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林 竹二 先生コミュの林竹二さんとの出会い

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 以前は何の抵抗もなく林竹二先生と呼んでいましたし、私の人生において、最も大きな影響を与えてくれた人だと思っています。
 
 でも今はすべての事に意味があると思っていますし、すべての人の存在のおかげで今の自分があるんだし、「みんなちがってみんないいんだ」と思おうとしています。

 それであえて、意識的には誰にも先生とはつけずに、最大の敬意を表して「さん」と書こうと思っていますのでよろしく。

 林竹二さんとの出会いは今年の年頭に書いた文がありますので、それをコピーさせてもらいますから、読んでみてください。

 昨年の12月25日から28日までは弘前大学で「賢治の学校」の鳥山敏子さんの集中講義を弘前大学の教師希望の3,4年生たちと一緒に「学ぶこと」について考えさせてもらいました。
 そのときお世話になった遠藤先生の研究室の机上に「林竹二先生」の著書が何冊も置かれてあり、ここでも大きな縁を感じさせられました。

 わたしにとって林先生はかけがえのない先生でした。
25歳の頃自宅で塾を始め、教育関係の本を結構まめに読んでいて「遠山啓さん」「斉藤喜博さん」はおもしろいなと思っていた頃本屋さんで「教育の再生を求めて」という題に引かれて買って、自宅の蒲団の中で寝そべって読んだのですが、読むうちに涙が出てきて止まらなくなりました。
 そのあと何冊か林先生の本を注文して読んでみると全部いいんですよね。

 それらの中のどこかに宮城教育大学にはおもしろい先生がまだ何人かいそうだということ、林先生の「学問について」という1948年に書かれた文章の中にマルクスについて書かれた部分があって、マルクス大好き青年であったハブさんとしては宮城教育大学に入りたいと思ったのでした。

 宮城教育大学は林先生が学長をなさっていた時の大学改革で合研制度、基礎ゼミ、総合講座などが充実していて、私などは入ってすぐに基礎ゼミは「安孫子麟先生」「小野四平先生」「岩浅先生」「近藤完一先生」をとり、合研も「近藤合研」「安孫子合研」の鍵をもらい、それ以外にも「鈴木清龍合研」「竹内敏晴合研」に出入りしていて、総合講座「からだとことば」「公害」「健康」も受講していました。


ということだったんですがね。

 実は上の文章には触れてないんですが、林竹二さんに長い手紙を書いたことがありました。

 自分のことを書き、宮教大に入った事情やら、そこで学んだと思っていることなど長々と書き、「授業を考える会」で蔦温泉にいらっしゃる時に、田中正造の最後の日記の「何とてわれを」の六文字の意味を教えていただきたいという趣旨だったような気がします。

 そのすぐ後に、林竹二さんから「君は味噌もくそも分からないような人ですね」という手厳しいはがきを速達でもらい、それを読んで恥ずかしくて布団にもぐりこんでしまったことをはっきりと覚えています。

 その後の蔦での会のとき林竹二さんに呼ばれ「先日は失礼なはがきを書きましたね」とニコニコされながら「あなたが大学をやめたのは、大学には免許を取るためだけに入った事になるのではないですか?」「日記の解釈はテストの答案のようにこれそれとあるようなものではなく、あなたの一生をかけて考えていくようなものではないんですか」と話してくれました。

 そのしばらく後の、やはり、「授業を考える会」主催のパーティの時、林竹二さんに「先生の小さい時は、ガキ大将だったんですか?」となぜか訊ねたときに「いや、ガキ大将に逆らってるような子だったね」と笑いながら話してくれた事も覚えています。

 最近、林竹二さんの著書を読むことも少ないんですが、先日の北海道のひびきの村のユースカンファレンスのワールドタイムで話をしてくれた、岩本さんという札幌ラジオで大村祐子さんのトーク番組を作っている方と、このみさんといって祐子さんの片腕的存在でコーラスの指導もバイオダイナミズムの実践をしているたくましい女性の二人ともが林竹二さんの名前を話してくれていたのを聞いてうれしくなっちゃいました。

 林竹二さんの最晩年、湊川高校や尼工、南葛高校に授業に入り、教授学の会の斉藤喜博さんと別れ、宮教大での大学改革も否定なさるような厳しい書き方をされるようになり、「教育亡国」で国や行政の責任もきちんと書かれ、最後は須賀川養護学校の勝弘君に関わった安藤さんたちのような実践を高く評価され、「畏敬の念のないところに教育はない」ということを強調されていたんだと思います。

 このことの意味を考えて行きたいと思っていますので、皆さんの感じている事や考えていることを聴かせてもらえればと思っています。よろしく。長くなってごめんなさいね。


コメント(2)

こんにちは,カエルです。
ハブさん,貴重なお話をありがとうございました。

林先生を初め,宮教の名だたる先生方,懐かしいでね。
竹内先生などは今も現役で頑張っておられるようですし,なんだか歴史を感じます。

文末にご提案いただきました内容について「教育亡国」を読み少し勉強させていただこうと思いました。
まだ,議論するレベルに達していなく恐縮ですが,よろしくお願い致します。
かえるさん、さっそくの書き込みありがとさんです。

 悪い癖でだらだらと長く書いてしまって、いけないとは思うのですが、これが今のハブさんだと思って、大目に見てくださいね。

 林竹二さんは「田中正造の生涯」を書いたとき、最初はその10倍くらいの原稿を書いたそうですが、それを削りに削って
講談社新書判に入るようにしたそうです。
 近藤完一さんなどは全部活字にしてくれれば良かったのにといってましたね。

 ところで最後に提案した事はあまり難しく考えないで下さいね。かえるさんや皆さんの感じている事を書いてほしいと思っているだけですから。

 林さんや近藤さんはとても出典や原資料を大切に厳密に吟味して書く人たちでしたが、私は正確さよりも一人ひとりの感じた事すべてに意味があるんだと思っています。

 私の林さんに対して抱いている仮説は次のようなものです。

 宮城教育大学の学長になってすぐに、大学紛争での学生のバリケード封鎖にあった時、自らバリケードの中に入り学生たちと話し合いをし、学生たちが自主的に封鎖を解くという形になったそうです。
 又、自ら学長のリコール制度をつくったり、教師の研究室を学生に開放するという形での合研制度をつくったり、総合講座を作ったり、教員の現職講座を始めたり、大学院構想もこのときからあったようです。
 それと授業分析センターを作り、そこに斉藤喜博さんを所長として迎えた事も大きな事だったと思います。

 そして学長の任期中から小学校で授業を始めるのですが、この授業での体験と子どもたちの感想が、林さんが授業に病み付きになるきっかけをつくったようです。

 それまでも、東北大学で学生たちに授業やゼミの形で教えたり、宮教大で教師志望の学生たちに総合講座の「人間」などの授業をしていたはずですが、そこでの体験とは違ったものを感じたんだと思います。

 一方、明治維新の研究の中で「森有礼」「新井奥邃」「田中正造」に着目し、特に「田中正造」については本にまとめる必要を感じられてたようです。

 ただ林さんの田中正造の理解は「義人田中正造」というところだけでは納まらないものがあったようで、そこが吹っ切れたのは、強制破壊の後に嵐の中で避難するように説得に歩く田中正造に対し、谷中村の農民達はそこに留まった事に対する、田中正造の衝撃であり、その後、谷中村に裸同然で学びに入る田中正造に焦点を当てたとこなのだと思います。

 林さんの初期の授業は、人間についてということで、ソクラテス的で「子どもたちの持つドクサを吟味にかける」という感じが強かったんではないかと思うんですが、そういう授業を全国でやりながら、どんな子どもたちもみな学びたがっているという事実を示して歩くのですが、多くの教師達はその事実をみようとはしませんでした。

 そうして疲れきっていた林さんに湊川高校で授業をするという縁が結ばれます。そこでの被差別部落出身や在日朝鮮人や小中学校で落ちこぼされて来た高校生達の反応も今までにないような強烈なものだったんでしょうが、それ以上に、そこの教師たちのほかの学校にはない熱心さを感じ、田中正造が谷中村に学びに入ったように、林さんも湊川高校に学びに入ったんだと思います。

 そこへは竹内さんや高橋金三郎さん斉藤喜博さんも授業にはいります。ところが斉藤さんの授業は湊川では通用せずに、斉藤さんは湊川に背を向けます。
 林さんは毎年していた斉藤さん主催の「教授学研究の会」の片山津の全国大会の講演でで灰谷さんの生徒が書いた「チュウインガム一つ」の詩を涙ながらに読み「いい授業をする手伝いをするつもりはありません」といわば、「教授学研究の会」と決別します。

 そして灰谷さんとの対談の中で、宮教大で自分は何もできなかったとあそこでの数々の改革を全く否定するような言い方をしています。そして学生たちが卒業する時に謙虚さだけはなくさないでほしいといっていたような気がします。

 私は林さんやその当時の教師たちが行ってきた大学改革はとても大きな意味があると思っています。
 しかし、それよりもより大きなものが「謙虚さ」だといっているんだと思います。それは谷中村に入りなおした田中正造に林さんが学んだ事なんだと思っています。

 湊川高校でも林さんを最初に呼んだ福地幸三さんたちと西田さんたちの学校改革の方向性の違いに巻き込まれるような形になり、林竹二批判が「総合教育技術」で特集されたりし、林さんもそれまで教師たちに「一年に一度でもいいから、子どもたちが集中して受けれるような授業をしてほしい」と望んでいたけど、今の教師たちにはそうする余裕すらないのではないか、そういう状況を作ってきた国、文部省の責任をはっきりさせる必要があると書かれたのが「教育亡国」なんだろうと思っています。

 また、最晩年は須賀川養護学校の勝弘君に関わった安藤さんたちの実践を高く評価します。ここでは初期のソクラテス流の吟味ではなく、その子どものいのちに対する畏敬の念、どんな子どもに対しても、持ち続ける「愛」こそが教育の根底にあるものなんだといいたかったんではないかと思っています。

 ここまで書かせてもらったことは、何かを確かめて書いてるわけでなく、かなり不正確な部分があると思いますが、大筋では間違っては無いだろうと思っています。

 私は宮教大に入った年に「教員資格認定試験」に受かってしまい、翌年、今の宮教大の学長の横須賀さんに「岩手の本寺小学校に産休の先生が居るんだけど、免許があるんなら行ってみないか」と言われ、中退して行きました。

 そこは全校生徒100人ぐらいの僻地校ですが、「教授学研究の会」の公開授業を行ってる学校で、とてもいい学校でした。最初のうちは18人の小2の子どもたちと楽しくやっていたんですが、個人的に自己嫌悪に陥るような事があり、子どもたちとの授業にも行き詰っている時、盛岡での灰谷さんの講演会を聞きに行き、そこで買った林さんと灰谷さんの対談集に灰谷さんの友人の鹿島さんの授業批判が載っていて、それを読んだときに、自分にはまだ子どもたちと授業をやる力なんか無いんだと、ますます落ち込んじゃいました。

 そこの産休で休んでた太田さんが戻る事になり、校長さんが次の学校を探そうかと言ってくれたんですが、大学に戻る事にしたんです。

 そこで籍はなかったんですが近藤さんの研究室で学びを続けていた時、シュタイナーに出会いました。そのときからシュタイナーと林さんに非常に共通する何かがあるような気がしていたんですが、最近それが「子どもに対する畏敬の念」を持つ事が最も大切なんだということではないかと思っています。

 林さんが何かに「教師の仕事は子どもたちに何かを教えることではなく、子どもたちの持っている学ぶ力をつける手伝いをすことなんだ」(これも正確ではないと思いますが)と書いてあるのを読んだ、清水で開業医をしている乾達さんという方が
「教師を医者、子どもたちを患者さんたちと読み替えると医者の仕事も教師の仕事と同じです。」というはがきを書いたそうですが、私の知る限り林さんがやろうとしていた事を、もっともついでやっているのが乾さんだと思っています。

 さらにカウンセリングの学びも10年ほど前からしているのですが、日本にカウンセリングを広める仕事をした友田富士夫さんも「カウンセラーはクライエントに何かを教えるんではなくて、クライエントが持っている自分で解決する力を見つける手伝いをする」のがカウンセリングだといってるような気がします。

 今はいろんなことが自分にとって必要な事だったと思えているんですが、本寺に居た時もっと気張らずに、子どもたちから学ぶ気持ちを持ち続けていれば、もっと違った人生だったような気がしてるんですがね。

 又しても長くなってごめんなさいね。

 日頃思っていたことを、読み手のことなど考えずに書いちゃいましたので、読みにくかったり、分けがわかんないこともあるでしょうけど許してくださいね。

 何か感想なり何かありましたら、自由に書いてくださいね。お願いします。 

 

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