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仏教・中観思想・空思想を学ぶコミュの龍樹論師「六十頌如理論」の学びについて

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「六十頌如理論」は、「中論頌」と並ぶ縁起思想の代表論書でございます。このトピックでは、「六十頌如理論」につきましての論考を深めていければと存じております。

コメント(105)

78910さん、こんにちは。

同じ側面とは、例えば、両者共に反省判断であり、断常の二見ではないということでしょうか。

「結局は違うもの」ともいえますが、それは「違う」という窓口から見たらそうだということです。「結局は同じもの」という見方もあります。

「非同非異」であり、「亦同亦異」です。円融します。

「有であり、無であり」は「実体は無いにしても、仮に有る」と言えば言いのでしょうか。なので、順番は「亦無亦有」のほうが適当かもしれません。

幾重にも反省を重ねるといえば良いのかも知れません。

例えば、

十住毘婆沙論

阿惟越致相品第八 : 非亦有亦無 非非有非無. 亦非有文字 亦不離文字. 如是實義者 終不可得説. 言者可言言 是皆寂滅相. 若性寂滅者 非有亦非無. 爲欲説何事 爲以何言説. 云何有智人 而與言者言. 若諸法性空 諸法即無性. 隨以何法空 是法不可説. 不得不有言 假言以説空. 實義亦非空 亦復非不空 ...

といった具合だと思います。

「亦有亦無の中」は私の父から習ったことで、出典はあるのですが、一般には手にはいらなくなっています。あしからず。
十住毘婆沙論のソースは、以下の「ウィキソース」サイトです。

http://ja.wikisource.org/w/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5%3A%E6%A4%9C%E7%B4%A2&search=%E4%BA%A6%E6%9C%89%E4%BA%A6%E7%84%A1
石田さん

>「亦有亦無の中」は私の父から習ったことで、出典はあるのですが、一般には手にはいらなくなっています。あしからず。

ナーガールジュナは『中論』第25章においてニルヴァーナを「亦有亦無」と解する立場を徹底的に批判していますが、これについてバーヴァヴィヴェーカは『般若灯論釈』において「亦有亦無」というのは犢子部(とくしぶ)の学説だと言っていますが、その出典というのは犢子部のものですか?
78910さん、あいにく、そうではありません。

きちんと学んだわけではないので、どの部のどの学説と言われても、良く判りません。
済みません。

出典は父の著書であり、説も、父の説とは言えるかも知れません。
石田さんの『十住毘婆沙論』の話以来、如来蔵の見解に意識はさらわれてしまい、78910さんの依頼でスタートした『六十頌如理論』の偈頌の公開も止まってしまっています。

如来蔵の役割や、思想として中観派との縁起との関係性、外教の自性(アートマン)との関係、アーラヤ識との関係など、思想としても興味深いものがある面と、華厳・法華・涅槃・法性論・勝鬘経・楞厳経といった原始仏教から声聞乗、菩薩乗、金剛乗といった思想の発展の上で、菩薩乗の普賢行を志す人の教えを学ぶ者として、如来蔵は避けて通れないものなので、これを期に、纏めなおそうかなと思っています。

基本的に、教学だけの理解では、未了義の理解しか出来ないと考えていますので、探求を深めなくてはならないと思っています。

基本は、ダライラマ・カルマパに信を置く者としては、無住処涅槃というのは、単なる理想で終わらしてはならないのもなのです。
カルマ・ランジュンさん、横道にそれてしまい、申し訳ありません。

お許しください。
石田さん


いえいえ、学術的な見解に終始するところを警告を鳴らして頂いたと思っております。

カギュ派の創始者たるマルパの先生だったナローパは、インド最高学府の一翼のナーランダー僧院の僧院長の座に登り詰めたのですが、仏教学の最高の顕学だったのに、自分は何も解ってないと、立場を捨て、乞食のような師に付き、教えを学び始めます。 明晰な智恵を得る為には捨てるということが不可欠であるとその後の伝承に生きています。

そういう学びの本質から脱線するところでした、ありがとうございます。

【縁起を知る者は対立・争いを超える―無諍の立場】(第45〜52偈)
無諍とは、争いの無い事の意です。

(第四十五偈)
依存性によって存在するものは、水に映った月の様に、実でもなく非実でもない。
そのようにいう人々は、邪説に心が奪われることは無い。


(第四十六偈)
存在〔の実体〕を定立することがあると、貪りや怒りが起こり、
忍びがたい有害な謬見が生じる。 それによって争いが起こる。


(第四十七偈)
それ(実体の定立)は、すべて邪説のもとであり、それ(邪説)がなければ、煩悩は起こらない。
したがってそれ(存在)を知るならば、邪説と煩悩は浄治(ジョウチ)される。


(第四十八偈)
何によってそれを知るのか、というならば、縁起を見るから〔知るの〕であって、依存性によって生じたものは不生(フショウ)である、と真実を知る最高者(仏陀)は説いている。


(第四十九偈
誤った知識に制圧され、実在でないものを実在と捉えている人は、偏執(ヘンシュウ)や争いなどの連鎖が愛着から生じる。


(第五十偈)
心の大きな人々には主張が無く、争いが無い。
およそ主張が無いなら、そのような人々にどうして他の主張があろう。


(第五十一偈)
いかなるものであれ、何らかの依所(エショ)〔すみか〕を得ると、煩悩という狡猾な毒蛇がとらえるであろうが、およそ依所を持たないなら、そのような人たちをとらえることはない。


(第五十二偈)
心に依所があると、その人たちに煩悩の大毒がどうして生じないであろうか。
たとえ愛憎を離れた状態にあるときにも、煩悩の蛇によってとらえられる。




続いて第五十三偈から第五十六偈には、愚者(凡夫)の所得(執着)と聖者の無所得(無執着)について述べていますが、ここではその中から一偈だけを挙げておきます。

(第五十五偈)
 愚かな人たちは物に執着し、中間に有る人たちは貪りを離れる。
物の本性(空)を知る最高の智慧をそなえた人たちは解脱する。



この(第五十五偈)は、『六十頌如理論』の要点を示したもので、まず愚かな人は物体や肉体に捕われ愛着するが、中間にある人は愛着を離れ厭離(オンリ)する。 これに対し智慧ある人は、肉体への貪(トン)も無く、離貪(リトン)もなく、全てのとらわれを離れて寂静の境地に至るのである。
 この寂静の境地、すなわち絶対自由の境地が涅槃であって、この境地に至ることを目指すのが智慧ある人ということで、【聖者の涅槃】の偈頌は渇愛します。



最初の三偈と最期の四偈とを是非読みたいと願う人は『大乗仏典14 龍樹論集』に出てるかな?
未確認ですが、 瓜生津隆真さんの「六十頌如理論(六十詩頌の正理論および注釈」)が収録されているはずです。



これにて、小論なのに時間が掛かってしまいましたが、『中論』に匹敵するナーガールジュナの「五部正理論(論理に関する五部作)」の中でチャンドラキールティも重視したこの論の掲載を終えます。



カルマ・ランジュンさん、有難うございます。
(第四十七偈)
それ(実体の定立)は、すべて邪説のもとであり、それ(邪説)がなければ、煩悩は起こらない。
したがってそれ(存在)を知るならば、邪説と煩悩は浄治(ジョウチ)される。


(第四十八偈)
何によってそれを知るのか、というならば、縁起を見るから〔知るの〕であって、依存性によって生じたものは不生(フショウ)である、と真実を知る最高者(仏陀)は説いている。

このあたりが、「不生の生」を語っていることになるのでしょうね。
石田さん

 そうなんです、四十八偈を知っていたのですが、公開前なので、話に引用するとごちゃごちゃになるので、引用しませんでした。
 基本的に当然でしょ、という思い込みがあったので、躊躇しました。

駄目ですね、正理へのこだわりは、正直言って興味持てないのです。
今は、ソギャル・リンポチェの『チベットの生と死の書』を読み返しています。
 如来蔵の話から、他空説の話に飛んで、ゾクチェン(大究竟)とチャクチェン(マハームドラー(大印契))に気持ちは行ってます。

論証というのは、思考の基準であり識別の拠点になります。
 利他を思うと、避けては通れないので、参加してますが、逆に理論に明るくなっても死の現実や無常の真理を得心するわけではない。

無常の織り成すダンスを知覚する度に、死の鼓動を感じる。
それは生きている躍動です。 そういった探求こそが、心を躍らさせてくれるので、それにハマっちゃっています。




生死の一大事ですね。

今が臨終の覚悟で生きるって、簡単にはいかないな・・・。

がんばろ!
『六十頌如理論』の論書のアップから、終わった後になってしまいますが、ナーガールジュナの思想を追って行こうと思います。


『六十頌如理論』の中の
(第三十四偈) に戻ります。
元素(四大)をはじめとして説かれたものは、[すべて]識に收約される。
そのことを知ることによって[それらは]なくなるから、誤って分別されたものではないのか。




ここで言っているのは、四元素その他の外界の存在は心識に収められるので、心識さえも空であると知る時は、外界の存在は全くの誤謬であることがわかる、と意味を述べていることに言及しています。


これは唯識が中観の哲学階梯において、大きな位置を持つことを示そうとしているのである。
(『仏教の思想3・空の理論<中観>』角川書店、P184)
この発言は、インド仏教最期のナーランダー大僧院の学匠、シャーンタラクシタ(寂護)がチャンドラキールティの解釈に拠って、唯識説は有部や経量部の理論より高いもの、一般の理解の領域においては最も優れたものであるという。





説一切有部の知識論は、認識の対象は外界に実在するものであるとし、知識そのものの中には対象の形象をもたない「無形象知識論」

経量部は、形象は外界の対象にあるのではなく、外界の対象がわれわれの意識に与えた表象であり、知識それ自体の中に対象の形象を持つ、という「有形象知識論」を説いている。
表象主義的な外界実在論を展開した。

唯識は、表象主義的な外界実在論を徹底させ、外界の実在を否定します。
つまり、全てはただ表象のみという、徹底した観念論を展開します。
唯識は、「有形象唯識派」と「無形象唯識派」に別れ、「有形象唯識派」は認識の表象とは形象に思惟が加わったものであって、人が迷うのは、形象を思惟に拠って解釈しているからであって、思惟を除けば、認識は汚れ無きものとなる。

「無形象唯識派」は表象は思惟と同じものであって、日常経験における認識は、それ自体が迷いであり、夢である。 迷いの無い認識とは、形象を離れた「光り輝く心」であると説くのである。

ナーガールジュナの唯心思想は、無形象唯識派に極めて近く、チャンドラキールティは『六十頌如理論』の注釈の中で、前半は唯識派の理論をもって解説をし、後半は意識がそれ自体としては生起しないことと、すなわち「空」であると中観派の立場を明らかにしています。
 意識それ自体が有と立てることが誤りであり唯識派への批判をしているのですが、チャンドラキールティはそれに従って注釈しているのです。

解説をありがとうございます。

唯識と唯心の違いが判りにくいところですね。
『六十頌如理論』の第一〜四偈、第五十二〜五十九偈までの偈頌を見つけましたので、明日、アップします。 

 実は思い出し、龍樹論集を求めて車で、古本屋に向かったのですが15巻のセットでしか販売してなかったのです。 『宝行王正論』の全文が欲しかったので、『六十頌如理論』の抜けている部分も気持ち悪いし、セットで購入するしかないかなと思っても、2万9千4百円と安くないし、龍樹論集以外は要らないので、断念したら、他の所有していたコピーから、『六十頌如理論』の解説を見つけ出したのです。

 昔は、本代より高いコピーを撮るなんて馬鹿げたことを良くやっていました。
お陰で、あったのですが・・・

【不生の縁起】・・・・・・・・・・・・・・・・帰敬偈

消滅することもなく生起することもなく、断滅でもなく恒常でもなく、一でもなく多でもなく、来るのでもなく去るものでもなく、戯論(ケロン)〔ことばの虚構〕を超え、寂静である縁起、 ― その縁起を説き、説法者の中の最上者である正覚者(仏陀)に私は礼拝を捧げる。





【縁起の深遠性―有無を超える】・・・・・・・・・・・・・・・・第一〜四偈

(第一偈)
意識が有と無を超越して〔いずれにも〕依拠していない人びとは、依存性(縁)の意味では深遠であり、認識の対象ではない、と明らかに知る
(凡夫の思惟判断は虚妄なものであり、迷妄による執着に過ぎない)


(第二偈)
全ての過誤が生じる根拠である無を、兎も角既に排除しているならば、私は正理をもって有も排除しなくはならぬ。 それを聞け。
(縁起を倒錯している人は、縁起してものが実体として生起していると固執している)


(第三偈)
愚かな人が考えているそのままの存在がもし真理であるとしたら、それが無になることによって解脱があると、一体どういうわけで認められないのか。
(正しい認識によって解脱するのである)


(第四偈)
この生存(輪廻の世界)から、有によっては解脱せず、無によっても〔解脱し〕ない。(常住論と断滅論の否定) 存在と非存在を知って、偉大なる人は解脱する。






【不生の縁起】・・・・・・・・・・・・・・・・帰敬偈

とても良いですね。

有難うございます。
【愚者の執着と知者の無所得】・・・・・・・・・・・・・・・・第五十二〜五十六偈

(第五十二偈)
心に依所を持つ人びとに煩悩の大毒がどうして生じないであろうか。
たとえ愛憎を離れた状態にある時にも、煩悩の捕らえられる。


(第五十三偈)
愚かな人は真実(実在)であるという想いをもって影像に捕らわれるが、それと同じように、
世人は迷妄からの対象の牢獄に執着する。


(第五十四偈)
存在(モノ)は影像のようである、と智慧の眼によって見るから、
心の偉大なる人々は対象の泥にまみれることはない。


(第五十五偈)
愚かな人たちは物体(色)に愛着する。 中間にある人たちは貪りを離れる。
物体の本性を知る最高の智慧を具えた人たちは解脱する。


(第五十六偈)
欲望の心がある人には貪りが生じ、それを除いている人は貪りを離れる。
幻化人のように〔世界は全て〕 寂離であると見る人は涅槃に至る。





【聖者の涅槃】・・・・・・・・・・・・・・・・第五十七〜五十九偈

(第五十七偈)
誤った認識に苦悩している人にある煩悩という罪過は、存在(有)と非存在(無)とを思惟することなく、対象(物)を知る人には生じない。


(第五十八偈)
所依(煩悩の拠り所)があるときには、貪(トン)と離貪(リトン)とが取捉されるが、
心の偉大な人たちは所依がない(空である)から、染着することも無く、染着を離れることもない。


(第五十九偈)
このように寂離に入った人たちにおいては、動じる心も動じないのであって、かれらは煩悩の蛇に悩まされる忍びがたい生死の海を渡る。


【功徳の廻向】・・・・・・・・・・・・・・・・第六十偈 結び

願わくばこの善をもって、すべての人々が福徳と智慧の資料を積み、福徳と智慧から生まれた二つの最勝を得ることが出来ますように。





やっと全文の掲載が揃いました。

ご迷惑掛けました。

順序もばらばらになってしまいましたが、ご勘弁ください。

『中論』もそうなのですが、『六十頌如理論』は、掘り下げると、果てしなく深く、深遠なる中観、広大なる唯識の名の通り、深いので、徐々に掘り下げましょうね。

 正理の大切さを踏まえつつ、理論に溺れないことを自覚し、精進して行けたら良いですね。 基本の菩提行の実践の心掛けを忘れない様に。

順序がばらばらになってしまったので、再度掲載します。

すみません



『六十頌如理論』の構成

?不生の縁起・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・帰敬偈
?縁起の深遠性―有無を超える・・・・・・・・・・・・・・・・・・第一〜四偈
?生起(始め)もなく消滅(終わり)もない・・・・・・・・・・・・・・第五〜二〇偈
?存在の虚妄と真実・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第二一〜二九偈
?虚妄の存在がなぜ説かれるのか・・・・・・・・・・・・・・・・・第三〇〜三五偈
?迷いの世界の成立と消滅― 十二支縁起・・・・・・・・・・・・・第三六〜三九偈
?実在を説く諸思想の批判・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第四〇〜四四偈
?縁起を知る者は対立・争いを超える― 無諍(ムジョウ)の立場 ・・・・第四五〜五一偈
?愚者の執着と智者の無所得(ムショトク) ・・・・・・・・・・・・・・・第五二〜五六偈
?聖者の涅槃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第五七〜五九偈
?結び―功徳の廻向・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第六〇偈

【不生の縁起】・・・・・・・・・・・・・・・・帰敬偈

消滅することもなく生起することもなく、断滅でもなく恒常でもなく、一でもなく多でもなく、来るのでもなく去るものでもなく、戯論(ケロン)〔ことばの虚構〕を超え、寂静である縁起、 ― その縁起を説き、説法者の中の最上者である正覚者(仏陀)に私は礼拝を捧げる。


【縁起の深遠性―有無を超える】・・・・・・・・・・・・・・・・第一〜四偈

(第一偈)
意識が有と無を超越して〔いずれにも〕依拠していない人びとは、依存性(縁)の意味では深遠であり、認識の対象ではない、と明らかに知る
(凡夫の思惟判断は虚妄なものであり、迷妄による執着に過ぎない)


(第二偈)
全ての過誤が生じる根拠である無を、兎も角既に排除しているならば、私は正理をもって有も排除しなくはならぬ。 それを聞け。
(縁起を倒錯している人は、縁起してものが実体として生起していると固執している)


(第三偈)
愚かな人が考えているそのままの存在がもし真理であるとしたら、それが無になることによって解脱があると、一体どういうわけで認められないのか。
(正しい認識によって解脱するのである)


(第四偈)
この生存(輪廻の世界)から、有によっては解脱せず、無によっても〔解脱し〕ない。(常住論と断滅論の否定) 存在と非存在を知って、偉大なる人は解脱する。


◎生起(始め)もなく消滅(終わり)もない・・・・・・・・・・・・・・第五〜二〇偈
                                      
(第五偈)
真実を見ない人には、世間(輪廻)と涅槃についての慢心(固執)がある。
しかるに真実を見る人には、世間と涅槃とについての慢心(固執)がない。

(第六偈)
有(輪廻)と滅(涅槃)とのこの両者は、あるのでではない。 よく知るなら輪廻がすなわち涅槃である、と説いている。

(第七偈)
生起したものがなくなるとき、そのものが消滅したという。 それと同じく智者たちも、滅(涅槃)とは幻のようなものである、という。

(第八偈)
消滅によって滅(涅槃)があり、生成変化するものを知ることによってあるのではない、というなら、その滅は一体誰に直観されるであろうか。 その場合、消滅を知る者がどうしているであろうか。

(第九偈)
もし五蘊(心身の構成要素)が消滅していないなら、煩悩が尽きても涅槃はないであろう。 なぜなら〔五蘊が〕ここで滅するとき、解脱することになるから。

(第十偈)
無明(迷い)を条件として生じたものは、正しい認識をもって見なら、生起であれ消滅であれ、いずれもありえない。


(第十一偈)
それこそが現世における涅槃であり、またますべきことなされたことである。 法〔を見る〕智の後に、もしそこに別のものがあるとするなら、

(第十二偈)
このように、非常に微細なものにも生起があると考える智慧のない人には、条件による生起(縁起)の意味は見られない。

(第十三偈)
煩悩が尽きた修行僧は輪廻が止息してなくなるならば、一体どうして完全な悟りを得た人たちが、その輪廻の始まりを説いていないのか。

(第十四偈)
もし始まりがある〔と考える〕なら、必ずまた誤った考えの固執がある。 縁によって生起しているものに、一体どうして前と後とがあろう。

(第十五偈)
前に生じたものが、どうして後ろになくなるであろうか。 〔迷いの〕世界は前際と後際とがなくて、幻のように現れる。

(第十六偈)
いつ幻が生じるか、いつ滅するか、というように、幻を知る人はそれに迷うことはないが、幻を知らない人はそれを渇望する。

(第十七偈)
輪廻の生存(有)は幻や陽炎のようである、と正しい理解によって見るとき、彼らは前際とか後際とがを見て、悩むことはない。

(第十八偈)
生滅変化するもの(有為)における生起や消滅を妄分別(モウブンベツ)している人たちは、縁起の輪の中にこの〔迷い〕世界があることを全く理解していない。

(第十九偈)
あれやこれやに依存して生じているものは、実体をもって生起してはいない。実体をもって生起していないなら、そのものがどうして生起しているといわれるだろうか。

(第二十偈)
因が尽きて寂滅することが滅尽である、といわれるが、実体として尽きることのないとき、そのものにどうして滅尽ということがいわれようか。


【存在の虚妄と真実】・・・・・・・・・・・・・・・・第二十一〜二十九偈

(第二十一偈)
そのように何ものも生起することがなく、何ものも消滅することもない。
生起と消滅の道は、目的のために説かれている。


(第二十二偈)
生起を知って消滅を知る、消滅を知って無常を知る。
無常の中にあることを知るから、正しい法をも理解する。


(第二十三偈)
縁起は生起と消滅を離れている、と知る人々は、
誤った考えによって生み出された生死(有[ウ])の海をこえる。


(第二十四偈)
不変の実体を考える人は、愚かにも、あるとか、ないとか、
と錯覚する誤りのために、煩悩に支配され、自らの心によって欺(アザム)かれる。


(第二十五偈)
存在に通暁(ツウギョウ)している人々は、存在は無常であり、欺く性質があり、
空虚であり、空であり、無我であり、したがって空寂(クウジャク)である、と見る。


(第二十六偈)
よりどころがなく、支えがあるのでなく、根がなく、住所(ジュウショ)がなく、無明を因として生じ、始・中・終を離れ、


(第二十七偈)
芭蕉(バショウ)のようにもろく、蜃気楼のようである苦悩の世界は、
迷妄の城であり、あたかも幻のように現れる。


(第二十八偈)
この世界において、梵天などには、たとえ真実に見えようとも、
それも聖者には虚妄である、と説いている。 それ(虚妄)よりほかに何が残ろうか。


(第二十九偈)
無明(迷い)によって盲目となり、渇愛(カツアイ)の流れにしたがう世人と、渇愛を離れた善き人である知者たちとが、どうして同じであろうか。
【虚妄の存在はなぜ説かれるのか】(第三十〜三十五偈)


(第三十偈)
真実を求める者には、まずはじめに「すべてはある」と説かれなければならない。もろもろの対象を知ると愛着がなくなり、それから後に寂離(ジャクリ)がある。


(第三十一偈)寂離の意味を知らず、ただ聞くことだけを行って、福徳をなさいならば、このような卑劣な人々は破滅する。


(第三十二偈)業には果があることや、緒世界(緒趣〔ショシュ〕)についても説かれたが、それとともにそれらの本性をしることと、不生起とが教示された。


(第三十三偈)
目的のために、勝利者たち(緒仏)は「われ」とか「わがもの」と説かれた。
それと同じく、目的のために[五]蘊・[十二]処・[十八]界を説かれた。


(第三十四偈)
元素(四大)をはじめとして説かれたものは、[すべて]識に收約される。
そのことを知ることによって[それらは]なくなるから、誤って分別されたものではないのか。


(第三十五偈)
涅槃は唯一の真理である、と勝利者たちは説いている。その場合、余地そのものは虚妄ではない、と知者なら一体誰が考えようか。


【十二支縁起の教え】(第三十三十六〜三十九偈)
続いて迷いの世界の生起とその消滅について、次のように述べています。


(第三十六偈)
意識は動いている限り、悪魔の領域にある。
そうであるなら、この場合にも。過誤は無くなる、どうしてなりえないであろうか。

(第三十七偈)
無明を縁として世界がある、と完全な覚者は説いている。
それゆえに、この妄想分別であると、どうしてなりえないであろうか。

(第三十八偈)
無明が滅する時消滅するものを、無知のために妄想していることが、
どうして明らかでないであろうか。

(第三十九偈)
およそいかなるものであれ、原因があって生じ、条件がないと存続せず、さらに条件がないと消滅するならば、そのようなものが存在すると、どうして知られようか。


【実在論の否定から無諍(ムジョウ)の立場へ】(第40〜44偈)
無諍とは、争いの無い事の意です。

(第四十偈)
たとえものの有(実在)を語る人たちが存在に執着し、同じ道に立っているにしても、そこにいささかの不思議も無い。


(第四十一偈)
仏教の道にもとづいて、すべては無常である、と語る人々が、論争によって存在に固執しているのは奇異である。


(第四十二偈)
それとか、これとか、ということを思考して〔有とか無とか〕ととらわれることは無いから、知者なら一体誰が論争によって「これが真理である」などと言うであろうか。


(第四十三偈)
依存関係を離れて、「自己」とか「世界」とかということに執着しているが、そのような人々は、常住であるとか、常住でないとかなどと見ることに、悲しいかな、心を奪われている。


(第四十四偈
依存関係によって存在するものが、もし実在としてとして考えられているなら、そのような人々にも、どうして常住などの誤りが生じないであろうか。

【縁起を知る者は対立・争いを超える―無諍の立場】(第45〜52偈)
無諍とは、争いの無い事の意です。

(第四十五偈)
依存性によって存在するものは、水に映った月の様に、実でもなく非実でもない。
そのようにいう人々は、邪説に心が奪われることは無い。


(第四十六偈)
存在〔の実体〕を定立することがあると、貪りや怒りが起こり、
忍びがたい有害な謬見が生じる。 それによって争いが起こる。


(第四十七偈)
それ(実体の定立)は、すべて邪説のもとであり、それ(邪説)がなければ、煩悩は起こらない。
したがってそれ(存在)を知るならば、邪説と煩悩は浄治(ジョウチ)される。


(第四十八偈)
何によってそれを知るのか、というならば、縁起を見るから〔知るの〕であって、依存性によって生じたものは不生(フショウ)である、と真実を知る最高者(仏陀)は説いている。


(第四十九偈
誤った知識に制圧され、実在でないものを実在と捉えている人は、偏執(ヘンシュウ)や争いなどの連鎖が愛着から生じる。


(第五十偈)
心の大きな人々には主張が無く、争いが無い。
およそ主張が無いなら、そのような人々にどうして他の主張があろう。


(第五十一偈)
いかなるものであれ、何らかの依所(エショ)〔すみか〕を得ると、煩悩という狡猾な毒蛇がとらえるであろうが、およそ依所を持たないなら、そのような人たちをとらえることはない。

【愚者の執着と知者の無所得】・・・・・・・・・・・・・・・・第五十二〜五十六偈

(第五十二偈)
心に依所を持つ人びとに煩悩の大毒がどうして生じないであろうか。
たとえ愛憎を離れた状態にある時にも、煩悩の捕らえられる。


(第五十三偈)
愚かな人は真実(実在)であるという想いをもって影像に捕らわれるが、それと同じように、
世人は迷妄からの対象の牢獄に執着する。


(第五十四偈)
存在(モノ)は影像のようである、と智慧の眼によって見るから、
心の偉大なる人々は対象の泥にまみれることはない。


(第五十五偈)
愚かな人たちは物体(色)に愛着する。 中間にある人たちは貪りを離れる。
物体の本性を知る最高の智慧を具えた人たちは解脱する。


(第五十六偈)
欲望の心がある人には貪りが生じ、それを除いている人は貪りを離れる。
幻化人のように〔世界は全て〕 寂離であると見る人は涅槃に至る。





【聖者の涅槃】・・・・・・・・・・・・・・・・第五十七〜五十九偈

(第五十七偈)
誤った認識に苦悩している人にある煩悩という罪過は、存在(有)と非存在(無)とを思惟することなく、対象(物)を知る人には生じない。


(第五十八偈)
所依(煩悩の拠り所)があるときには、貪(トン)と離貪(リトン)とが取捉されるが、
心の偉大な人たちは所依がない(空である)から、染着することも無く、染着を離れることもない。


(第五十九偈)
このように寂離に入った人たちにおいては、動じる心も動じないのであって、かれらは煩悩の蛇に悩まされる忍びがたい生死の海を渡る。


【功徳の廻向】・・・・・・・・・・・・・・・・第六十偈 結び

願わくばこの善をもって、すべての人々が福徳と智慧の資料を積み、福徳と智慧から生まれた二つの最勝を得ることが出来ますように。

『六十頌如理論』の掲載が終わって、思うのは、ナーガールジュナが、無と有の「消滅することもなく生起することもなく」という帰敬偈に始まる宣言を見ると、皆さんが輪廻をどう捉えているのだろうか?  そういう疑問が浮かんできます。

 つまり、私たちの意識が、死んだらどうなるのか? 無に帰すのか? 六師外道のように循環の分子論を展開するのか? もし無に帰するというのであれば、菩提行は実話でなく、理想論の展開を大乗仏教の緒論師たちは展開しているだけと、断滅論を展開するのであろうか?

また、意識が死んだら終わりという断滅論を展開するなら、無から意識は生じることになります。 もし実感がなうからという理由で心相続を否定するなら、その人は、自分の小さな経験に依存する慢心にまみれていると言わずにはおられません。
 自分の経験を根拠にするなら、禅定の体験や知覚は想像すらできません。
すると、八解脱や悟りの階梯には経験が無いからという理由で、否定することになります。

修行の階梯も否定する相手に何の議論をするのであろうか?
輪廻さえ信じたくない人を相手に何を話すのであろうか?

そこで、正理の正統性を得られても何の意味があるのであろうか?

そういったところが、僕が理論追及のスタンスを否定するところです。
また密教徒は、顕学の学びの人より正理を大切にします。
それは、禅定体験など、知覚の微細さが要求され、普通ではない知覚をしたしするので、単なる神秘主義に陥らないように、正理の厳密さが要求されるのです。

【空の三態】

空の三態というのは、余り聞きなれない言葉ではあるかもしれませんが、龍樹の空思想全体を貫く思想なのです。

ここ『六十頌如理論』でも、『中論』でも、勿論ですが、


空性の用(空用)、
空性そのもの(空性)
空性の意味(空義)

の三つの解釈があるのです。
バーヴァヴィベーカとチャンドラキールティは中観派を代表する論師ですが、この解釈の違いで自立論証派と帰謬論証派の違いに分かれました。


●空の用とは、すべての言葉の戯論(ケロン)〔ことばの虚構〕を止滅することが空用です。
『中論』の18章「自我の考察」の中に次のように述べられている

 業と煩悩の止滅によって解脱がある。業と煩悩は分別からおこる。 またそれら分別は戯論からおこる。 しかるに戯論は空性において滅する。


つまり、戯論(ケロン)を滅する為に空性が説かれるのです。 これが空性の用とです。



●空性とは
『中論』の18章「自我の考察」の中に次のように述べられている

他によって知るのではなく、寂静であって、戯論によって語られることなく、無分別であり、種々の意味をもたない―これが真実の相である。

ここで語られているのは、「戯論によって語られない」という、すなわち言葉は虚構なので表現し得ない、また概念的思惟によっては把握できない無分別の法性とか真如というのもを言葉によって表現しようとすると多義になり、空性とは離れていってしまいます。
バーヴァヴィベーカは、「空性を縁ずる智」と解釈し、無分別智の対象と「勝義諦」を解釈するのです。
それに対しチャンドラキールティは空性によって戯論がが止滅するのは、空性によって苦悩や迷いの根源である執着を否定し止滅するので、空性の「空用」から始まって戯論が止滅していく段階に沿って空性を現成することに他ならないことを「空性」とした。



●空義とは
チャンドラキールティは『中論』の18章「自我の考察」を引用して
縁起が空性なのであって、これが「空義」であるという



空性の思想を拾い出そうとすると、『六十頌如理論』と『中論』はいろんな根拠になりえて、まさに戯論の網を広げるかの如くです。



空と体験


ナーガールジュナ(龍樹)の諸著作には殆ど神秘的な体験を語っている箇所は殆ど見えない。 ナーガールジュナを合理的な思索や思想表現に満ち溢れているので、場合によってはナーガールジュナを、東洋の哲学者と勘違いしている人も居ると思いますが、実際は
卓越した直感的認識に導かれて合理的な思索を超えた「さとり」の世界、「空」の世界を可能な限り、徹底した思索を加えて、論理的にあるいは理論的に示そうとしたとしたのは、周知の通りです。

彼を直感的な神秘主義者という人も居ないと思いますが、逆に合理主義的思想家という枠に分別するのも正しくない。


原始仏典に伝承されている仏陀の「さとり」についての次の言葉が注目されます。

実に私によって証得された法は深遠であり、洞察しがたく、理解しがたく、寂静であり、卓越し、思惟の領域を超え、微妙であり、知者〔のみ〕知るところである。
ところが世の人々は、アーラヤ(愛着、欲望)を楽しみ、アーラヤを愛好し、アーヤラを喜んでいる。 実にアーラヤを楽しみ、アーラヤを愛好し、アーラヤを喜んでいる世人はこのことわり、すなわち<此縁性(シエンショウ)>、縁起を洞察することが難しい。
実にこのことわり、すなわちあらゆる生活活動(行)の止息、あらゆる愛欲の捨離、欲望の消滅、離欲、苦の超克(滅)、涅槃を洞察することは難しい。

これと同じようにナーガールジュナの思想は、神秘主義でも無く、合理主義的思想家でもない仏教の「さとり」を背景とした洞察と出来る限り論理的な思考に裏打ちされた論であることを忘れないで頂きたいと思います。


石田さん

 絡んでくれて良かったです。
 まるで独り言みたいになって寂しく思ってました(笑)

いやあ、カルマ・ランジュンさん、いつも深遠なご解説、ありがたいです。
法の証得



法の証得というのは、「縁起を知る」というように、知的な表現によって示されますが、この認

識は我々の分別的思惟によるものではなく、瞑想(禅定)と不可分の認識です。

ナーガールジュナはこの点を強調しています。


智慧なくして禅定はありえず、禅定なくして智慧はありません。この両者がある人にとっては生

死の海は、牛の足跡のようである、と知るべきです。
『勧誡王頌』第107偈

「牛の足跡のよう」とは、小さな水溜りを牛の足跡に喩えていて、容易に超えられるということ

を示しています。


そして「空」というのは、神秘的な体験世界の話であろうかと思えば、『中論』18章の5偈にはこ

うあります。

業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。 業と煩悩とは分別思考から起こる。
ところでそれらの分別思考は形而上学論義(戯論(ケロン))から起こる。
しかし、戯論は空においては滅びる。

こういった取り組みの前提を踏まえて、やり取りしたいです。



うーん、気持ちを引き締めないと・・・。
>[098]法の証得

これについては第11頌、第12頌においてとても豊かな議論がなされていますね

法(=涅槃)を知るとは、〈依存関係による生起〉と涅槃とが本性において異なるものではないと決定する認識だとチャンドラキールティ師は注釈する
そしてもちろん〈依存関係による生起〉とは実体としての生起がないことだと解説する
苦は依存関係によって生起するものであって実体としては生起しない
実体として生起しないならそのものが涅槃だとチャンドラキールティ師はナーガールジュナ師と共に畳み掛ける
すなわち輪廻は涅槃と何ら異なるところがない
【聖者の涅槃】・・・・・・・・・・・・・・・・第五十七〜五十九偈 にあるように、思考と分別という戯論を離れた者には、以下の11偈と12偈のことは適応されるけど、止観さえできない者には、単なるイメージの遊びにしかなりません。

(第十一偈)
それこそが現世における涅槃であり、またますべきことなされたことである。 法〔を見る〕智の後に、もしそこに別のものがあるとするなら、

(第十二偈)
このように、非常に微細なものにも生起があると考える智慧のない人には、条件による生起(縁起)の意味は見られない。


チャンドラキーリティの註釈を活かすも殺すも、読者次第でしょうね。

とても味わい深い偈頌ですね


>(第十一偈)それこそが現世における涅槃であり、またなすべきことがなされたということである。法〔を見る〕智の後にもしそこに別のものがあるとするなら、〔その見たものは実は別のものだと言える〕。(第十二偈) 非常に微細なものにも生起があると考える智慧のない人には、条件による生起(縁起)の意味は見られない。

現世における涅槃とは何であり、なすべきことがなされたということはどのようなことであるかがここにおいて明らかに示されていますね
法を見る智すなわち涅槃を見る智とは、その後に別の何ものか(たとえ非常に微細なものであろうと)の生起があると考える智慧のない人においては、実は〈条件による生起(縁起)〉というものの本当の意味は見られないし、したがって涅槃の何たるかも正しくは見られていない

という文意でしょうか?

第十二偈頌についてチャンドラキールティ師が注釈し現観(直観による知)に関して論述している所もすごくためになりますね

「…法を見る知によって一刹那に〈依存関係による生起〉を見る他に、いまだ見られたことのないものが見られるということはありえない。
それならばなぜ見道が十五刹那に渡って立てられるのか、と問う者があれば答えよう。…」
『六十頌如理論』の見解において、相違が生まれそうで楽しみですが、明日から、新しい職場(会社)に移るので、憶えないと行けないことも増え、責任も増えるので、落ち着くまでの間は、書き込みが減ると思いますが、ご容赦下さいませ。


カルマ・ランジュンさん

解釈が分かれやすい所だとおっしゃっていらっしゃるのですね
まず一人一人がナーガールジュナ師あるいはチャンドラキールティ師の説く所を参考にしながら自分の心にしっかりと向き合うべきなのでしょうね

そうして感じるものをお互いいかに把握し、いかなる文脈で拾い上げるか、是非カルマ・ランジュンさんを始め皆さんと豊かに学んでゆきたいと思います

m(_ _)m

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