パリへ戻り、Rock and Folk(音楽雑誌)の求人に応募し、パンク・ロック・Trustテイストのボーカルとなるが、ドラム担当の地下室で彼の家族へ公開する練習は正直なところ全く魅力的ではなかった。 クラリカは進むべき道を探しながらhypokhâgne(文学の専門学校)に登録し、「ママンを安心させるために」資格を取り、演技の道へ進むことを検討するが、すぐに断念。 「自発性が足りなかったの。カフェの奥で何時間もTchekovの話をして、さて練習、と言い出すのは朝の3時・・・。」
舞台を降り、クラリカはStudio des Variétésでレッスンを受けるようになる。そのときに出会ったのがJean-Jacques Nyssen。ベルギー人のミュージシャン・歌手。感情と感性の面で一目ぼれをした二人は、一緒に仕事をするようになる(現在2人の子供を持つ)。 デモテープを数えきれないほどプロダクション会社に送るが、しばらくの間反応は無し。そのうちインディーズ・ラベルBoucherie Production 社長、François Hadji-Lazaro が彼女の声に感銘を受け、1994年にファースト・アルバム"J'attendrai pas cent ans"をプロデュースする。
知名度が高まり、98年にはFrancopholiesフェスティバルで最優秀新人アーティスト賞を獲得。 どんどん広がっていく音楽活動の中で、フレンチポップスの巨匠であり、ハンガリー出身のミシェル・ジョナスと出会い、L'Ocean des Possiblesを作曲し、デュエットでリリース。(アルバムJokerに収録)
そして2001年にはサードアルバム、"La fille, tu sais"を、2005年には4枚目の”Joker”をリリース。