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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第104回 かとう作 「彼女の日々」(三題噺「月」「湖」「鬼」)

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 けいちゃんの背骨は少し曲がっている。肩甲骨のところで、わずかに右に膨らむ。
 私はそのカーブを指先で撫でるのが好きだった。
「ふふ、くすぐったい」
 こちらに背中を向けているけいちゃんの声が、布団の中でくぐもって聞こえる。起こしてしまったのか、もともと寝ていなかったのか。こういうとき、鬱陶しがらない彼の温厚さが好きだ。そこが夫とは違うところである。
 もうそろそろ、帰り支度をしないといけない。おそらく時刻は九時を過ぎている。実家には、職場の飲み会だと言って、次男を預けていた。きっと今日も母に小言を言われる。
 母は気づいているだろうか。飲み会に行っているはずの娘は今、夫じゃない男とベッドの中だ。飲み会だと言ってけいちゃんの部屋に行くのはいつものことだ。もういい加減、母は知っているのかもしれない。知っていながら、娘を送り出しているのかもしれない。
「そろそろ行くね」
 起き上がって服を着る。
「また来てね」
 けいちゃんは私の背中に向かって言った。ごそごそ起き上がって、裸のまま後ろから抱きついてくる。
 けいちゃんの匂い。それまで嗅いだことはなかったはずなのに、初めてのときからなぜか懐かしさを感じていて、今ではすっかりなじみ深いものになった。
「ん?」
 けいちゃんの、私の頭を撫でる手が止まった。
「なに?」
「なんか、ここ、こぶになってない?」
 そう言って、けいちゃんが私の頭頂部にそっと触れる。
「そう、なんか、急に出てきた」
 頭にごく小さなこぶに気がついたのは、先週末のことだ。ちょうど頭のてっぺん、紙で隠れたところだ。小さいがとても堅いので、
「ぶつけたんじゃなくて?」
「覚えてない。ぶつけてないと思う」
 私の額に、小さなこぶのようなものが出現したのは、先週末のことだった。夜風呂で髪を洗っていたら、指先に小さな堅いものが当たる。風呂上がりに次男に見てもらったら、なにかニキビのようなものができているという。しかし、ニキビにしては妙に堅い。押してみると、とても痛む。
 私は来月で三九歳になるが、こういうことが起きたのは初めてで、そのことが妙に不安をかき立てた。
「角でも生えてくるのかな。鬼みたいに」
 そう言ったら、けいちゃんは笑っただけだった。それがなぜだか悔しくて、私は言葉を重ねる。首をねじって、彼の目を見ながら。
「こんなことしてるから、みんな怒ってるのかも」
 こんなこと、も、みんなと言うのも、今更明言するまでもない。そのくらいには、けいちゃんとの間でこの類いの会話は交わされた。会話というよりは、私が一方的に嘆くだけだったが。
 今更何を言っても仕方がないのはわかっている。それでも言わずにはいられなかった。
 けいちゃんの顔から笑顔がふっと消えた。いつも言うことは同じだ。
「やめてよ、そんなこと言うの」
「きっと鬼になるんだよ、私は」
 馬鹿げていると思いながら、いつもけいちゃんの、深くて曖昧な優しさに甘えてしまう。声が涙で震えてきて、我ながら本当に滑稽だと思う。
「あみちゃんはいい子だから。鬼になんてならない」
 抱きしめてくれる腕の中でしゃくりあげながら、本当にそうだろうか? と私は考える。 こういう場合は、いっそ鬼になってしまったほうが楽なのだろう。

 けいちゃんとの秘めた関係を最初に指摘してきたのは、母ではなかった。同僚だ。
「昨日、見たよ」
 朝出勤した際、バックルームでユニフォームで着替えていると、同僚の白田さんに言われたのだ。
 隣のロッカーの前で身支度している白田さんを見ると、彼女は笑っただけだった。笑って、私の言葉を待っていた。
「なにがです?」
「またまた。昨日の夜の話よ」
 なにを見たのか、私に言わせようとしている。そう気づいたとき、ふつふつと何かが腹の下の方から沸いてくるのがわかった。吐き気がする。
 近所の高齢者向けのデイサービスで働き始めてから半年が経とうとしていた。私はここでの女性優位な人間関係に、なじめそうもないと薄々気づき始めている。
 白田さんは私より少し年上の女性で、娘が二人いる。いつも、家でユニフォームで着替えて、職場ではエプロンだけ着けて、そのままユニフォームで帰る。黒のポロシャツにベージュのチノパン、えんじのエプロン。私だったら、仕事を終えたらこんな服、すぐに脱ぎ捨ててしまいたいのに。白田さんは職場が契約しているクリーニング業社も使わず、家で洗濯をしているのだ。自分たちの衣服と一緒に。
「駅前にいたじゃない、あなたたち」
 そこまで言うなら、もう全部言ってしまえばいいのにと私は思う。それであっさり白状してしまった。ため息とともに。
「つきあってますよ。浅野さんと」
「施設長と?」
 白田さんがわざとらしく驚いた声を張り上げるので、私は思わず舌打ちしそうになった。さんざん陰で噂し合ってるくせに。
 浅野圭一郎というのがけいちゃんの本名で、彼は私が働いている施設の責任者だ。私よりも五つ年下ではあるのだが。
 私は白田さんの、いかにも初耳で驚いたふうの、開いた口を見つめた。奥歯のところがいくつか銀歯だ。始業前なので、これからマスクをするのだろう。
 白田さんも私の次に続く言葉を待っているらしい。しかし、私は絶対にこれ以上なにも言うつもりはなかった。
 それで、白田さんが言葉を探すように言った。
「よかったじゃん。あみちゃん、すごいね。私だったら無理。さすがあみちゃんだわ」
 そう言われるのが嫌だから、絶対に言いたくなかったのだ。

 ユニフォームを身につけ、出勤のタイムカードを押すために事務所に入ると、中央に四つほど並んだデスクの窓際に、けいちゃんが座っている。ケアマネの女性たちに囲まれて。
 けいちゃんは顔を上げて、私の顔を見て言う。
「中村さん。おはようございます」
 他人行儀に。
「おはようございます」
 私は返す。なんとなく目をそらしてしまった。
 けいちゃんに無性に会いたくて仕方がなくなった。昨日の晩はけいちゃんの部屋にいたのに。というか、けいちゃんは目の前にいるのに。
 こんな職場のださいユニフォームじゃなくて、裸で何も身にまとっていないけいちゃんに会いたかった。
 働いている間もずっと、私はけいちゃんのユニフォームを破って、ベッドの中で彼を攻め立てているところをずっと妄想していた。デイケアに通う高齢者たちに、にこやかに応じながら。
 こういうことは今まで生きてきて初めてだった。
 四十を手前にして、鬼にもなるし、獣にもなる。私は自分がなにか妖怪じみたものに堕ちていく感覚に陥る。
 男でもなく、女でもなく、鬼や獣の類いの妖怪に。そう思うと、無性に夫たちにも会いたくなる。
 おかしくて笑ってしまう。

 月命日の日には、必ず次男と一緒に墓参りに行くようにしている。墓は海好きな夫のために、浜辺にしたかった。だが、結局は駅近の納骨堂だ。
 毎月訪れたい場所が、行くだけで負担になってしまうのはなんだか悲しい。そう思って利便性を優先させた。それに、夫と長男は水の近くで亡くなったから、水辺はもうこりごりだった。
 便利な場所に墓を買ったわりには、次男はだんだん墓参りを億劫がるようになった。
「まだ一年経ってないんだよ」
 墓参りの帰路、家までの道を歩きながらそう言うと、次男は立ち止まり私の顔を見た。
「お母さんだって」
 だから、次男はもう、私とけいちゃんとの関係を知っているのかもしれないと思った。
 夫と長男が亡くなって、まだ一年も経っていない。次男の道生はこの春で小学四年生になった。
 私を見つめ返す、怒るとたちまちきつい表情になる、大きな二重の目。夫にそっくりだと思う。長男は私に似ていたが、道生はまるで夫のコピーだ。なんだか皮肉だ、と思う。
 道生はまだまだ幼い末っ子だと思っていたのに、そうではないらしい。
 責めるようなまなざしは、汚らしいものを一切受け付けないような潔癖さもともなっている。私は自分の息子がいつまでも子どもではいてくれないことを、そういう目の光から見てとる。

 最愛の夫と息子を亡くして一年経たないうちに男を作る。それが社会的に好ましくないことだというのを、私はじわじわと実感させられる。
 例えば、聞くつもりもなかったのに聞いてしまった同僚たちの会話で。
 塾帰りの道生を、駅前のドーナツショップで待っていたときのことだった。その日は塾の終わりが遅かったので、塾の隣にある店で、道生を待つことにしていた。
 カウンター席でドーナツを食べながら文庫本を読んでいると、仕切りの向こうから聞き覚えのある声がしてきた。
「で、あんた今日、旦那大丈夫なの?」
 同僚の白田さんだった。仕切りの陰からそっと覗いてみると、近くの二人がけの席に、白田さんが座っていた。その向かいには、やはり同じ職場のパート主婦が座っている。
「別に、うちはもう子ども大きいし、適当に食べてるでしょ」
「まあね。いなければいないで、どうにでもなるのよね、主婦なんて」
「そうそう、むしろ、家にいても子どもたちに煙たがられるしね」
 時刻は八時近かった。彼女たちの声は大きくてよく聞こえる。私はまた仕切りに身を隠し、必死で存在を消す。まだ塾が終わるまで時間があるが、店を出ていこうと立ち上がりかけたときだった。
「そういえば、知ってる? 中村さん」
 急に会話に自分の名前が出てきて、私は上げかけた腰を下ろした。
「ああ、”あみちゃん”ね」
 同僚の意味ありげな返事ひとつで、私は職場でよく思われていないのだろうということを知る。
 施設に通う老人たちは、私のことをなぜか下の名前で呼んだ。もちろん、中村さんと名字で呼んでくれる人もいたが。
 ねえ、あみちゃん。ちょっと来てよ
 孫のように気安く私を扱ってくる老人たちのことは、わりと好きだった。認知症がすすんで名前も覚えてくれないのに、ただ私の手を握って涙ぐんでくれる、優しい老婆だっている。
「そうそう、そのあみちゃんさ。施設長と付き合ってるんだよ」
「まじで?」
 こうやって噂は広まっていく。自分の胃が動いて、胃液を噴出させる準備をしているのがわかる。
「なんかすごいよね」
「うん、よくやるわって感じ」
「夫と子どもがあんな亡くなり方してるのにさ。よく恋愛とかできるよね。私だったら、悲しすぎてそんなの無理だと思う」
「私も。中村さんって強いよね」
 もう我慢ができない。
 そう思う前にはもう、足が勝手に動いていた。立ち上がり、ずんずん彼女たちの方に突き進んでいく。こちらを向いた白田さんが、驚いた顔をしている。
「なんだろ、家族より男って感じなのかな。生きのこったほうの子どもが可哀想じゃない?」
 向かいに座っていた同僚は、まだ私に気づかずしゃべり続けていた。白田さんは、その腕をばんばんと叩く。
「え? なによ?」
 彼女もやっと私の方に振り向く。
「あっ? 中村さん?」
「こんばんは」
 そのとき、私は彼女たちの前に立ち、なぜだか最高の作り笑顔を浮かべていた。
 他人から見て感じのいい笑顔の作り方は、自分でもわかっている。もちろん私は絶世の美女じゃないから、夫だとかけいちゃんみたいな、やわな男しか引っかからなかったのだろうけれど、それでも、今まで人の心にするりと入り込んできた顔なのだと思う。
 それが今、私の顔に張り付いている。自分を守っていた笑顔なのかもしれない、とも今気がつく。
「偶然ですね」
「そうね」
 彼女たちは明らかに動揺していた。私は無意識にトレーを持ってきていて、聞きもせずに近くの椅子に座ったのだから。
 彼女たちは何も言えないでいた。会話を聞かれたかどうか、二人で目配せしながら必死で考えているようだった。
 沈黙が少し流れたあとで、私は口を開く。
「息子の塾が遅いんですよ。だから、今日は迎えに行こうと思って」
 そう言って、私はドーナツを囓った。カフェオレを飲み、またドーナツを食べる。
「ああ、そっか」
 ただただ、咀嚼している私を見て、白田さんは苦笑いを浮かべて言った。
 また沈黙が流れる。ただ、私がもしゃもしゃとドーナツを咀嚼している音だけが、空間を埋めているような気がする。同僚たちは気まずそうな笑みを浮かべて、時折二人で目を合わせて、私を見ようともしなかった。それで、私はドーナツを食べながら、そんな二人を観察した。
 私はドーナツを食べ終わってから言う。
「私だって、生き残ったほうの息子が、世界で一番大切なんですよ」
 言った途端に、自分の言葉の響きがあまりに陳腐で、泣けてきた。勝手につうっと綺麗に涙が流れてしまう。
 それを見て、彼女たちは明らかに慌てだした。白田さんが鞄をごそごそあさって、ポケットティッシュを手渡してくれる。駅前で配っている安っぽいのが、使いかけで忘れ去られて、鞄の底でくしゃくしゃになったような汚いやつだ。
「聞いてたのね。ごめんね、ほんとに。泣かないで」
「いえ、泣いてる場合じゃないんです」
 私の答えは支離滅裂だった。
「大丈夫?」
 私は答えずに立ち上がる。
「息子にドーナツ、買っていこうかな」
 そう言ってレジ横に並んでいる陳列棚に向かう。
 泣いている場合じゃない。私はもうこの世に一人しかいない息子に、ドーナツを買ってあげないといけない。今日は塾が遅くて疲れているであろう息子に。
 おかしなことだが、私の胸はそういう使命感に満ちていた。そんなふうに自分を設定をしないと、立ってもいられない気持ちだったのだ。ドーナツをトレーにのせて順番を待っていると、自分の足が小刻みに震えるのがわかった。
 彼女たちの視線を背後に感じる。そういう視線に負けるのは嫌だった。会計を済ませ、涙を拭いてから振り返り、私は彼女たちににこやかに挨拶をしてから店を去った。
 店を出た途端に、買ったドーナツの紙袋をビニール袋から出す。ビニール袋に向かって、さっき食べたドーナツを胃袋から出す。なんでもないふうを装い、すたすたと店の脇の、人目につかないところに向かいながら、道路に背を向けて。
 我ながらすごい、と思う。
 アラフォーにもなると、嘔吐でさえさりげなく済ませられる。もちろん程度にはよるが。
 ドーナツを吐いてしまったら、気分はすっきりしたものだった。先日生理が終わったばかりなのだから、つわりではない。第一、この吐き気はけいちゃんと付き合う前からだった。
 少量とはいえ、ビニール袋一枚で包んだ自分の吐瀉物を持っているのは不快だ。
 道生が塾から出てきて、いきなり私は尋ねた。
「みっちゃん、ドーナツ食べない?」
「なに? いきなり。食うけど」
 私はドーナツを取り出して息子に渡す。
「今? 家で座って食べようよ」
 夫に性格まで似た次男は、私と違って几帳面だ。まるで母親のようなことを私に向かって言う。
「お母さん、さっきゲロ吐いちゃってさ。なんでもいいから袋がほしいのよ」
「また? 大丈夫?」
 次男はそう言ったが、私が手持っているビニール袋を見て、明らかに気色悪そうな顔をした。私は構わず、二つ目のドーナツを道生に持たせ、ビニール袋を紙袋に入れて、その口を折る。
「いい加減、医者行きなよ」
「どうせ、行っても心因性とか言われるだけでしょ」
 ドーナツを両手に持って夜道に佇む息子を見て、私はなんだか愉快な気持ちになった。
「はは、受ける。写メ撮っちゃお」
「写メとか、おばさんしか言わないらしいよ」
 ドーナツを両手に掲げる道生を、スマートフォンのカメラで連射する。スマホを鞄にしまうと、道生が私を見て言う。
「なんか、明るいよね、お母さんって」
 呆れたように。
 未亡人は恋愛をしてはいけないし、明るくてもいけないらしい。

 あの人の笑顔が怖いんだって、犯人が言ってるらしいですよ。
 弁護士がそっと教えてくれたが、なぜかはわからない。言った本人だって、よくわからず口にしてしまったのではないか。
「私の笑顔が?」
 そう言って見返した弁護士の顔が、なぜかしら恐怖に凍り付いたような顔をしていたからだ。まるで、私の笑顔を怖れる犯人自身のように。
 すみません。
 弁護士は小さな声で言った。
 初公判の日、被害者参加人として法廷に私はいたが、冒頭陳述を聞いて笑ってしまったのだ。
 検察官は、犯人が夫と息子の命を奪った日のことを、淡々と述べていた。事件の概略は、簡単なものだった。
 私たちは子どもたちの春休みを利用して、箱根に旅行に来ていた。湖をぐるっと回る遊覧船に乗った。そこへ、ナイフを持った犯人も乗り合わせていた。いきなりナイフを持って暴れ出す男を見て、乗客たちは湖へ逃げたが、不運なことに、夫と長男は犯人の一番近くにいた。犯人はまず長男を捕まえて刺し、助けに入った夫を刺した。私はその光景を見ながら、次男を突き落とすようにして湖へ飛び込んだ。
 それだけの話だ。
 どうして遊覧船で人を襲おうと思ったのかと問われたとき、犯人はか細い声で言ったのだ。
「子どもの頃、両親が乗せてくれたから」
 それで、私は笑ってしまった。声を立てて笑ったら、裁判長にたしなめられるいうより心配されてしまった。私は笑いながら謝る。
 大丈夫ですか? と近くにいた女性の検察官が私の腕に触れる。私はおかしくておかしくて、立っていられなくなる。
「だって、おかしくないですか」「おかしいですよね」「子どものころ、親が連れてきてくれて楽しかったんでしょ?」「それで? 人殺す? おかしいでしょ?」
 どうやらおかしくなっていたのは私の頭のほうだったらしい。意見陳述の際、予定にもないことをべらべらしゃべったのちに、私は机に盛大に嘔吐した。笑っていたら突然吐き気がこみ上げて、止められなかったのだ。
 裁判所で嘔吐した人間なんているだろうか? わざわざ被害者参加制度に手を挙げてここにきたのに? そう思うと途端に恥ずかしくなったが、同時に私は、自分が怒っているのだと気がついた。
 被害者遺族は、怒りのやり場が見つけられない。その立場になって初めて気がつき、あまりの理不尽さに笑ってしまい、そして嘔吐したのだから、そうか私の怒りはゲロなのかと思って、私はまたおかしくなってきた。もうどうしたらいいのかわからない。気づくと私は退場させられていた。
 犯人は、私のゲロまみれの笑顔が怖かったらしい。
「あのとき吐いちゃってすみませんでした」
 そう言うと、弁護士は困った顔をした。

 けいちゃんと初めて寝たのは、その翌日のことだった。彼の好意には気がついていた。しかし、夫を亡くして初めて就職した職場で男に手を出すのはさすがにやめておこう、そういう分別だって私にはある。
 それなのに私はなんだかその日加虐的な気持ちになっていて、仕事のことで相談したいことがあるとかなんとか、いかにもなことを言って、けいちゃんをご飯に誘ったのだ。
 そこから独身男の部屋に上がり込むのは簡単だった。自分でも自棄になっているとわかっていたが、セックスは気持ちがよかった。そしてけいちゃんは終わったあとで泣いて謝った。彼は最初から、私と体の関係を持つことに抵抗を感じていたようなのに、私が押し切ってしまっただけなのに。
「すみません。一目惚れだったので」
 本当にすみません、と泣く三十代半ばの男を前にして、私はそれをどう捉えたらいいのかわからない。ただ、彼の謝罪と涙は私の胃の底をぐるぐるとかき混ぜて、また胃袋の中がぐつぐつ煮えるような心地がしてきた。
「謝るのはやめて」
 そう言ったのに、けいちゃんはまた、小さな声ですみません、と言う。
「でも、僕本気なので」
「そういうのもやめて」
 私はもうすでに服を着て、出て行くためにけいちゃんの部屋に立っていたが、彼は未だに素っ裸でベッドの中だった。けいちゃんが私の両手を握る。
「もう、こんなふうに会ってくれないですか?」
 そう言ってから、彼は自分の言葉に戸惑ったように顔を赤らめる。
「こういうふうにじゃなくて、中村さんと普通にごはん食べたりとか、したいし」
 私はその言葉を無視した。
「でも、話したでしょう? 私が働き始めた理由」
 面接のときに、けいちゃんには包み隠さず話してあったのだ。
 夫と長男が事件に巻き込まれ、亡くなったので、次男を養うために働かなくてはならない。が、まだ裁判が終わっていないので、最初はフルタイムでは勤務できないかもしれない。
 そんなようなことを言った。
「すみません、中村さんが大変なときに」
 けいちゃんはまたべそをかき始めたが、手を引っ張ってくるので、仕方なく私はベッドに座る。
 情けない男だ。
 そう思いながら、結局抱きしめてやるしかなかった。
「そうじゃなくて。浅野さん、結婚これからでしょ? 私みたいな女に、本気になってる場合じゃないと思うの」
「私みたいな女とか、言わないで」
 けいちゃんはそう言って、私の腕の中で嗚咽した。
「泣くな、大の男が」
「すみません」
 もう吐き気はどこかに消えて去っていた。
「泣き虫は嫌いだ」
「でも、僕はそういうあみさんが好きです」
 けいちゃんだって、するりと私の心の隙間に入り込んでくる。
 よくないことだ、と私は思った。
 夫と長男が生きていたら、きっともっと、不倫を楽しんでいたに違いない。

コメント(9)

なんかドロドロしたエネルギー?ぶつけたいもの?が中からあふれて来る迫力です。パワーの大きさは半端ないです。この設定でけいちゃんとの関係や、職場の下劣な同僚との話を膨らませて、本格的な小説にしたら、相当読み応えあるものになりそうだと思いました。
>>[1]
コメントありがとうございます!
書きたいことがありまして、とりあえずこういう感じにしてみましたが、
今の書き方だと書きたいことが表現できないなと気がつきまして、今本格的な小説にするべく、新たに書き直してます……!
最終的にそれをどこかに応募できたらいいな〜と思っておりますが、完成できたら、もしよかったら読んでくださると嬉しいです〜
読み応えのあるものにできるよう頑張ります。
謝るのはやめて

そういうのもやめて
と立て続けにくるとことか
あーめんどくさいみたいな女性のリアリティも感じます。^^

泣くな・・・から
そういうあみさんが好きです
のくだりとか 吐き気が収まってたり
いろんな描写が編み上げられるように交互に雰囲気作ってるなと思いました

主人公が女性で完全にはその世界に入れないけど
主人公が感じてるその場の世界を共有できた気になれたので
うまくはめられたんだと思いました。
すごく読みごたえがありました。本格的な小説にすべく、書き直されているとのことですが、是非そのバージョンも読んでみたいです。
また、刑事裁判の描写もとてもリアリティがありよかったです。制度などもよく調べられて書かれていることがうかがい知れます。
力作で、続きや、リライトされたバージョンが気になります。もし応募されたら、ひょっとしら、ひょっとすると……という期待感があります。
よい作品を読ませていただき、ありがとうございました。
>>[3]
ご感想ありがとうございます。
女性のリアリティを感じていただけて嬉しいです!
題名は仮なのですが、なんというかリアルな生活を書きたくて。はめようとは思ってなかったですが、はまっていただいて嬉しいです笑
>>[4]
ありがたきお言葉!ありがとうございます。
身の程知らずに大きい賞に応募したいので、箸にも棒にも引っかからない可能性大ですが顔(嬉し涙)でも一次くらい通ったらいいなぁ、と思ってます。
その前に完成させないとですね。
頑張ります〜完成したらまたお知らせしますね。今年いっぱいかけてやりたい仕事なので、どうなるかわかりませんが……!
一読、してました。

「翳りと捩れ」
「光り」

こんなふうに感じました
>>[7]
ご感想ありがとうございます!コメントがなんというか、占いみたいというか詩的で、さすが創作をされる方だなと感じました!
>>[8]
なるほど、今回の王都@今さんが皆さんにされているコメントの形式は、確かに占いみたいで詩的ですね。不思議な余韻があります。占いや詩と表現することは思いつきませんでした。かとうさんもさすが創作される方だと感銘しました。

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