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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第百三回 JONY作 「某個人宅の新年会へお邪魔した話」 (テーマ選択『年末年始』)

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 左側に座った名前も知らない女(説明の便宜上仮にA子という名前をつけよう)がキッチンのカウンターテーブルの上で伸ばしてきた肘が、俺の左肘に当たっているが、俺もその肘を動かすことはしない。A子は、俺と反対側の左を向き、別の若い男と喋っていて、俺は反対側の右隣に座っている若い女(仮にB子としよう)と「複数での交わり」の心理について話している。A子は俺が肘を密着させたままにしていると、徐々に横長のベンチシートの上で身体を俺のほうに寄せてきたが、その動きはゆっくりで、彼女が話している相手の若い男にはまったく気付かれない様子だった。
 ここは、某哲学者(仮にU先生としよう。年齢は70代の人だ)の東京郊外にある自宅で、U先生の社会人クラスの受講生が集まっての新年会だった。俺は自分の店で、読書会を主催している事もあり、他人の講座に顔を出しているような余裕は本来無いのだが、U先生の「フーリエのユートピア論」というテーマに惹かれて受講したのだった。12月でその講座は終了したが、その打ち上げの飲み会の席で、U先生の助手の幹事役の男から、LINE交換を求められ、しばらくしたらLINEで、U先生の自宅新年会に招かれ、『年末年始』のスケジュールの中で、たまたまその日の夜はフリーだったので参加してみたのだった。
 U先生は、東大でフランス語系の人文学をやった後、シカゴ大学で幻想文学の作家でもあるミルチャ・エリアーデの元で宗教学を学び、関西の大学の講師から始めて教授になった男で多数の著書があり、俺が参加したクラスは彼の昔からの教え子(その多くは大学の教職だった)や芸術・出版関係の人間が多かった。俺は、その馴染みのゼミの同窓会のような空気の中で完全にアウェーな疎外感を感じていたが、俺が講義の中でした質問をきっかけにU先生はどうやら俺を気に入ったようで、こうして彼の自宅での新年会の末席に座っていたのだった。
 フランソワ・マリー・シャルル・フーリエ。この名前は、哲学者というより、エンゲルスが、サン・シモン、ロバート・オウエンらと並び「空想的社会主義者」と呼んだことで、世界史の教科書にも乗っている。しかし、俺がフーリエに興味を持ったのは、社会主義研究では無く、彼の著した「愛の新世界」によってである。このユートピア的思想は、性の快楽を中核とした、全面的な自由を求める壮大な構想の下、フーリエが晩年まで原稿を書き続けたものだった。しかし、そのあまりに尖鋭的な内容のため、弟子たちによって危険視され、長い間封印されており、ようやく没後100年以上経った1967年に残された原稿を、シモーヌ・ドゥプーが編纂し一冊に纏めたものである。その中に出て来る「多婚カドリーユ」や「天使カップルの博愛」という独自の発想に興味をひかれたのだ。
 しかし、この興味は、ちょっと上から目線であることは否めない。すでに、世論がLGBTQを公認し,インターネット・マッチングアプリでどんなニーズもフォローできる現代社会と、厳格なキリスト教管理社会とでは、勝負にならない。だが、この21世紀の東京という情報都市においては、じっくりと腰を下ろし、根を生やして、考察する知的な営為が、少なかった。読むのに耐える性愛に関する哲学的研究は少なかった。俺は、性と恋愛を追求するシャルル・フーリエの思考プロセスに惹かれた。結果はたとえ偏執狂的に奇妙であったとしても。
 この「愛の新世界」の中でフーリエは、「文明は姦通を禁止していながら、事実上容認しているではないか。かくも、姦通が多く見られるなら人間は多婚への傾向性を持っていると考えたほうが自然ではないか」と書いている。何を小学生のようなことを言っているのかである。姦通すなわち不倫だから恋愛温度が高くなるのだという考察がまるで欠けている。さらに、フーリエは、欲望の共産主義のようなことも言う。即ち「理想社会では万人に性愛の満足が保証される。容姿に恵まれずに、積極的になれない者たちのために、聖人志願者は、自らの美貌を用いるという善行(※)を果たすのである」
(※ この善行とは性愛のボランティア行為を指す。注釈byJONY)
 噴飯ものである。俺なら、どんなに美貌の女が近寄ってきても、その目的がその女が徳を積んで聖人になるためであるとしたら、お断りだ。
 こんな具合に、「愛の新世界」という700頁を超える大著を、俺は後時代人だからこそ持てる上から目線で、流し読んだ。
 「フーリエのユートピア論」を講じたU先生は、普通に、フランス革命やナポレオンや産業革命との関連で、「愛の新世界」を論じた。まあ、たしかに、啓蒙主義と革命期の脱キリスト教文化の背景なくして、フーリエの性愛理想論はありえない。現代の東京において性愛文化がインターネット抜きには語れないのと同様に。

 ま、フーリエの紹介はしているとキリがないので、それより、問題は、この東京郊外でのU先生宅での新年会である。俺は自分の店でイベントをすることに慣れているので、場の空気を読み、参加者を退屈させることなく、仕切る事に慣れているが、U先生は放置がその方針のようで、参加者もそれに慣れていて、勝手にU宅の応接間やリビングや書斎で持ち寄りの飲食物を紙皿プラカップに入れてそれぞれに様々な話をしていた。
 俺は、仲の良い知り合いもいないので、ひとけのないキッチンのカウンターテーブルのベンチシートの真ん中で、誰かが持ってきた寿司をつまみながら、シャブリをプラカップに入れて飲んでいると、40代の美しい女(A子)が若い男を連れてやってきて空いている俺の左側に座り、その男と話を続けていた。A子は、俺の隣に座ったときも、俺に軽く会釈をしただけで、特に気を使うでも無く、どうやらその若い男がテレビ局のディレクターをやっているらしく、業界の話に余念が無かった。俺にはまるで興味をひかない話題だったので、俺もあえて話に入ろうとはしなかった。A子自体は、U先生の「フーリエのユートピア論」の受講生として、その顔は見たことがあったが、名前も職業も知らなかった。相手も同じだろう。俺のことを新参者として認識しているが、名前も何者かも知らないところだろう。 
 しばらくして、遅れてやってきた若い女の子(上記のB子)が一人でキッチンに入ってきたので、「この白、冷えていて美味いよ」と薦め、自然とB子はキッチンカウンターの最後の空席である俺の右の隣に座った。B子もフーリエの講座の受講者だったが、彼女は同じく受講者の某国立大教授(U先生の後輩だそうだ。仮にY先生としよう)に連れられてきた某国立大の博士課程の院生だった。そんな関係で、B子も新参者で、俺と同様、ほかの受講者とは接点は無かった。
 「君といつも一緒のY先生は?一緒じゃないの?」
 と俺は彼女の為に、アイスペールからシャブリの瓶を抜いて、プラカップに注いで渡してやった。彼女はそれを受取り、俺と乾杯し、チラッと俺の頭越しに、俺の背後のA子らを見たが、彼らは話に夢中でこちらを見もしなかった。
 「Y先生は遅れてくるって。私、一人で初めての御宅に行くのイヤだったけど、U先生の家で先にやっていてくれって言われて、しかたなく先に来たんだけど、新年会っていってもなんにも皆で一緒にしないのね」
 「俺も話す相手がいなくて、一人で飲んでいたんだ。君って〇大のドクター課程だっけ?博論は何で書くの?」
 「レヴィナス。でも結構厳しいのよ。U先生だって博士課程単位取得満期退学だしね」
 「へえ、そうなんだ。知らなかった」
 「口頭試問もあるし、学位をとるのって結構大変なのよ」
 「俺も一応学位審査受けたことあるから分かるよ。修士だけどね」
 「修論と博論じゃ全く違うわ」
 「そうか。でも、Y先生が指導教授なんだろ?君は、先生と仲良いから大丈夫なんじゃないか」
 「変なこと言わないでよ。私はフーリエに興味があって、受講しただけよ」
 「いまどき、フーリエ?フーリエの何に興味を持ったの?」
 「『愛の新世界』」
 そこから、話は冒頭に戻る。俺たちはフーリエの論じる『6人または8人の男女パーティ』や、理想の調和世界では『女性がもはや若くなくなったときでも若い男をものにできる』システムなどについて、話したが、俺は『愛の新世界』を一種のSF小説として勝手に誤読して楽しんでいるのに、B子は現代でも応用の効く社会学的原型(モデル)としてとらえていた。俺はB子とは性格的に絶対に分かり合えないと話し出してすぐに感じていたが、同じキッチンカウンターにいるA子とその話相手のテレビ局員はまったく彼らの世界だし、ほかに話し相手はいないので、部外者が聞いたらどんな変態だと思うような過激な性愛の理想の人数論(男女2人のみに始まり、女1と男2の3人グループ、から女2と男6の8人グループとか)その男女の順列組合せや複数で同時に行うセックスの方法などを話していた。
 しかし、それも突然に中断した。U宅に遅くなったY先生が到着し、誰かが、玄関で大声で「Y先生いらっしゃい!」と叫んだのだった。
 B子は即座に反応し、俺に
 「私、行かなきゃ。面白い話をありがとう」
と言い残し、席をたった。
 動いたのは、彼女だけではなかった。A子とハイテンションで話していたテレビ局のディレクターも、Y先生に用事があったようで、A子と盛り上がっていたのが嘘のように、「じゃあね、また」とA子に手を振ると玄関へと急いだ。
 キッチンには、俺とA子だけがカウンターのベンチシートの中央に身体(俺の左肩から背中とA子の右肩から背中)をくっつけあった形で残された。おたがいにそっぽを向く形でそれぞれ、プラカップを持ち、シャブリと剣菱をそれぞれに飲んでいた。ベンチシートは空いたのだから身体をくっつけあっているのは変なのだが、俺は、相手が身体を動かさない限り、俺のほうから動くことはしないつもりだった。
 また、部屋には二人しかいないのだから、何も話さないのは不自然なのだが、なぜかA子に、今更、自己紹介をして「お名前は?」みたいなことは聞きたくなかった。
 遠くに、遅れてきたY先生を中心とする歓声を聞きながら、俺はカウンターテーブルの上に無造作に積まれた(この家は全ての部屋と廊下の全ての壁が天井まで書棚になっていて、デスクはもちろん全てのテーブルの上にも本が山積みになっていた)写真集・画集の中から「空山基」がアメリカで出した美術書をパラパラとめくり、「愛の新世界」の挿絵に使えそうなフェティッシュで先鋭的な作品を眺めた。隣のA子も俺のマネをして、カウンターテーブルの上の大型本をめくっている。U先生のコレクションなので、中身は見えないが、同じようなものだろう。二人は彫像になったかのように、そのままじっと動かない。身体をくっつけあい、温もりだけを通じさせている。
 A子がプラカップの日本酒を一気に空けたのが気配で伝わる。彼女はプラカップをカウンターテーブルの上に置きそのまま右手をそろそろと俺のほうに延ばしてきた。俺もすぐさまカップのシャブリを飲み干し、左手をゆっくり延ばしていく。お互いに視線は自分の見ている写真集に落としたまま、身体を動かすこともしない。彼女の膝と密着している俺の膝の上に彼女の右手が延びてきた。境界線をそうっと超えるように。
 俺は左手で彼女の右手に触った。触れていいのか確かめるように。
 そして彼女の右手と俺の左手は俺の膝の上で繋がれた。いつのまにか俺の心臓は大きな音を立てて激しい鼓動をしていて、それが彼女に聞かれはしまいかと心配になった。自虐的に思う。
 ----- いい年をして、まるで中学生だな
 そのまま、二人は動かず、ただ時が流れた。俺には永遠にも思えたが、おそらくは数分だったのだろうか。
 この状態は、A子を探しに来たU先生によって破られた。
 「エリ(仮名)。Yさんが来たよ」
 廊下のこの声を聞き、俺たちは手を離し、身体を離した。その直後、U先生がキッチンのドアを開けた。
 「なんだ。K(俺の本名の苗字)さんも一緒だったのか」
 そのときにU先生の表情が微妙に曇ったのを俺は見逃さなかった。

 U先生によって、俺は二つのことを知った。
 一つは、A子の名前がエリであるということ。
 もう一つはどんな人でも歳との闘いには勝つことができないということ。
 俺の気持ちは複雑だった。A子をエリと下の名前で呼ぶこの高名な哲学者とA子の関係がどこまでのものなのかは知らないし知るつもりもない。A子が俺に気があったとは思わない。彼女にとっての俺の価値は、U先生のとりまきの人間関係相関図を知らない新参者と言う点だけだったかも知れない。だが、俺がもしU先生の立場なら、学者でも芸術家でもないただの一般人の馬の骨(俺だ)が自分の信奉者(だか愛人のひとりだか)と二人きりでいたところなど、見たくはなかったろう。
 俺ももう若くはない。いつかはU先生と同じ老齢になり、U先生が俺を見て顔を曇らせたのと同じ気持ちを味わう。
 俺は、今をときめく売り出し中のY先生を中心にしたハイテンションの連中から逃げるように、B子にもA子にもU先生にも挨拶をせずに、俺にLINEをくれた男性の助手にだけ「これで帰ります」と告げて、U先生の自宅を出た。
 家の外は思ったより寒かった。住宅街の坂道に、氷のように白い半月が光り、どこかの家で犬のかすかに吠える声が聞こえた。俺の足音以外物音のしない静かな住宅街をコートの襟を立ててひとり歩く。東京郊外の私鉄の駅はまだ遠い。
                            終

コメント(4)

ちょっと自分の作品を書いてて読み遅れました・・・
いつもすごいです。
はじめて舞台が変わったのを見ました。

今度こそA子となんかあるかなとおもったら
かぎりなくありそうでなかった・・・(笑)

学者って難しいなと思いました 面白かったですーーー
過分なコメントありがとうございます。
誰かに引っ張り上げてもらうことで生きていかなければならない学者の世界と政治の世界、その狭い人間関係だけが大事な世界は、確かにうんざりしますね。それに比べたら世間全体を相手にしていれば良い商売人の気楽さは何者にも替え難いと思います。
JONYさんの作品は、個人的に読後感がとても心地良くて、何度も読み返したくなるのですが、今回の哀愁漂う余韻は格別です。

フーリエも「愛の新世界」も初めて知ったのですが、200年近く前にポリアモリーのようなことを考えていた人がいたのですね!


>さらに、フーリエは、欲望の共産主義のようなことも言う。即ち「理想社会では万人に性愛の満足が保証される。容姿に恵まれずに、積極的になれない者たちのために、聖人志願者は、自らの美貌を用いるという善行(※)を果たすのである」

全然詳しくないですが、モノや資産を平等に分配するのが共産主義だと思うので、、
ということは「愛を平等に分配しよう」ということでしょうか…
すさまじい発想ですね。。


額面通り受け取れば、ラノベのハーレムものみたいなウハウハな世界が浮かびますが、けれどU先生のように老齢のために愛に応えられない、積極的になれない者はどうすればいいんでしょう。

たとえ現代でポリアモリーが一般的になって、重婚が社会に認められるようになったとしても、相手を選ぶ自由があるかぎり、確実に選ばれない人(容姿でも老齢でも理由は何でも)は出てくるわけで、クーリエの「理想社会では万人に性愛の満足が保証される」がなんだか虚しく聞こえます。
コメントありがとうございます。
そうです。確かに凄まじい発想です。なので100年以上もお蔵入りだった訳で。
今回、チャーリーさんの作品が出てなかったのが寂しいです。次回は、愛の新世界にも勝るような「凄まじい」作品をよろしくお願いします。

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