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連帯オール沖縄・東北北海道コミュの山根献:霜多正次文学序説(転載)

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霜多正次文学序説
山根 献
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霜多正次が戦後最初に直面した問題は、彼が捕虜収容所で描いていた日本の戦後の基本的なイメージと、彼が目のまえにした日本の現実とのあいだのズレであった。そのご半世紀以上にわたって彼は目のまえにした日本の戦後の現実と向き合い、戦争と沖縄を基軸に「霜多にとっての戦後」と現実とのあいだのズレを見据え、書き続けていくことになる。しかも、霜多はそのズレを見据えるだけでなく、なぜそのようなズレが起こるのか、そのようなズレが起こる根元になにがあるのかを執拗に追究してやむことがなかった。そこにまさに霜多正次の真骨頂がある。

霜多正次は最初から小説を書くことを自分の生涯の仕事にしようと決めていたわけではなかった。彼が最初に「戦後」と出会ったときの関心は別のところにあったのである。

一九四〇年に二七歳で霜多は臨時召集をうけた。最初、中国戦線に送りこまれるが、そのあと南太平洋のブーゲンビル島に送られた。そして、日本が降伏するふた月まえ、彼は戦線から逃亡、敵側オーストラリア軍に投降した。中国戦線で二年半、ブーゲンビル島で二年半、捕虜生活を一年過ごし、一九四六年五月、ラバウルの収容所から捕虜全員が乗った船で名古屋に上陸した。ときに三三歳であった。

霜多が最初に出会った「戦後」は、沖縄が日本から分離されていて、かれは郷里(国頭郡今帰仁村)には帰れないという現実であった。東京で偶然再会した梅崎春生は、霜多正次が熊本の第五高等学校のときからの同級で、同人誌『ロベリスク』をいっしょに出し、東大に入ってからも、同人誌『寄港地』を出したりした級友だった。


当時すでに戦争中ものが書けなかった作家たちは堰を切ったように書き出しており、梅崎春生もその一人だった。彼らが「文学へのやみがたい情熱」にかりたてられていることは霜多にもよくわかった。しかしこのとき霜多は、文学より、一般的な政治情勢のほうが気になっていた。彼がもっとも強い関心を向けていたのは「天皇制の帰趨」だった。
霜多は投降する以前にドイツが降伏したのを知って、日本の敗戦も必至だと思った。そしてそのとき彼は敗戦後の日本の状況をつぎのようにイメージしていたのだ。たとえば、第一次世界大戦後のドイツのようになるのではないか…敗戦により国家権力がガタガタになり、かつての農民一揆の伝統がよみがえって、日本でも労働者や兵士たちが蜂起して、天皇制国家を打倒し、共和制をうち立てるのではと。しかしどうもそうはいかないらしい。それどころかそれが「まったくの空想」にすぎなかったことに彼は気づく。
このズレはそのごますますはっきりしていった。

霜多がもっとも関心のあった天皇制の問題については、天皇の戦争責任の追究とか天皇制の廃止をめぐって、戦前のプロレタリア作家たちが中心になってだした『新日本文学』などが主張はしていたが、大半の文学者の関心は「内なる天皇制の克服」という人間の内面の問題に向かい、のちに戦後派文学の代表作のひとつ『桜島』を書く梅崎春生も、つまるところ「文学というのは、けっきょく自己を語ることではないのか」という考えのようだった。
いっせいに出た文学同人誌のなかで、『近代文学』に集まった人たちも、マルクス主義の洗礼をうけているという点で霜多と経歴もよく似た同世代の人たちなので、親近感もあった。そのなかの荒正人は大学で霜多と同期で科も同じだったし、彼の「第二の青春」を謳う文学主張には共感もした。しかし、同時にどこかに違和感があり、それをぬぐいさることがなかなかできないでいた。
また平野謙のように、かつてのプロレタリア文学にたいする反発の感情を強調するあまり、「近代的自我の確立」という課題を、日本の戦後社会の民主的な変革の課題と切り離して、個人の倫理的な課題にしてしまう傾向にも同調できなかった。


こうした霜多正次の問題意識と現実とのズレは、そのご霜多がふかくかかわっていく民主主義文学運動のなかでもつぎつぎに生じてくることになった。
焼け野原から経済大国へと急激に変容していく時代の流れのなかで、文学運動も政治と思想の激動にさらされた。『ちゅらかさ――民主主義文学運動と私――』(第五巻、一九九三年)には、新日本文学会に入会し、一九六四年除籍され、一九六五年日本民主主義文学同盟の結成に加わり、一九八四年議長を辞めて同人誌『葦牙』を出すにいたるまでの、いわばそのズレに「戸惑い、試行錯誤」をくりかえしてきた霜多の「半世紀の足どり」が書かれている。
「ちゅらかさ」(清ら瘡)とは、疱瘡(天然痘)さえも疫病神として排斥するのではなく、むしろ歓待し受け入れて耐え抜いてきた、過酷な自然と歴史に向き合う沖縄県民の気概と生活の知恵を象徴する。
「戦後」と向き合い、そのズレをどこまでも追究してタブーを許さぬ、こうした強靭な持続する意志の基礎には、じつは、第一に、霜多独特の戦争体験、すなわち「投降」が、そして第二に、沖縄体験すなわち「差別される沖縄」があったのである。

霜多にとってゆずれないズレとして立ちはだかった問題は、戦争をどうとらえるかという問題だった。戦後派の作家たちによって軍隊や戦場の体験の非人間性や悲惨さ残忍さを告発し、過酷な現実と死の恐怖が刻印した精神の深淵をみつめようとするすぐれた作品がつぎつぎに書かれていた。しかし霜多にはあきたりなかった。それだけで、戦後文学の課題がはたせたとはとうていいえない、と彼は痛感していた。
「生きて虜囚のはずかしめを受けず」という意識に囚われて、どうしてあれほどおおくの人たちが天皇制国家権力の犠牲にならなければならなかったのか、戦後の文学はその問題に決着をつけなければならない、と霜多は痛切に思っていた。戦争体験をたんなる個人の体験として表現するだけでなく、そうした悲惨な現実がもたらされた源を明らかにしなければならない。そしてその悲惨をまねいた精神の構造がどのようなものであったのかにメスを入れていかなければならないと霜多は考えたのである。彼が小説を書くことを自分の生涯の仕事にしようと決心した決定的な動機がここにあった。こうして戦争の本質とその歴史的な意味を追究する異色の作品『日本兵』(第一巻、一九七〇年)が生まさらに、やはりこれも異色作『ヤポネシア』(第一巻、一九七八年)を生み出すことになる。霜多は彼と戦後文学のズレを解決するために、ほぼ四半世紀を要したことになる。


『日本兵』は霜多の投降体験そのものを素材にした作品である。戦線で敵側に投降するという行為は、実際に人肉を喰うような絶望的な状況になってもなお日本兵にはほとんどみられなかった。それは、天皇制国家が国民に強制した天皇中心の国家意識と、天皇の軍隊の玉砕精神がいかに深層にまで浸透していたかを示していたが、その「戒律」を破る恐ろしさだけでなく、捕虜になれば殺されるとほとんどの日本兵は信じていたからであった。霜多はこうした情況のもとで投降という行為を実行した日本兵が、自分を閉じ込めているその支配的な精神構造の世界の枠を破って、もう一つ別の精神構造の世界に移る過程でたしかめられたそれぞれの国家意識の差異を相対化してとらえ、天皇制国家意識の論理と心理の独特な構造を浮き彫りにして見せたのである。


そして『ヤポネシア』において、そのような独特な国家意識がなにゆえにこれほどながく存続してきたかに霜多の関心は向かっていった。「ヤポネシア」とは島尾敏雄の造語で、日本列島がユーラシア大陸との東西の関係で、その東端にあるとする見方に対置して、南北の関係で太平洋に連なる島嶼群の一部としてとらえるという発想の提起であた。霜多は戦地でのメラネシア族との接触の経験や沖縄の習俗などをふまえて、古代国家成立までさかのぼり、父系制の成立していた北方大陸の家父長制的支配原理にもとづく文化が、南方の母系制の支配的な農耕文化を、支配し融合してきたとする見地に着目する。そして天皇制文化イデオロギーのひとつの重要な要素として、またその秘密を解くカギとしてこの文化の複合性を霜多は重視したのである。戦後日本が世界の経済大国へとめざましい発展をとげ、その発展を支えた重要な精神構造として、この天皇制文化のイデオロギーを引き継いだ国家意識があり、それは戦後社会で官僚主義や企業意識を支える基盤にもなって生き続けていると霜多は考えた。

霜多が自身の戦争体験をつうじて思いえがいていた「霜多にとっての戦後」と、もっとも大きく、かつ決定的なズレを示したのが「戦後沖縄」の現実であった。霜多が本格的に沖縄を書きはじめたのは、対日平和条約と安保条約が抱き合わせで成立した直後の一九五三年、戦後はじめて沖縄に帰省し、沖縄戦の悲惨と米軍政の酷さを目の当たりにしてからである。沖縄を国家規模で支配し差別することが当然のことのようにまかり通っていたのだ。


この沖縄の現実を知ってもらわねばならないという一念で霜多は『沖縄島』(第一巻、一九五七年)を書きあげた。それは戦後文学で沖縄問題を中心に据えた最初の作品(毎日出版文化賞受賞)となった。以後、『守礼の民』(第四巻、一九五九年)、『榕樹』(第三巻、一九六一年)、『虜囚の哭』(第一巻、一九七〇年)、『明けもどろ』(第三巻、一九七一年)、『星晴れ』(第三巻、一九七一年)、そして大作『道の島』(第二巻、第一部一九七三年、第二部一九七六年)に至る沖縄を舞台にした一連の作品がつぎつぎに書かれていった。

『沖縄島』が書かれたころ、日本が分割され、米軍の直接の軍事支配下におかれている事実を知らない人がおおかった。そこには日本で唯一地上戦闘がおこなわれた直後から、対日平和条約が結ばれる時期にかけて、沖縄のひとびとがいかに無権利な状況のなかから復興しようとしているかを、三つのタイプの人物をとおしてえがきあげられている。また、そこには国家による抑圧支配するものと、されるものとの新しい関係がどのようにできあがっていくかが照らし出されてもいた。まさに霜多は沖縄の現代史を現在進行形で書き継いでいったのである。沖縄戦から、米兵の銃剣とブルドーザーによる土地の強制収用、軍事基地反対の島ぐるみの闘争、本土復帰の壮大な運動への高まりなど、いずれも国家と正面から立ち向かわざるをえなかった苦しいがねばりづよくたたかってきた沖縄のひとびとの姿がえがかれている。


『道の島』では、時代がさかのぼり、日本が十五年戦争に突入していくころから沖縄戦で戦争の時代の幕が降りたところまでの、戦争と天皇制国家による抑圧と差別のもとで苦難を生き抜いた沖縄県民が書かれている。それはまた沖縄の自然と人間が現代国家主義の収奪の餌食にされ、自然と人との関係が破壊されてきた歴史の足どりでもあった。注目すべきは、霜多はここで沖縄県民をただ被害者としての側面だけでとらえてはいない。状況によって被害者が加害者に転化し、また差別されるものが差別するものへ転化することもありうるところを見逃していない。沖縄の地上戦では日本の将兵が沖縄県民を差別視しスパイとして処刑した。沖縄県民同士が殺しあうことさえおこった。また中国戦線での日本兵の残虐行為も、米兵の沖縄での婦女暴行も、霜多はそのまま書いている。
沖縄には戦後がまだない。沖縄問題の本質をすべて差別問題に解消してしまうわけにはいかないが、しかし返還後もなお在日米軍基地の四分の三を沖縄におしつけ、戦後半世紀以上にわたって耐えることを強いてはばからない沖縄問題の処理の仕方には、たんなる「不平等」ではすまされない伝統的な差別意識が、他国を支配する国家の植民地主義的侵略性ともあいまって、はたらいていると霜多は考えている。

『生まり島』(第一巻、一九九〇年)では、中世の琉球以来の厳しい身分差別が引き継がれ、沖縄が天皇制国家の枠組みにくみこまれた「琉球処分」(一八七九年)後も生きつづけてきたなかで、使う言葉にも差別される意識がどのようにあらわれていたかが書かれている。山原(ヤンバル)の田舎から首里にある県立第一中学校に入ったとき、霜多は首里・那覇に出たらヤンバルの言葉は決して使うな、普通語(ヤマトゥグチ・標準語)を使え、と父母にいわれる。そしてまた、彼が熊本高等学校を受けるために鹿児島にわたって、そこから乗った汽車のなかでは、「ほう、琉球からきんはった」「むこうの土人な、やっぱぁからいもが常食ですか」ときかれる。そのときの気持ちを霜多は淡々と書いている。霜多の「差別される沖縄」がここにもあった。

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