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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第三十二回 作品 匿名C 『消しかす』

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 シャンプーを詰め替えること、平泳ぎをすること、筆ペンで名前を書くこと、半熟卵を茹でること、小数点以下の計算を暗算すること。
 得意なことはたくさんあるけれど、だれにも負けないと思うことはひとつだけだ。
 諦めること。
 初めて覚えているのは、六歳の時の夏祭りだ。わたしと弟は母親におねだりをして、金魚すくいをした。弟の網はすぐに破れてしまって、弟の分の気持ちも背負うことになったわたしは網を握る右の掌に汗をびっしょりかいた。弟はわたしのTシャツの裾を引っ張ったまま、金魚の泳ぐ小さなプールを覗き込んでいた。わたしは息を止めて金魚を網で追いかけて、そしたら、三匹すくうことができた。
 立派な尾ひれを持った、真っ赤な金魚だった。わたしも弟も大喜びだったけれど、母親は一匹しか持ち帰ることを許さなかった。
 すごくいやで悔しくてわたしは泣きそうになったけれど、すぐに弟が泣きわめいたから、泣けなくなった。小さなお椀の中の二匹は、諦めることにした。
 わたしは、諦めることがとても上手だ。
 楽な委員ナンバーワンで競争率が高かった、中学校の時の図書委員。塾で好きになった、理科の成績が良かった陣内くん。二駅隣にあった、私立高校の可愛いセーラー服。
 諦めること。コツさえ掴んでしまえば、そんなに難しくないし、悲観されるようなことでもないし、むしろ精神衛生上いいことづくしだ。
 その一、諦めることに決めたら、迷わない。迷いそうになったら、迷うことを諦める。これは実践を繰り返せば簡単にできるようになる。その二、最初から欲しくなかった、知らなかった、なかった、そういうことにする。その三、ほかのなにかのことを考える。たったこれだけで、諦めることはうまくいく。
 それなのに、それなのに、それなのに、こうやって生きてきたのに、いま、わたしは焦っている。ぶりかえしたのだ。
 深井夏美、四十三歳、恋をした。
 十四年ぶりに、恋をした。
 会社に弁当を配達にやって来る男の子だ。まだ二十代になったばかりくらいで、男性という感じはしない。わたしから見たら、あれは完全に男の子だ。名前は、鈴木くん。青色の爽やかなストライプシャツの制服の左胸に、「まいにち弁当 SUZUKI」と名札がついている。SUZUKIと表記していること自体が若くて、そして何より、まぶしい。
 まいにち弁当は数年前から使っている弁当屋で、オフィスに残っている社員のほとんどが利用している。注文票に希望のチェックをつけて、お金と一緒に総務担当の女の子に渡す。その子が毎朝ファックスで注文をして、配達された弁当を受け取り十人前後の社員の机に配る。ビルのワンフロアに収まる小さな会社だから、弁当の配達が来ればわかるし、総務の子がいなければ他の社員がかわって受け取ることもある。だから当然、わたしも配達に来た人と話したことはある。
 けれど、鈴木くんは違った。とにかく、違った。
 先月半ば、総務担当の西山さんが辞めた。お盆休みが明けてすぐのことだった。電話一本で辞めてしまった。色白で可愛い、おとなしい感じの子だった。会社は、携帯ショップに特化したコンサルティング業務をしている。わたしはコンサル営業ではなく、お店で使うポップの作成を担当している。一日中オフィスにいるから、西山さんと話すこともけっこうあったけれど、本当に普通の子だった。「若い子ってそんなもんかな」とたった一人の同期と感想を言い合った。
 総務に新しい人がくるまで、どういうわけか、わたしが弁当の発注と受け取りをすることになった。面倒くさいと思ったけれど、最初からわたしが担当だったことにして、新しいポップを何通りも考えて、うまいこと諦めた。
 そしたら、鈴木くんだ。SUZUKIくん。まぶしかった。「まいにち弁当です」の溌剌としたひとことに、やられた。その躍動感というか、生命力というか、全部がまぶしかったのだ。
 恋、らしかった。
 二週間くらいは気がつかなかった。どうしてなのか、動悸がする。ぼんやりする。火照る。すぐにお腹がいっぱいになる。これはいよいよ更年期かもしれないと思った。アミノコラーゲンと亜鉛のサプリメント、無調整豆乳を毎日欠かさず飲んでいるのに、とうとう更年期がやってきた。
 けれど、なぜか、症状は昼時になると強くなる。どきどき、ばくばく、あつあつ、くらくら。そして、鈴木くん。どきどき、どきどき、ばくばく。
 恋かもしれないと、思った。
 焦った。
 がっかりした。
 恋をすることは十四年前に諦めた。結婚を諦めてからちょうど一年後のことだ。いつも通り、正しい順序できっぱりと、うまいことちゃんと諦めた。
 一度諦めたことを、ぶりかえしたりしたことはなかった。得意なことだから、当たり前だ。ぶりかえしたら、諦めた意味がない。
 そんなことは、許されない。
 おつりのないように集めたお金をクリアケースから出して弁当をカウンターに置いてもらっていると、爽やかなシャツの左胸のポケットからペンギンが顔を出していることに気がついた。原因不明の動悸を鎮めようとしていたら、SUZUKIの名札のちょうどZUの上のそれと目が合った。小さな点のような離れた目と黄色いくちばしのちょっと不細工なペンギンだった。
 あまりに凝視し過ぎたのか、鈴木くんはペンギンの頭を掴んでみせた。それは、なんてことはないノックの部分がペンギンの形になっているボールペンだった。柄のところに、アルファ水族館と書かれている。
「ペンギン」
そう、声に出していた。
「水族館、好きなんすよね」鈴木くんが言った。
アルファ水族館は、わたしも一度だけ行ったことがある。ファッションビルの最上階に入った、ちょっと小洒落た水族館だ。東京に遊びに来た弟の家族と一緒に行って、甥っ子にペンギンのぬいぐるみを買ってあげた。
「よく行くんすよ」
その瞬間だった。わたしは、思ったのだ。
 誰と、行くの。ひとりで、行くの。誰と、誰と、誰と行くの。
 それで、更年期じゃなかったことが確実になった。どきどき、ばくばく、あつあつ、くらくら。これは、もしかしたら、そうかもしれないと思った。
 がっかりした。
 ちゃんと諦めたのに、十四年も前にきっちりしたのに、失敗したと思った。
 その日の夜だった。わたしは、夢を見た。
 白い教会のチャペルで、わたしは参列者のひとりとして新郎新婦を見ている。あまやかな鐘が鳴っている。柔らかい風が吹いて、祝福された二人が振り向く。ウェディングドレスとタキシードに身を包んでいる、それは、二匹の金魚だった。真っ赤な、立派な尾ひれを揺らしている。わたしが諦めた、あの金魚たちだった。
 金曜日の夜、ちょっとお洒落な都会の水族館は、大人たちで賑わっていた。写真を撮るのに夢中になっている若い女性のグループ、肩を寄せ合っているカップル、ぽつりぽつりとわたしのような一人の女もいた。
 柱に埋め込まれているライトアップされた水槽では、くらげが揺れていた。ガラス張りになっている足元では、紫色の小さな細長い魚が泳いでいた。壁一面のひと際大きな水槽の一角では、これまた大きな亀がこちらにお腹を見せて、のっそりと泳いでいた。
 ペンギンは、いなかった。
 鈴木くんは、どこにもいなかった。
 混み合うエレベーターに乗って、一階まで降りた。化粧品売り場を抜けて外に出ると、東京の夜があった。右からも左からも、たくさんの人が行き交っていた。
 甘い匂いがした。少しだけとげのある、ねっとりとした甘さだった。金木犀だ、と思った。ビルの脇に、背の高くはない木が等間隔に植えられている。毎日通っている道なのに、全然気がつかなかった。
 甘い、匂いだった。
 シャンプーを詰め替えること、平泳ぎをすること、筆ペンで名前を書くこと、半熟卵を茹でること、小数点以下の計算を暗算すること。
 きっちりと、諦めること。
 わたしの得意なこと。
 十四年ぶりのどきどきを、あとちょっとだけ、許してあげること。

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