♬ 五つの赤い風船の「西岡たかし」 ♬
「遠い世界に」「恋人もいないのに」「血まみれの鳩」
「恋は風に乗って」「これがボクらの道なのか」などを、作った人です
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20代でおっちゃんと呼ばれていた西岡さんのこと
いろいろお話できたらなと思います
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五つの赤い風船
公式サイト
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五つの赤い風船
Wikipedia
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西岡たかし
1944年(昭和19年)5月27日、大阪に生まれる。
兄達の影響で少年期よりクラシック、スイング・ジャズ、浪曲などを蓄音機で聴き、ラジオではアメリカン・ポップ(ポール・アンカ、ニール・セダカ、リッキー・ネルソン他)やビー・バップ(アート・ブレーキー、セロニアス・モンク他)、モダン・ジャズと出会った。中学二年生ですでに「たそがれ」というラブソングを創作し、音楽の教科書には全く興味がなく、ビリー・ホリデーに感動していた。まさか後に自分の曲(遠い世界に)が教科書に載るとは思いもしなかった。
その後、アメリカ民謡(とくにアパラチアン地方の歌)に魅かれ、その民族楽器(バンジョー、フラットマンドリン、オートハープなど)や、節まわしの面白さからシルクロード、インド音楽、雅楽、邦楽とアマチュアながら民族音楽探究も多岐に渡った。日本にはフォークギターもまだ珍しかった時代、自ら創ったバンジョーを弾きながら人前で歌うこともしばしばあった。偶然、そのステージを見た中川イサトとの出会いが、五つの赤い風船をつくっていくことになる。
当時、中川は藤原秀子らとともに「ウインストンズ」というPPMのコピーバンドで活動をしていた。コピーしかなかった時代に、オリジナル曲を手製のバンジョーで歌う西岡を見て感動した中川は、藤原とともに早速、西岡の家に遊びに行く。すでにオリジナル曲をたくさん持っていた西岡の曲を練習するようになった。西岡も初めはグループの相談役的な役割だったが、フォークコンテストやアマチュアコンサートなどに出場することになり、西岡も巻き込まれていった。そんな中、グループ名も必要になり当時西岡が「風船」と「少年」をモチーフにしたイラストから「五つの赤い風船」と命名した。このときのメンバーは西岡、中川、藤原、喜田年亮、有山じゅんじの5人だった。当時中学二年生だった有山が高校受験のため抜け、すぐに4人になった。
1967年 「五つの赤い風船」結成。
1968年 喜田が抜け、長野隆が加入。
1969年2月 初めてのレコード「高田渡/五つの赤い風船」を発売。
このレコードは、当時会員制のレコード頒布でいわばインディーズレコードのはしりとも言える、URCレコードからの第一号作品であった。これが好評を博し、地方でのコンサートの機会も多くなった。
8月 2枚目のアルバム「おとぎばなし」を発表し人気を不動のものにした。
9月 音楽上の意見の相異から、中川が脱退。
10月 中川の後任として東祥高が加入。以後「遠い世界に」「恋は風に乗って」「血まみれの鳩」など多くのヒット曲を残した。
1972年 「五つの赤い風船」解散。
rootsmusicより
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