ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

お好み焼 味幸コミュの映畫(えいぐわ)『アバター』

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 日本で數軒しかないといはれてゐる「IMAX」が、運良く家の近くにあつて、『アバター』を鑑賞して來た。
 「109シネマズ 箕面」へは開館當時から通つてゐて、店が休みの木曜日に出掛けるものだから、普段はゆつたりと一番後ろの席で、月に一、二度は家族と一緒に見に行つたりしてゐる。


 それが思ひたつて、正月の六日の水曜日に一人で出掛けた所、餘りの人混みに驚いてしまつた。
 立見席こそなかつたものの、ほぼ滿席で、にも拘はらず一番後ろの席も確保出來、就中(なかんづく)、「IMAX」による映像の立體感(りつたいかん)に仰(の)け反(ぞ)つてしまつた。


 ただ恥かしかつたのは、入口で黒い眼鏡を渡される事で、これではまるで『メン・イン・ブラック』のやうだと思ひながら、待てよ、これは以前に何處かでと考へたら、『ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)』の催物(アトラクシヨン)の一つ、『ターミネーター』の時と同じではないか。
 既視感(デ・ジヤ・ヴ)?


 んな譯やないが、この映畫『アバター』はジエイムス・キヤメロン監督の作品であり、嘗て、

 『ターミネーター』
 『アビス』
 『ターミネーター2』

 と發表され、次の、

 『タイタニック』

 で世間的には評價が高かつたが、特撮(CG)による虚假脅(こけおど)しが目立ち、前の三作に比べると雲泥の差で、筆者は認める氣にはなれなかつた。
 

 それがこの『アバター』では、主題(テエマ)もしつかりしてゐるし、娯楽(エンタアテイメント)としても成功してゐる。
 本來、藝術作品は活劇で愉しませながら鑑賞させて、見終る頃に

 「人とはどうあるべきか」

 といふやうな主題(テエマ)をさり氣なく、詰り、説教臭くなく感じ取れるやうに表現されるものである事は、今更いふまでもないないだらう。


 この映畫の世界觀には、宮崎駿監督のアニメの影響を強く受けてゐるやうに見受けられたが、それはキヤメロン自身が正直に解説(コメント)してゐる。
 特に『もののけ姫』には、共通する部分が多く見られたし、『ラピユタ』のやうに空飛ぶ巨岩もあり、最も類似性が高いと思はれるのは、飛翔感ではなからうか。
 『ラピユタ』に關しては、ジヨナサン・スウイフトの『ガリヴア旅行記』から宮崎駿監督が借用して、それを動機(モチイフ)に作品化したもので、彼は演出とはどういふものかを心得たもので、よく咀嚼されてゐたやうに思はれた。


 『アバター』の主題(テエマ)としては、惑星パンドラを地球人が征服する話で、以前、聖林(ハリウツド)では「西部劇」が一世を風靡した時期があつたが、それがいつの間にか廢(すた)れてしまつて、クリント・イイストウツド監督の『許されざる者』邊りが、正統な西部劇の最後といへるかも知れない。


 何故、西部劇が消えてしまつたかといふと、多くの物語(ドラマ)には坪内逍遥の『小説神髄』を持ち出すまでもなく、「勸善懲惡」を基本(べエス)にして創作される事が一般的である。
 さうすると、西部劇において敵を設定する時、自動的に「ネイテイブ・アメリカン」即ち「インデイアン」を惡者にして、白人優位の映畫を亂發(らんぱつ)する事になる。
 當時、觀客を白人である亞米利加人しか對象としてゐなかつたのだから、「インデイアン」を惡人扱ひにするのは、至極當り前の結果と言へ、それは「正史」と言はれてゐる歴史書が勝者の言ひ分であつたのと、理由を同じうするものである。
 さうして白人が快哉(くわいさい)を叫んでゐる内に時代が變(かは)り、惡いのは頭の皮を剥ぐ殘虐だと思はれてゐた「インデアン」ではなく、侵略した白人であると曝露(ばくろ)され、かくして「勸善懲惡」による「懲(こ)らしめられる可き惡」が失はれ、西部劇の作劇法(ドラマツルギイ)は崩潰(ほうくわい)してしまつたのである。
 だから『許されざる者』の敵は自分自身であるとも言へ、「勸善懲惡」によらないのならば、西部劇である必要もなく、他の物語(ドラマ)設定に淘汰されてしまつたといへるだらう。
 『アバター』では、贖罪の心算(つもり)か「ネイテイブ」の勝利で終はらしてゐるのだが、これは監督の良心と見るべきか。


 これは『007』の場合でもさうで、冷戰時代が終焉を迎へて、敵對するソビエト連邦が消失してしまつた以上、『007』も敵を見失つてしまひ、小ぶりな惡黨(あくたう)しか相手に出來なくなつてしまつて、強大な敵がゐないのでは、『007』も大きくはなれない道理である。


 その西部劇に似たやうな状況は日本の時代劇にも言へて、時代劇が敗戦時に「GHQ」の監督下に置かれた時、終つたと思はれたそれが、その後復活して隆盛を極めたが、よく考へて見ると彼ら武士は搾取側の人間で、それを庶民が見て拍手喝采して、主人公の武士が惡い武士を懲らしめるのを應援(おうゑん)してゐるのである。
 本當ならば、町人が武士を排斥して民主主義(デモクラシイ)の社會に變革する、といふ映畫にするのがある可き姿なのかもしれない。
 それは女の子が「白馬の王子樣」を夢見るのと同じで、階級制度を容認するやうなお話を、小さい時分に刷り込ませられるのである。
 水戸黄門に印籠を見せられて平伏しなければならない庶民が、それを見て他人事のやうに溜飲を下げるのは皮肉でさへある。
 時代劇が西部劇と同じ道を辿るのは、蓋(けだ)し、宣(むべ)なるかな。
 但し、救ひがない譯ではない。
 最近の電視臺(テレビ)で『JIN(仁)』といふ物語(ドラマ)があつたが、その手があつたか、と思はせる出色の出來であつた。
 現代を教へる爲に時代劇を扱ふのは、戰前の映畫の制作手法であつたので、時代劇が生殘る道はこれぐらゐのものではあるまいか。


 戰後、亞米利加から

 「セツクス」
 「スポオツ」
 「スクリイン」

 といふ「三つのS」を押しつけられた、と岡潔教授が宣(のたま)つた。
 その内の一つの輸入された西部劇を、何の疑問もなく愉しんで見てゐた筆者の愚かさには、幼い頃とは言へ、嫌惡すべき體驗(たいけん)であつたと思はれる。
しかし、それでもかういふ疑問やものの見方が出來るといふ事は、向きになる程でもないのかも知れないが……。



關聯記事


映畫『グラントリノ』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=49537758&comm_id=4671861



映畫『スバ人 (素晴しき哉、人生!)』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=49139515&comm_id=4671861

コメント(3)

「アバター」は、3D映画を体験したくて観に行った作品です。
キャメロン監督作品なら、安心して観られるとの公算もありましたので。
3D画面は前評判通り、奥行を感じさせる立体感が中々のものでしたし、
ケンタウロスさんのおっしゃる様に、空を飛びたいという人間の憧れを、
宮崎作品の流れを汲みつつ、十分に満足させる出来だったと思います。

内容としましては、人間側であるはずの自分が異星人側を応援するという、
ちょとした逆転現象を起こさせる作品でしたね。
この現象は、単純に考えると共感でしょう。
主人公と同じ気持ちになって考え、共感し同調する。
この感覚を観客に与えることが出来れば成功です。

同様の現象を起こした作品は色々ありますが、スタジオジブリのアニメ映画、
「平成狸合戦ぽんぽこ」を異色作品として挙げたいものです。
人間側ではなくタヌキ側を当然応援していたんですが、タヌキ達の妨害作戦の中
で、トラックの運転手が死亡した事実に愕然としてしまいました。
自然を破壊しタヌキ達の生存権を脅かす人間は悪の立場です。
ですが、仕事に従事していた運転手に罪はないはずです。
一瞬頭の中に、彼の家族は、奥さんや子供はと激しい混乱が生じました。

もしもあのシーンがなかったのなら、私は何も気にせずタヌキ側に立ったまま、
次々に死んで行くタヌキ達に同情し、人間の環境破壊を批判したでしょう。
何故あのシーンが必要だったのか、随分考えたものです。
実際作品としましては、やはり私はタヌキ側への応援を続行し、環境破壊の
加害者側でもある自分を反省して終わったものゆえ尚更です。
ほんの僅かに垂らされた小さな毒。
「合戦」とは「戦争」なのだと、うっかりすると見逃してしまうシーンに、
織り込まれたメッセージの現実性に、私は圧倒されてしまいました。

この観点で「アバター」を観ると困ったことが起きます。
次々と死んでいくアバター達同様に、人間達にも家族がいて妻子がいる。
それに気付けば作品が楽しめませんね。
どちらの側にも立てず、すくんでしまう自分を発見するだけですから。
これはどの作品にも共通することで、ボンドに斃される敵にも家族がいるなんて
考え始めればれば何も観られなくなってしまいます。

そんなことを考えていた私にとって、ケンタウロスさんの書かれていた、
「西部劇を何んの疑問もなく楽しんでいた愚かさを嫌悪する」というご一文は、
何んとも言えぬ感慨を与えて下さいました。
論点の違いは分かっています。
ですがその上で、「勧善懲悪の中に潜む真実」に気付いたという点に置いて、
共通するものがあるのではと思っております。

私は戦争反対者です。
ですが、いざ戦争となれば、一人でも多くの敵を殺すでしょう。
その敵に家族や妻子がいることを極力考えない様にするでしよう。
何故なら、結局はどちらかの側に立たねばならないからです。
両方の立場を取り正論を説くのは、美しくても現実的ではありません。
ただし、有事に至る前に、敵にも家族がいると知るのは必要ですね。
それしか、戦争を止める原動力にならないと思われるからです。
それを今、学ぶ為に、あまたの創作物があれば良いと望んでおります。

ああ、時間切れです。夫が帰宅致しました。

続きはまた改めまして。
失礼致します。
続きです。

キャメロン監督の作品はとても好きです。
全作を観た訳ではないですが、取り上げてられた作品は私も高評価でした。
しかし、「タイタニック」も非常に高く評価しておりましてね。
作品の評価は主観によるものですし、ケンタウロスさんのご評価に異議を唱える
つもりは一切ございません。
ただ、同映画に対して発言する機会がありませんでしたので、
付録として少し、書かせて頂きたく思います。

私にとってタイタニック映画とは、「SOSタイタニック」に代表される様な、
人が亡くなる映画だったのです。
ですがキャメロン氏の「タイタニック」は、人が生きる姿を描いてます。
ただの恋愛映画だと思って観に行った身には驚きでした。

そも、タイタニックの悲劇に執心していた亡父から「SOSタイタニック」を
ビデオで観せられた時、船上に残された人々がかくも堂々と死ねるものかと、
娘心に大いなる疑問を感じてはいたんです。
後年、戦記の中で、戦艦の乗員が総員退去の命が出た後に、生き残る為の懸命の
戦いを繰り広げた話を知るに至って、私の疑問は益々膨らみました。
死を覚悟した兵士でもかくあらんのに、事故に遭遇した普通の乗船客がと。

その疑問を一気に解消してくれたのが、「タイタニック」です。
驚かれるかも知れませんが、映画が公開されるまで、船上で実際何があったのか
私はほとんど存じておりませんでしたので。
納得すると共に恐怖を感じました。
自分がもし同じ立場になればどう行動すべきか、果たして生き残れるのか。
どう諦め、どう死と向き合い、誰と共に過ごすのか。
創作物は平時において、疑似体験という形で自らの選択を示させてくれます。
必死に考えさせてもらえただけでも、私は高い評価を与えたいです。

お恥ずかしい話ですが、私は劇場で号泣しました。
公開時の宣伝では観客が涙する映像が流されていましたが。
周囲に泣いている方は誰もおらず、本当に恥ずかしかった記憶があります。
私が泣いたのはラストシーンです。
静かに眠りについた主人公、枕元に飾られた彼女の生きて来た証の写真。
夢の中で彼女は船内に戻り、亡き恋人の腕に抱きしめられます。
そして拍手。拍手。
死んでいった人々から受ける、万雷の拍手。

それまで冷静に観ていた私は、拍手のシーンで一瞬にして崩れました。
劇場で、しかも声を抑えきれず泣いたのは生涯初めての経験です。
そしてタイタニック映画は私にとって、人が生きる映画となったのです。
私が船内にいたなら、精一杯抗って、死ぬまで生きよう。
そして実際の人生もやはり、せめて、死ぬまで生きよう。
そう決意させてくれた、記念の映画となりました。

思い付くままつらつらと書かせて頂きました。
観客に主人公への共感を与える部分について、その難しさも述べたいとも
思いましたが、また別の機会に譲らせて下さいませ。
就寝の時間となりましたので。
では、また。
らいら さん。

とても叮嚀な見解(コメント)を有難う御座います。

人が人の事だけを考へて敵味方の爭ひに心を痛める、

さうしてその考へを敷衍(ふえん)して、

總(すべ)ての動植物に當嵌めたならば、

生物は存續出來なくなつてしまふでせう。

所有(あらゆる)動物や植物が食物連鎖の埒外にあつて、

互ひに鑑賞者として仲良く生を全(まつた)う出來るならば、

それこそ理想郷なのでせうが、

さうは行かないところに「もののあはれ」がある所以(ゆゑん)なのでせう。

宮崎駿監督の作品は「風の谷のナウシカ」を嚆矢として、

「天空の城ラピュタ」までだと考へてゐます。

「タイタニック」に關しては、

死が特別室の客席の人も三等の乘客も區別なく訪れ、

それは中世の教會の神父が一般人と同じやうに、

當時の流行り病である「黒死病(ペスト)」で死んで行く事で、

教會延いては宗教への疑問へと發展して科學の道が開けていつたやうに、

船といふ乘物を人生ととらへて、

一人が生きるといふ事は背後にその命を支へたものがある、

といふ事を描いてゐるやうな氣がします。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

お好み焼 味幸 更新情報

お好み焼 味幸のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング