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小説・評論:孤城忍太郎の世界コミュの『複對統一場論 (主觀と客觀)』

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この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の

『motion1(cembalo)』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。










 以前、「絶對」に就いて述べたが、その中で

 『「絶對」を私(一つの視點)』

 といふ一人稱として捉へる考へを示し、その對稱として、

 『貴方(二つの視點)』

 といふ二人稱を、「相對」として提示して置いた。


 さうして、月に「貴方」がゐ、「私」が地球にゐて、しかも、その二つの星が近づいてゐた場合に、この二人には接近してゐるといふ事だけは認識出來るものの、そのどちらから近づいてゐるか、或は兩方がともに近づいてゐるのかは、諒解出來ないといふ事を述べた心算(つもり)である。


 詰り、自分の方から近づいてゐるとも、自分は停止してゐて相手が近づいてゐるとも、雙方(さうはう)が共に感ずる事を可能としてゐる、といふ事なのであるが、これが、

 『相對』

 の限界ででもあると述べたかつたのである。


 それを解消する爲には、その上で三人稱の、

 「彼(三つの或はそれ以上の視點)」

 を手に入れる必要がある事を提案した。
 これを手に入れる事によつて、月にゐる「貴方」と地球にゐる「私」を、太陽や水星といふ他の星に立つ「彼」、即ち、三人稱の世界からこの二人を觀察出來る事になつて、月と地球のどちらが停止し、どちらが近づいてゐるかが納得出來る事になる譯である。
 御負けに、その「彼」といふ視點が多ければ多い程、月と地球の軌道を精密に分析出來る事になるのである。

 
 これらの結論として、
 
 「私(一つの視點)」としての一人稱と、

 「貴方(二つの視點)」としての二人稱と、

 「彼(三つの或はそれ以上の視點)」としての三人稱、

 以上の三つを包括して個人といふ人格の中に所有する可きである、といふ事を陳述したのが、その時の記事であつた筈である。


 所が、不思議な事に、一人稱に對しては、

 『絶對』

 があり、二人稱に對しては、
 
 『相對』

 といふ言葉があるものの、三人稱に對しては、それに當る言語が發見出來なかつた。
 宗教の世界では、ただ一つの神を崇(あが)める時に、

 『絶對神(唯一神=一神教)』

 と言ひ、二人稱の場合には、神と信仰者の關係になつてしまふ爲に、神に對する名稱は神でしかあり得ない事(或いは神と惡魔・光と闇がそれに當るかも知れないが)になり、一神教の對極にあるのは、多くの神を崇拜する、

 『多神教』

 がある許りである。


 そこで私は、三人稱の「彼」の世界を、

 『複對』

 と命名する事にした。
 さうして、自己の内部に、

 『絶對・相對・複對』

 が同次元に形成し得た時には、『複對』が立場として統一出來たとして、

 『複對統一場』

 と呼ぶ事にする。


 この、

 『複對統一場』
 
 といふ立場に就いては、これまでも、さうしてこれからも、筆者の視點として述べて行きたいのだが、その前に、もう少し詳しく分析して見たいと思ふ。
 それは副題にもある、「主觀」と「客觀」から調べるのが、妥當であると思はれる。
 

 「主觀」と「客觀」は、實(じつ)は大きな意味から捉へれば同じものであると言へ、それは「A」といふ人間を「B」といふ人間が見た時、「B」は「A」にとつて客觀的立場からの發言であると言へるが、それでも「B」は主觀を述べただけだと主張する事が出來、就中(なかんづく)、「B」といふ人間を「A」といふ人間が見た時、「A」は「B」にとつて客觀的立場からの發言であると言へるが、それでも「A」は主觀を述べただけだとといふ具合に、全く逆の立場からも同じ事が言へる事でも、理解出來るだらう。
 これは三人稱を加えた、「C」といふ人物を數の中に入れても同じ事が言へ、この「彼」の人數がどれ程増えたとしても、「主觀」と「客觀」といふ事態に影響は與(あた)へない。


 但し、全然影響を及ぼさないかといふと、個々の環境といふ條件の違ひによつて、ものの見方に變化があるのは當然であるから、樣々な立場が生じて、意見の相違が起きるのは已むを得ないだらうが、その場合でも、それは「主觀」と「客觀」の違ひでは斷じてなく、條件の差であると言へ、その意味では、「客觀」は飽(あ)くまでも「主觀」といふ立場が決定されてゐなければ、成立しない事が、忽ちの内に諒解されるだらう。


 また、ここでいふ環境の變化とは、肉體的な直接の影響を除けば、主に感情に對して影響を及ぼすものであるが、感情とは、個人の中にリトマス試驗紙がどれだけあるかによつて變化の度合が決定されるものだと思つてゐるし、リトマス試驗紙とは、思考なり經驗なりによつて増減する性質のものだと考へるので、精々それを増やしたり、持つてゐる寶(たから)の持腐れにならないやうに心掛ける可きであらう。
 
 さて、「主觀」と「客觀」が同質のものであるならば、何も苦勞して手に入れる必要がないではないか、と思はれるかも知れないが、本當に手に入れなければならないのは、「主觀・客觀」といふ立場ではなく、それぞれに有してゐる環境の變化に伴つた感情であり、リトマス試驗紙の數を増やすのが目的であるのは言ふまでもないだらう。


 それを自らのものとする爲には、「主觀・客觀」といふ立場から眺めるしか方法はなく、それを高度にすれば、木や石の精神状態になる事も不可能ではないだらう。
 畢竟(ひつきやう)、「主觀・客觀」といふ立場は、手段にすぎないといふ事になるのだが、だからと言つて、幾ら私といふ「主觀」が「貴方」や「彼」といふ「客觀」を手に入れたとしても、それぞれの立場を理解しなかつたとすれば、

 「私は貴方になつたから、なつたのだ」

 といふに過ぎなくなつて、何の役にも立たないのは言ふまでもないだらう。


 以上の事を、敢て「主觀」と「客觀」に分類すれば、「主觀」には一人稱である「私」が該當し、「客觀」には、一人稱の「私」から見た二人稱の「貴方」と、三人稱の「彼」をも含んでゐる事が理解出來、二つ以上の立場を自己の中に形成しなければならないのであり、それは丁度、水を飲む時と、嗽(うが)ひをする時のコツプといふ道具が、一つより二つの方が便利だ、といふのと同質のものであると思はれる。


 そこで、愈々『複對統一場』といふ立場の具體的な効用を記さなければならないのだが、これを内存させる事によつて、四つの益が生ずる。
 
 一つは、いろんな人の立場が理解できる。

 もう一つは、その事によつて、先にも述べたリトマス試験紙の數を増やす事が出來る。

 いま一つは、他人の立場を理解する事によつて、自分の座標が確認出來、進む可き道も決定し易い。

 最後の一つは、これは最も充当な事だが、所有(あらゆる)人の立場を知る事によつて、全ての人にとつて平等な結論を得られるかも知れないといふ事であらう。

 勿論、これは全ての個人的見解にとつて、損も得も含まれるのは言ふまでもなく、大岡裁きの、

 『1兩三方損』

 といふ話を模範(モデル)に考へてもらへば、理解出來ると思はれるのだが……。

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