じゃ近すぎる、役不足だ!」と辞退した。
〔2〕しちはったん、しちたん は 語感が良いから語られているだけ。

どっちでも良いような気がしてきました。
解釈は聴き手に委ねましょう。

ついでに友人達と「那須与一とウィリアム・テルのどちらが力が上か」
という議論?もしました。
那須与一が使ったのは鏑矢。大きな音がしますが殺傷能力はありませんので、
扇の近くにいた女性に矢が当っても骨折どまりと思われます。
扇を射損じれば与一は自害せざるを得ないでしょうけれど……。
そんなわけでウィリアム・テルのほうが力が上、かも??
【討ち入りと平家琵琶】

江戸時代には、茶人たちも平家琵琶を嗜みました。

たとえば、千宗旦の弟子である茶人の山田宗へん(「へん」は“にんべん”+扁)は
平家琵琶への造詣が深く、自ら五十数面の琵琶を製作したといいます。

また、茶会のとき、茶室の外に待つ来客を迎えるために、
銅鑼ではなく琵琶の音を合図に用いた茶人がいたともいいます。
山田宗へんがそれを実施したかは不明ですが、
討ち入りにまつわる面白いエピソードがあるので引用します。
創作話の可能性もありますので、ご注意下さい。

明治41年2月11日「日本新聞」の記事です。(長いので要約します。)
『平家音楽史』に紹介されています。

――――――――――
手引きの琵琶と花籠
――――――――――

元禄時代、茶人の山田宗へんは京都を去り江戸に来た。
江戸在勤中の諸大名が競ってその門に学んだ。
吉良上野介も宗へんを師として茶道を学んでいた。
大石内蔵助はそれを知り、「伊勢の呉服商」大高源吾を宗へんに入門させた。

元禄15年12月13日、宗へんは源吾に「明日、吉良邸で茶会がある」と口を滑らせる。
源吾は「呉服の仕入れで近く帰国します。吉良邸の茶会は興味があり
土産話にしたいので、臨席は無理でも御供して垣間見たいものです」
などと言って宗へんから茶会の模様をあらかじめ聞き取る。

12月14日、本所の吉良邸で、いよいよ茶会が催される。
道具の取り合わせには数寄を凝らし、
花入れには、桂川の鮎釣り人が腰に下げる籠を「桂川籠」として使っていた。

さて用意が整うと、宗へんは外で待つ客を招き入れるため、
自身が製作した平家琵琶「白浪」号を弾く。
この時、邸外に潜伏した義士の一人が、その音を頼りに「時迫れり」と合図する。
吉良上野介は、茶会の後、宗へんに一泊するように勧めるが、宗へんは帰宅する。

いよいよ討ち入りが行われ、吉良の首が討ち取られる。
寺坂吉右衛門が吉良の首を持って一足先に泉岳寺へ向かう。
そのあとに義士が一斉に移動するとき、あたかも吉良の首を掲げているように見せるため、花入れに使った桂川籠を風呂敷で包み、それを掲げて泉岳寺へ向かう。

――――――――

ちなみに茶道宗へん流では、吉良殿も大高氏も門弟であるとの考えから
12月14日には「義士茶会」を催しています。
また花入れに「桂川籠」を使うときも、必ず討ち入りの話題になります。
【全句の所要時間】

平曲の全て、つまり平家物語全てを語ると
いったい何時間かかるのか、という質問に答えるため、
今年の2月から一昨日までかけて所要時間調査をしました。

語る速さは個人差のほか、建物・気候・聴衆によっても変わります。
今回は、自宅で体調の良いときに最も整った譜本を使って全句を稽古しました。

その結果、今年の私は全200句を95時間2分で語り終えました。

もう少しゆっくり語る方もありますし、
私よりももっと緩急自在に語る方もありますので、
90時間〜120時間かかると考えるのが良いと思われます。

詳しく知りたい方は、「平家詞曲研究室」をご覧下さい。
http://www4.plala.or.jp/heikebiwa/note/200.htm
お疲れさまでした。全句とは大偉業です。95時間、ほぼ4昼夜とは、想像していたより短いですね。
>オノサンさん
ありがとうございます。思っていたより短かったのですが、
先人たちの稽古の記録や「勧進平家」の行事などを考えますと、
この所要時間なら辻褄が合います。
昨日、靖國神社に奉納された小笠原流三三九手鋏式を観てきました。
6人団体戦で2チームの対戦、鏑矢使用
(先鋒5人×2射)+(大将×2射×大将割増2)=ポイント
7間の距離から8〜9寸の四角い的を射る(なぜか先攻…前弓が8寸四方、後攻…後弓が9寸四方、8と9は陰・陽の最大数)
今回は前弓が女性(大将のみ男性)、後弓が男性
のですが、緊張しているせいかみなさん弓先が震えていて全然中らない。前弓先鋒はゼロ、後弓先鋒は1射。
前弓大将はさすがで2射、後弓大将は1射の中りでした。
いくら源氏一の射手でも、鏑矢で長距離ぴたり当てるのは厳しいのでは。20m説に私も賛成。
>オノサンさん
新年の奉納行事、よいものをご覧になったようで何よりです。
それから20m説のご賛同ありがとうございます。
悪条件などを鑑みると、少なくとも長距離ではなさそうですよね。

余談ですが#8における友人達との会話の中で
「あの扇の真ん中射させて賜せ給へ」と願ったにもかかわらず
「扇の要際一寸ばかりおい」たところを射切ったことについて
与一はどう考えているのだろう、という議論もありました。
結局は「語感優先」のような気がいたします。
江戸時代の盲人団体「当道座」の江戸の役所「一ツ目弁天」では、
毎年2月16日と6月19日に平家琵琶の演奏会がありました。
『遊歴雑記』 文化11(1814)年発行
『東都歳事記』 天保9(1838)年
『平曲古今譚』 嘉永4(1851)年の記事(私の曽祖父・楠美太素の書簡)
などで紹介されています。

いずれも「裃の役人」「正装の盲人(冬には帽子も)」「琵琶が1〜2面」
「抜き語り」「巧拙さまざま」「聴衆もさまざま」「呈茶?」
という共通事項が挙げられます。
当道座の年中行事における琵琶会には、
季節や地域にかかわらず、共通点があったのかもしれません。

【『遊歴雑記』の要約】
・例年2月16日と6月19日、盲人が一ツ目弁天で平家琵琶の奉納演奏。
・身分に応じた装束を着た盲人が、15〜18人出演する。
・麻裃を着た役人が琵琶を持ち出し盲人に手渡す。その盲人が調弦して語る。
・語り終えると裃の役人が琵琶を向かいの盲人に手渡す。こうして次々に語る。
・語る分量は(活字本の)三行又は五行に過ぎない。
・上手下手・巧者不巧者がある。
・不興と思うのか途中で帰る聴衆もある。
・6月19日は蒸し暑かったが、知人が濡縁で諸人に茶を振舞い、雅宴となった。

【『平曲古今譚』の要約】
・2月16日に一ツ目弁天の奉納平家を聴く。
・6人の盲人が帽子装束(検校の正装)で左右に3人ずつ並んでいた。
 当日は13人が出演。後半の出演者6人のうち2人目が語っていた。
・語り終えると、のし目裃の役人が琵琶を受け取り、次の法師に渡し、同様に語る。
・冒頭から(譜本の)一枚か、中盤の一枚半を抜き語りしていた。
・虎の吠えるような語りもあったが福住検校と麻岡検校は上手であった。
・すべて語り終えると法師たちはお神酒を拝飲。
・聴衆も(お茶を?)一ふく飲みながら話をした。

【『東都歳事記』の挿絵(画像左)】
A 裃を着た役人
B 演奏中の検校。琵琶は一面だけ。
CDEFGHI 検校。夏なので帽子省略?
J 勾当。図中の赤い点は私が加えた「菊綴(きくとじ)」です。
KM 女性。深川の方でしょうか。Mは横向きです。
L 演奏者を観察する武士。
N 盲人? 坊主頭で後ろを向いています。
O 平曲に飽きたのか女性を観察中。
PQ 耳を傾けているか、居眠りか。

【『尾張名所図会附録』十月十五日の弁天講の風景の挿絵(画像右)】
A 裃の役人と思われます。
BCDEFG 検校か勾当。冬なので帽子をかぶっています。
Bが演奏中で、琵琶は一面だけ。
HIJ 勾当あるいは座頭です。
KLMNOPQ 7人の熱心な聴衆が描かれています。
二幅の掛け軸は、吉沢検校と荻野検校の肖像と思われます。

詳しくは平家詞曲研究室でも公開中です。
http://www4.plala.or.jp/heikebiwa
【平家琵琶における秘曲】

正しくは「秘事」といいます。
「祇園精舎」「延喜聖代」の2句が小秘事、
「宗論」「鏡之巻」「剣之巻」の3句が大秘事です。
「秘事」の前奏として引く琵琶の手は「秘曲の手」と称します。

書店などで簡単に入手できる平家物語には、
しばしば大秘事の3句が省略されているのですが、
これは平曲において秘伝とされていたことと理由は同じです。

「秘事」も「秘曲の手」も、
大学堂書店の『平家正節』等で譜を確認することは可能です。
けれども、さすがは秘伝だけあって、特別なしかけがあります。

平家琵琶では平家物語を200の句にわけ、決められた順に習得します。
小秘事は194句を修得済(修の字にこだわってます!)でなければ
授かることはできません。
大秘事は196句済でなければ授かることはできません。
つまり、そこまで修得が至っていなければ理解できないことが
譜面の中に隠されているのです。
一般に、これを「口伝」とか「秘伝」などといいます。

平家琵琶を数句習えば、譜の読み方は何となくわかります。
そのような状態の人が、秘事の譜を見れば、語れるように思うかもしれません。
ところが、口伝・秘伝がたくさんありますので、
資格の無い人が譜だけで再現を試みるとデタラメになるしくみなのです。

「秘曲の手」は譜だけで再現することは可能です。
平曲を少し知っている方には「数種類の曲節の前奏曲をつなぎあわせたようなもの」
に聞こえるかもしれませんが、これこそ資格の無い者の勘違いです。
「秘曲の手」には、有資格者にしか理解できない哲学理論が存在します。
【平家琵琶における難曲】

「秘曲の手」は「数種類の曲節の前奏曲をつなぎあわせた」と勘違いされるくらい、
特に難しいことはありません。
ちょっと口伝はありますが、技法として難しいということではありません。

また大小の秘事も、修得が至らなければ理解できないことや秘伝口伝がありますし、
語るための心構えなどは他の句よりも厳しいのですが、
やはり難しい語りがあるわけではありません。

技術的に難しく感じるのは、「読物」と呼ばれる句でしょう。
今まで習っていたことが覆されるのかと思うほど独特です。
理論は修得してしまえば難しいことはありませんが、
人前で上手に語れるようになるには技量を要します。
また初心者に教えても、その理論の真髄はわからないしくみがあります。

口伝・秘伝の重要性を思い知らされるのが「灌頂巻」です。

秘事はいずれも、精神面の資質を問われるような厳格さがあります。

では人前で語るのが難しいのは何か、といいますと、
初心の頃に教習する「那須与一」や「敦盛最期」が挙げられます。
初心者が語っても、その趣が伝わるような構成にはなっていますが、
どれほど語りこんでも奥深く、またよく知られた内容であることから、
語り手がうっかり欲でも出そうものなら、それが仇になるのです。
【連平家(つれへいけ)について】

平家琵琶は通常ひとりで語りますが、
時に2人が一緒に同じ句を語ることがあります。
連れ語り、語り分け、掛け合い、などとも言います。

『太平記』では、覚一検校と真都(しんいち)が鵺を連れ語りしています。
「太平記絵巻」では、覚一検校ひとりが琵琶を持っています。
真都は扇を持って描かれていることがあるため
「当時は琵琶を持たなければ扇で拍子をとった」と考える人もいます。
(個人的には扇拍子は違和感を覚えるのですが……。)

江戸末期の琵琶会の記録を見ておりますと、
「連平家」は盛んに行われていたようです。
楠美家が使っていた譜本には、人前で語るのに適した句には
「連平家」がいつでもできるような書き込みがあり、
有名な句のいくつかは「連平家」を前提として譜本が書かれています(画像参照)。

「連平家」では、一人が「導師」、もう一人が「脇」になります。
決められた法則で、導師と脇が代わる代わる語り、
時おり二人が「連れ」で(つまり一緒に声を出して)語ります。

「宇治川」では「導師」が佐々木高綱役、「脇」が梶原景季役になり、
「敦盛最期」では「導師」が熊谷直実役、「脇」が平敦盛役になり、
会話部分などは、まるで朗読劇のような効果が期待できます。

一人で語っても、この「導師」「脇」「連」の書き込みが役立つことがあります。
古文はご存知のとおり、主語が抜けている事がよくありますが、
「導師」と「脇」が存在すると、抜けている主語がすぐにわかるのです。
ですから「連平家」の聴衆は、おそらく登場人物の会話や動作が
立体的に感じられたのではないかと思うのです。

現代でも「連平家」の機会はあります。
私も今までに語ったことがありますし、
私以外の相伝者お二人の連平家を企画したこともあります。
語っていても面白いですよ。
【平曲を聴いた上杉影虎】

先ほど放送された「風林火山」来週の予告画面の中で、
長尾影虎(Gackt)が琵琶を弾いていました。
あの弾きっぷりは「薩摩琵琶」と思われます。

「薩摩琵琶」の成立は室町時代という伝はありますが、
学説として評価・確認できる史実は幕末の薩摩藩士以降であり、
しかも今の音楽の特徴という意味では明治以降の成立になるそうです。
なので影虎さんが「薩摩琵琶」を弾いたという事実はありえません。
(まあ大河ドラマの「脚色」ということで。)

もし影虎さんが琵琶を弾くとしたら、楽琵琶か平家琵琶になります。
当時は、それしか楽器がないのですから。
(地神経に用いた琵琶も、当時は楽琵琶のような形状だったと考えられています。)

ちなみに上杉影虎は平家琵琶の「鵺」を聴いています。

「鵺」のあらすじは
  近衛天皇が「怯えの発作」を起こした。
  かつて堀川天皇の「怯えの発作」は源義家の大声で治まったので、
  先例に倣い源頼政が推薦され、頼政は鏑矢で「変化の物」を退治した。
  二条天皇のときに「鵺」が鳴き、やはり頼政が鏑矢で射落とした。
というもの。

上杉影虎は平家琵琶で「鵺」の語りを聴き、
  義家は大声で堀川院の発作を治めた。
  少し後の頼政は鏑矢を使ってやっと「鵺退治」をした。
  いまはもっと後の時代。もはや武士には「鵺退治」は難しいだろう。
といって「鵺退治」は比喩に嘆いたといいます。
#19訂正
      
まず誤字。  【誤】 影虎  【正】 景虎
その上で内容。【誤】 景虎  【正】 輝虎

ということで、平家琵琶を聴いたのは「上杉輝虎」です。
失礼いたしました。
__________________

【当道座の階級と平曲習熟度の関係】

盲人職能団体の「当道座」には
「四官十六階七十三刻(きざみ)」もの階級がありました。
1刻昇進するごとに「官金」を納める必要がありましたし、
節目節目に「お披露目」をしたり、平曲修得の義務もありましたので、
検校に至るまでには千両もの「官金」が必要だったといわれています。

盲人の出自はさまざまで、つまり支払い能力もさまざまでしたから、
金銭的な理由で昇進に限界を来たす人は大勢いたはずで、
必然的に下位の者が多く、上位の者が少なくなるという
ピラミッド式の人数構成であったことは、間違いありません。

図は、そのイメージをわかりやすく示したものです。
実際の人数を調査したわけではありませんので、
レポート等に引用する際は慎重にお願いします。

さらに平曲の習得について「本所一ツ目弁天平曲奉納会」の記録から推測すると、
江戸時代も後期になると、検校(四官では「別当」)でも平曲の習得度が低い者も多く、
麻岡検校が検校に昇進する前(勾当時代)は百句済程度だったことが判明しています。
また屏風絵などに登場する通称「打掛」の盲人が、花見の宴席で語っていることから、
彼らは宴席で語れる「上日」「桜」程度なら習っていた可能性が考えられます。

これを図中にダイヤモンド型に書き入れました。
すなわち、「打掛」は「上日」「桜」程度の習得度(まったくの初心者)、
「在名の座当(姓を名乗れる座頭)」が、せいぜい25句、
「勾当」のあいだに何とか50〜100句語れる者が出てきて、
「検校(正確には別当)」のうちに150句以上を修得(「修」得で良いかな)、
四官で言うところの「検校」でなければ、全200句の相伝は無かったと思われるのです。

もちろん多少の例外はあったと思いますが、
「座当」のうちに「秘事」を語るようなことはあり得ませんから、
当道座における官位と平曲習得度は、おおむね、比例するはずなのです。

本来、当道座は平曲伝承を前提とした団体なのですが、
江戸後期になると、その前提は形式的なものに過ぎなくなり、
実際に平曲を相伝した人や、かなり修得していた人は激減し、
下位においては、ますます平曲から遠ざかる傾向があったと思われます。
この図で、そのイメージが伝わると良いのですが……。

くどいようですが、この図はピラミッド構造のイメージを示すものですので
各階級の面積などを計算しても意味はありません。
レポート等の引用は自由ですが、くれぐれも慎重にお願いします。
(URLとこの投稿の文章は必ず併記して下さい。)
来月、研究書を出版します。

【平家琵琶にみる伝承と文化
 ―『平曲古今譚』『平曲統伝記』『平曲温故集』―】

著者:楠美晩翠(母方の高祖父です)
編者:鈴木まどか・笠井百合子・鈴木元子
出版:大河書房
定価:5880円(5600円+税) 318ページ、箱あり
ISBN:978-4-902417-16-6
刊行:2007年10月25日

幕末、江戸において平曲を修得した楠美則徳・楠美太素・楠美晩翠は
平曲修得に関する日記や書簡、琵琶の調査資料、平曲の伝書や系譜などの資料残し、
楠美晩翠が明治十六年に『平曲古今譚』等の三部作を編纂しました。
このたびこれを活字翻刻し、解題と要約などを加えて出版します。

楠美晩翠の編纂資料は、館山漸之進(晩翠の弟)が
明治43年に発行した『平家音楽史』の基礎資料でもあります。
参勤交代中の武士の日常など、文化史研究の資料としても価値があります。

平成7年より古文書解読に着手、平成14年よりパソコン入力開始、
今年の初めより編集作業に専念しておりました。
318ページではありますが、内容はかなり専門的で多岐に渡ります。
ジュンク堂、bk1、紀伊国屋書店、大学生協でご注文可能です。
はじめまして

来月のご出版おめでとうございます。

「平家琵琶にみる伝承と文化」来月末、書店で是非、購入させていただきます。益々のご活躍を期待しております。(古澤錦城)
『平家琵琶にみる伝承と文化』312ページになった模様です。
この先も若干変更があるかもしれませんがお許しください。

>でんさん
ありがとうございます。
販売ルートが限られていますのでご不便をおかけします。
お求めの情報があると良いのですが。よろしくお願いいたします。
【火山研究から長門本の成立期が判明】

平家物語には「諸本」なるものが何種類もあります。
長門本は文学研究の手法では、成立年代が特定されていませんでした。
今回、火山研究から成立期が特定され、
「諸本」の一つが判明したので「原本」の成立期もさらに絞られてきました。

平家琵琶研究も同じことが言えます。
文学や音楽で研究されるべき要素は、もちろん多くあるのですが、
その分野の「常識」や「視点」に縛られすぎていては
真実の姿は見えてきません。

たとえば戦前、「楽琵琶」「平家琵琶」「盲僧琵琶」の寸法を比較した研究がありましたが、
楽琵琶・平家琵琶は、バイオリンのように何種類もの大きさがあるので
寸法を比較しても、実は研究の意味がありません。

また、ある時と別の時の(同一人物の)語りや調弦が違う、との指摘する方もありますが、
平曲には「塩梅(あんばい)」といって、空間や状況に合わせて
わずかに語り方や調弦を変える口伝があるので(注:創作じゃないですよ。)
表面的な違いにこだわっても、実は何の意味もありません。

他にもいろいろ「木を見て森を見ず」と思うことがありますが、
今後、文学や音楽史ではない視点から、平家物語や平家琵琶の真の姿が
ますます解明されて行くことを願います。

――――――――

平家物語「謎」火山研究で迫る
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=342129&media_id=2

(以下、記事の要約)

 平家物語の原本から派生した長門本平家物語には、原本にはない霧島山(鹿児島、宮崎県境)噴火の様子が詳細に描写されている。年月は書かれていない。

 政府の震災予防調査会が1918年に発行した「日本噴火志」では、薩摩藩の学者がまとめた「襲山考(そのやまこう)」の引用として、長門本の噴火を天慶8(945)年としており、これが通説となっていた。

 鹿児島大理学部の井村隆介・准教授はこれを研究。
・「襲山考」にはそのような記述はなく、震災予防調査会が誤って引用と判明。
・地質調査から霧島山の溶岩流出は788年、1235年、1768年とされている。長門本に書かれた噴火は1235年のものと考えられる。
・長門本の溶岩流流出などの記述は詳細で、実際に目撃したか、それに近い人物でなければ不可能。
・霧島山の溶岩流出噴火から時間を置かず(1235〜45年ごろ)に長門本が成立したとすれば、平家物語原本の成立はそれより前になる、
との結論を導いた。

 日本文学研究では、原本は1220〜30年ごろ、長門本は14〜15世紀の成立とする考えが主流という。麻原美子・日本女子大学名誉教授は「私は長門本の成立を13世紀半ばと考えていた。これで1235年を成立年代の上限に設定できる」と評価している。

 一方、佐伯真一・青山学院大学文学部教授は「長門本は専門家の間では内容の正確性には疑問があり、噴火の記述が正確だというのは意外だった。長門本の見方を改める必要があるかもしれない」と話している。
【陰月のこと】ならびに【左利き用の琵琶のこと】

某所で平家琵琶の修理過程の写真を見る機会を得ました。
詳細は控えますが、2つの状況から、
これが左利き用の琵琶である可能性が浮上しましたのでご報告します。

楽琵琶と平家琵琶の基本構造は同じです。
調弦と、柱(じゅう:フレット)の位置が異なるだけです。

楽琵琶では演奏の前後に、上図のように覆手(ふくじゅ:糸端を結ぶ所)に撥を収めます。
覆手の下には陰月(いんげつ)という共鳴孔があり、ここに撥の持ち手をはさみますので、
その断面は下図のようになります。
つまり、陰月はある程度の大きさが必要になりますし、傾斜も必要です。
この陰月の大きさや傾斜は、薩摩琵琶や筑前琵琶とは異なるそうです。

このたび拝見した琵琶の写真は、
なんと、この陰月の傾斜が逆向きについていました。
さらに平家琵琶では、弾くときに上になるほうの撥面に「月」をつけるのですが、
当該の琵琶は、通常なら下になるほうに「月」がついていました。

でもこれを、もし左利きの人が弾いたとすれば、
撥面の「月」は上になるほうについていますし、
楽琵琶のように撥を覆手と陰月に収めるときにも都合よくなります。

最初の持ち主(注文主)の利き手や目的がわからないと結論は出せませんが、
私は、これを「左利き用の琵琶」と考えています。
【琵琶床に平家琵琶を飾る方法】

茶室の床の間にはいろいろな種類がありますが、
脇床(わきどこ)が一段高くなった「琵琶床(びわどこ)」というものがあります。
楽器の琵琶を飾るための床と思われますが、由来は定かではありません。
修学院離宮に琵琶を置くための床の間があるそうですが、これは茶室ではないので、
茶室における「琵琶床」と関連があるかどうかは不明です。

お茶会の折などに、この琵琶床に琵琶を飾る例もあると思いますが、
茶室によって本来の床と脇床の位置関係にもいろいろあるため、
楽器をどう飾るべきか悩む方も多いようです。
そこで、琵琶の飾り方の例をここで紹介します。

1 琵琶を縦に飾る「架台」がある場合
本床のあるほうに少し傾けて飾ると、茶室全体から琵琶がよく見えます。
撥があり、撥を掛けるものがあればそちらに撥を飾ります。

2 琵琶を横に飾る場合
「架台」が無いときは、左奥に「転手(てんじゅ:糸巻)」や「鶴首(細い部分)」を置き、
右手前に「撥面(ばちめん)」つまり膨らんでいるほうを置きます。
どのくらい斜めにするかは、琵琶床の幅に応じると良いでしょう。
じゅうぶんな幅があっても、ほんの少し斜めにすると、おさまりが良いです。

この左右は、本床の位置にとらわれなくて構いません。
ただし、「正客が琵琶の名手で、茶席のあとに弾いてほしい」ときには、
半東が琵琶床から持ち出して正客に渡すことになりますので、逆に飾ります。
また、もし亭主が左利きであれば、やはり逆に飾ります。

3 撥を掛けるものが無いときは、2絃・3絃を利用して、絃にはさみます。
これは『平家音楽史』の表紙画にある方法です。
【徳川将軍と弘前藩主のリスト】

私自身が調べ物をするときの早見表として作りました。
ほとんどWikiを参考に作っています。
http://www4.plala.or.jp/heikebiwa/pocket/hanshulist.htm
こちらにもアップしてありますが、
個人的にmixiで閲覧するときのために載せます。

飽くまでも早見表ですので、おおよその年代や名前の確認としてお使い下さい。
詳細は、必ずWikiの該当ページや歴史年表を確認して下さい。
超亀レスですが・・・
#14
>「あの扇の真ん中射させて賜せ給へ」と願ったにもかかわらず
>「扇の要際一寸ばかりおい」たところを射切ったことについて
>与一はどう考えているのだろう、という議論もありました。

以前聞いたのですが(どなたから聞いたのか忘れました。もしかしたらmadoka♪さん?)
「皆紅の扇の日出たる」
すなわち日の丸の真ん中を射てはいけないので、少しずらしたという話です。

微妙にずらす力量があるので、#8
>ついでに友人達と「那須与一とウィリアム・テルのどちらが力が上か」 という議論?もしました。
私は那須与一に一票
>火の鳥さん
コメントありがとうございました。
「真ん中を外す」ですか。なるほど、禅や茶の考えに似ていますね。
私は言った覚えはないですけれど、私が口走りそうなことですね……?
扇の的までが約20mであった場合は、与一なら真ん中を少し外ずせたでしょうね。
【平家物語の成立、平曲の成立】

『平家琵琶にみる伝承と文化』を読んだ方と成立についてお話する機会がありました。
せっかくですので、平曲を語る立場からの持論をば。

平家物語の成立については、大学院時代の日本文学の先生から
「成立論に足をつっこむと大変なことになる」と聞かされていたのと、
そもそも生活文化史が専門ですので、詳しく研究したことはありません。
ただ私は「平家物語は、文学研究者たちの定説よりも早いうちから、
平曲とともに展開したのではないか」と感じています。

同時進行とまでは申しませんが、琵琶で語ることを前提としていたように思うのです。
もちろん詞(コトバ)は諸本によって異同がありますし、
数百年の年月をかけて語り込むうちに洗練された句があることも事実です。
でも、変容する余裕を持たせてあったと考えることもできます。

平曲の成立については、しばしば『徒然草』が引用されます。
比叡山の「慈鎮和尚(声明に詳しい?)」と「信濃前司行長(雅楽に詳しい?)」が
盲人の「生仏」に語らせたというものです。
史料が少ないので事実かどうかは不明とされています。

「生仏(しょうぶつ)」=「盲人」と捉えがちですが、
私は「皇族か公家出身の中途失明者」と考えています。
ですので「雅楽に詳しい人と、声明に詳しい人と、貴族出身の中途失明者とが関わっている」
という意味において、『徒然草』の文章を評価しています。
【五線譜にはあてはまらない】

大学生の頃から7年ほど、ヤマハ音楽教室でラテンパーカッションを習いました。
ラテンでは、画像のような「基本のリズム」が存在します。
五線譜にすると、4分の4拍子と8分の6拍子では「拍」がずれるのですが、
先生によると、現地(キューバ)の人々は「どっちも同じだよ」と言うそうです。
しかも、1小節目の途中までで、1(ウノ)2(ドス)と数え、
2小節目の前から、1(ウノ)2(ドス)3(トレス)と数えるとのこと。
つまり、五線譜の4分の4拍子や8分の6拍子で考えるものではないのです。

平家琵琶の語り方の口伝にも、しばしば似たような事例があります。
声を出すときの旋律を五線譜にすると
「四度」になったり「五度」になったりするものがありますが、
でもこれは、無理やり五線譜にするから違って見えるだけのことで、
実は「同じもの」を語っているのです。

明治維新以後、日本の伝統音楽は次々と五線譜化されました。
一種の記録方法としては五線譜は有効ですが、
平均律では表しきれない音階や大らかさが失われる上、
「同じもの」を語っても、五線譜を論拠に批判・否定される事例も生じました。
また、平均律を使った旋律で語る(弾く)人を上手と評価する傾向も否めません。

伝統音楽や民俗音楽には、五線譜にあてはまらない旋律やリズムがたくさんあります。
私自身、平家琵琶を習う前にはピアノを習っていたため、
ついつい五線譜で考えようとしてしまうことがあるので、
平曲の本質(西洋音楽では評価されにくいもの)を見失わないように心がけています。
岩波新書 兵藤裕己「琵琶法師」感

眉に唾をつけながら一通り読みました。
第一印象は内容ではなくカタカナが多い。分かりにくいということでした。
何故日本の歴史を語るのにアルカイック・メタファーなどという横文字を使うのか
母型にマトリクスなどとルビを振るのかわかりません

それはさておき内容は
盲僧琵琶に関してのみ書いてあるのであればなるほどと思うのですが、平家琵琶が微妙に絡んでいるので
「?」が並びます。
近世以前のことはわかりません。平家琵琶も下層階級の目の見えない人が語ったと受け取れますが、膨大な量の平家物語を譜も含めて暗記するのは相当な能力の他に知識も必要だと思います。
創作をすることができないのですから一字一句丁寧に伝承されたのだと思います。
相当裕福な階級の出身でないと経済的にも不可能なのではないでしょうか?

楽器そのものも「盲僧琵琶と同じだったものが楽琵琶を模してさらに便利なように小型化した」と書かれています。しかし推測に過ぎないものがあのように書かれると、いずれ一人歩きするのでそれが怖いです。

柱の数についても盲僧琵琶と楽琵琶の折衷とはどういうことなのでしょうか?

蝉丸のことなどについては何も知識がないのですが鵜呑みにしないように気をつけようと思います。
>火の鳥さん
コメントありがとうございました。

■日本の文学や芸能史にカタカナ文字の用語が使われるのは、
ある種の流行なのでしょうね。

■かつて、庶民階級の盲人の中に「平家も語るしお経も唱える盲人」もいたのは、
事実と思いますし、周囲の人々も当時から混乱していたのでしょう。
ただ、「庶民階級」と「伝承の責任を担う上層階級」とは区別して考える必要があります。

■楽器に対する俗説が今なお掲載されていることには、ちょっとがっかりしました。
「琵琶法師のDVD付き」ということで新聞に大きく載ってしまいましたので、
この俗説がまたしばらく独り歩きするのは避けられないでしょうね。

ちなみに平家琵琶は、「(楽琵琶の)小琵琶」を使っています。

■盲僧琵琶の言い伝えには、「六柱」があったということが書かれていましたね。
しかし、柱は音階とのかかわりでつけるものですので、
音階に触れずに、柱の数を比較しても、意味はありません。

なお、「琵琶の形状を細部まで伝えている」六柱の琵琶の絵ですが、
修士論文で「盲人や琵琶を描いた絵(盲人は230名以上、琵琶は約百面)」を検証した経験から、
あれは、勢いで6つ描いたか、「承絃」が柱に見えるかのどちらかと私は判断しています。

余談ですが、「ありえない方向に海老尾が曲がった琵琶」などは多数見ました。
江戸になると、「覆手がなく、三味線風に絃を張った琵琶」も出てきます。
いずれも、くっきりはっきり描いてあります。

■蝉丸は、歴史上、何人も存在したようですよ。
角川ソフィア文庫版「平家物語」

高校時代に暗記した「祇園精舎」が本文と巻末に小秘事として載っていました。
興味深かったので比べてみると大分違います。
1盛者必衰(本文) 盛者必滅(小秘事) (以下この順番)
2ひとへに風の前の塵に同じ  塵の如し
3民間の憂ふる所を知らざりしかば  知らざツしかば
4一品式部卿葛原の親王
  かづらはら  かつぱら
5御子高見王 これはどちらも「ミコ」ですが、
  御子高望王 「おんこ」 「ミコ」
6鎮守府将軍良望(よしもち) 良茂(よししげ)
  良茂でも「よしもち」と読みますが・・・

私の記憶は3以外は前者です。


続く「延喜聖代」

六位を召して、あの鷺取って参れと仰せければ(中略)綸言なれば歩み給う。
鷺羽づくろいして立たんとす。宣旨ぞと仰すれば、平んで飛び去らず(後略)

六位が取ってきたのに何故五位鷺?と思ったのですが、「宣旨ぞ」と仰ったのは醍醐の帝なのですね
六位の言うことは聞かずに飛び立とうとしたのを帝の仰せでおとなしくなったということですね。
>火の鳥さん
諸本の比較については、このトピが目指すものとは異なりますので、今後はご遠慮ください。
一般論を手短に。
・祇園精舎の異同は、ほかの句と比べると少ないとされています。
・主語がないので、会話文などは敬語に注目して主語を補う必要があります。
【出光美術館で琵琶の絵を探す】

出光美術館の「やまと絵の譜」展に行ってきました。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/index.html
5つの屏風絵・絵巻等に、琵琶や座当(座頭)が描かれていて、ラッキーでした。

■江戸名所図屏風
左隻
日本橋あたりに、盲人の集団が、どこかの家を訪問する図があります。
このほかに、歌舞伎座の見物人に2人、船の上に1人、座当が描かれています。
座当は浅葱色の衣装に赤い菊綴がついているので、すぐにわかります。
右隻
浅草の対岸(向島あたり?)に、野外の宴席で三味線を弾く座当がいます。
神田あたりで、女性の膝枕でくつろぐ座当もいます。
クリップ屏風絵に描かれる盲人のほとんどは、座当かそれ以下の位です。
平曲を語れた可能性は否定しませんが、平曲を後世に伝え残すような身分ではありません。
音楽史・国文学の概説書等で、しばしば屏風絵の“琵琶法師”が例示されていますが、
衣装や当道制度から考えて、平曲の伝承(責任)者として扱うのは危険です。

■福富草子絵巻 ※場面替あり
緑色の衣装で下駄を履く盲人と、
その手引をしながら琵琶を運ぶ裸足の盲人が描かれている場面が
ちょうど展示されていました。

■橘直幹(なおもと)申文絵巻 ※場面替あり
火事の場面で、袋に包まれた筝と一緒に、何か黒い箱が運び出されています。
この箱の中身、私は「楽琵琶」と確信しています。
楽筝と楽琵琶は、たいていセットで描かれるからです。

■木曾物語絵巻(伝住吉如慶) ※場面替あり
巴御前が御田(おんだ)八郎の首をねじ斬る場面が展示されていました。

■白描中殿御会図
順徳院が8月13日に楽琵琶を弾く場面です。
彩色はほとんどない分、筆の勢いが感じられて面白いです。

■雪月花図(冷泉為恭)
右には、屋敷の奥の間に、袋に入った楽筝と楽琵琶が並べて置かれています。
左には、屋敷の棚の上に、袋から出された状態の楽琵琶が飾られています。

■宇治橋柴舟図屏風(土佐光起)
上流で刈られた柴が舟に乗せられている図で、
平家物語と直接関係があるわけではありませんが、
宇治橋付近の「逆巻く水も早かりけり」が大胆に表現されています。

7月20日まで開催とのこと。
【平成21年度 文化庁 芸術団体人材育成支援事業】
《 鳴海家本「平曲吟譜新集」に関する情報交流 》

こちらでの報告がすっかり遅くなりましたが、
平成20年秋に平曲研究所で応募した事業が採択され、
昨年度は、親戚が所有する譜本のデジタル化に取り組んでおりました。

■「平曲吟譜新集」
現代の晴眼者が稽古に用いる譜本は「平家正節(へいけまぶし)」で、
教習順に編纂されているため、平家物語の順に語ったり鑑賞したりするには不向きです。
「平曲吟譜新集」は幕末から明治にかけて、弘前藩の藩士が、
平家正節を平家物語順に再編纂し、大秘事3句を除く196句を収録した、
保存状態が極めてよい譜本です。
私の親戚の蔵本ですが、非公開です。
そこで、本事業では、これをデジタル撮影し、DVDに収録することにより、
原本の複製保存を図るとともに、平曲伝承者や研究者に広く利用の便を図りました。
DVDは限定配布としましたが、平曲学習者や鑑賞者のために、
有名な章段20句をWeb公開しました。

■撮影
印刷会社にて、写り込み軽減、色の調整、和紙の皺の除去などの処理を行いました。

■DVDビデオ
データの保護と利便性を考え、DVDビデオ形式で収録し、
関連研究機関と平曲相伝者に限定して30枚を作成しました。
一般の閲覧が可能かは不明ですが、次の関連研究機関に3月末日付で送付しています。
1.文化庁(東京)
2.弘前市立弘前図書館(青森)
3.伝統芸能情報館(東京、国立劇場)
4.早稲田演劇博物館(東京)
5.国文学研究資料館(東京、立川)
6.宮崎文庫記念館(富山)
7.愛知県立大学文字文化財研究所(愛知)
8.国際日本文化研究センター(京都)
以上8か所です。

■解題
ひろく情報交流に寄与する内容を目指し、平曲吟譜新集の概要や跋文、
館山家所蔵の譜本の情報、句の索引(平家物語順、平家正節順)などを含めました。
印刷部数は100部です。
Webでもご覧いただけます。

■Web掲載
平家正節一之上下から10句、名古屋伝承句8句等を含む20句を掲載しています。
http://www.heikyoku.org/
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