ステージは、奥のかみてに髭面のドラム、 奥のしもてにSのベース、舞台の客席側中央にA子のグランドピアノ。俺は目立たぬようにピアノの蓋の影に立った。 最初の曲は Fly me to the moon だった。 ドラマーが軽いスネアドラムのタッチで4小節を鳴らしてら、イントロ抜きで(これはたぶん素人の俺に配慮してだろう)ベースとピアノがいきなり入る。A子のハスキーな歌声が響く。 Fly me to the moon Let me play among the stars And let me see what spring is like On a Jupiter and Mars A子の声は俺を痺れさせた。髭のドラムもめちゃくちゃ上手い。Sのベースも正確だった。このメンバーと一緒に、素人の俺が音を出せるのが信じられなかった。ついA子の歌に合わせて、ノッてしまいそうになるが、「調子に乗るな。音数(おとかず)を少なく」と自分に言い聞かせる。 In other words, hold my hand In other words, darling kiss me ピアノ越しにA子と目が合った。A子が微かに微笑んでいるように見えた。まるで、「いいわよ。それで」と言ってくれているように感じられた。 全部で4曲。やり終えたときは、頭の中が真っ白で脱力感でその場に倒れてしまいたかった。時間が押していたのか、あるいは、しゃべり担当が今日来れなかった札幌にいるメンバーなのかも知れなかったが、終りの挨拶もメンバー紹介も無く、俺たち4人はステージを降りた。 店を出るときに打ち上げに誘われたが、俺は遠慮した。そこに、いるべきは来れなかった本来のベーシストであり、俺がいるのは場違いだったからだ。音楽の世界は文学とは違い実力の差が歴然としている。俺がA子や髭のドラマ−やSのレベルに達することは、今後もおそらくない。この人達と俺は仲間として酒を飲める関係ではなかった。
Fly me to the moonを暗くした部屋に流しながら、何度も読ませていただきました。
ぐっときましたね。
情景が目に浮かび、二人のせつない気持ちに自分が絶対的虚無の底でつながっているかのように共振しました。
大人の小説ですね。
この良さは、ある程度の人生経験を積んでからこそ、身につまされるように滲みてくるものだと思います。
少し涼しくなりかけた秋の夜に響いてくる詩でした。