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認知心理学コミュの理解術について

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初めまして、理解について研究してます。
私は理解する方法を模索しているので、このタイトルを付けました。
私の知っていること、というか考えたことです。

『まず、理解の現象的な側面から考察する。理解しようとするとき、人間はどのような現象を起こして理解しているだろうか。まず、理解したい対象が情報として知覚される。この知覚された理解したい対象がまず何であるかということを分析するのではないだろうか。そして理解したい対象が何であるかということを自分の記憶の中から選び出される。そして判断されたあと、理解したい対象が何であるか決定される。
私はこの「何であるかということを分析する」という行為を「分解」と呼ぶこととする。分解は分析するということより、もっと根本的な認知で「この一つのものはこれらのことに分けることができると考えるということ」である。名前の由来は「分かる」ということが「分ける」から来ていることからである。そして「何であるかということを自分の記憶の中から選び出される」という部分で行われている行為を「結合」と呼ぶこととする。結合はこれも根本的な認知で「これとこれが関係あるということを考えるということ」としている。名前の由来は記憶している事柄と理解したい対象を結び付けていることから結合という名前にした。そして「選び出される」という行為を「選択」と言っている。選択はそのままの意味と名前の由来である。
この三つの要素である「結合」、「分解」、「選択」という三要素が基本的な理解の現象の要素と言っていいだろう。』

『』の中は私の論文の引用なので、ちょっと言葉がちぐはぐだったりしますが、この結合、分解と選択という要素の中の選択の判断の仕方に「同じ」と「違う」という判断の仕方があると思うのです。これが私の考えた全てです。

これだけだと、理解するということに関しての考えとして不十分なのは明らかです。そもそも、理解するという過程の中には推論が含まれます。この推論が複雑であり、例え結合、分解、選択という過程を踏んでいると指摘することができても、じゃあ、どのような推論によって結合、分解、選択は使われているのか全然わからないわけです。

どなたか、推論の過程。特にスキーマやフレームをがどのに知覚されて推論に使われているのかについて知っている方の意見を知りたいです。仮説等の考えたことでも構いません。アドバイスをいただけると幸いです。

コメント(30)

スキーマ(フレーム)ネットワークを知覚するのはちょっと難しいような気がします…

スキーマが推論に使われるとすれば、目の前の対象(あるいは現象)とスキーマネットワークにある類似の現象からその後に起こる展開、あるいはその対象の特徴を予測するということになるでしょうか。

スキーマネットワークを使用する場合、五感による知覚情報処理を経た後となります。
なので知覚情報処理の仕方と記憶も関わってきますね。
スキーマネットワーク自体は後天的に身につけるものなので知覚情報処理の理論が役に立つはずです。


処理の簡単な方式は“知覚→暗号化→短期記憶→長期記憶”となるでしょうか。
単純な式ですが。
コメントありがとうございます。
知覚情報処理の理論ですか。
そちらの方調べてみます。

スキーマを知覚するのはやはり無理がありますか。
方法論として考える上では視覚化できるとベストなんですけどね。

トッピクを多く立てると悪いので、他の疑問も書いておきます。
このトッピクを書いたあとに思ったんですけど、理解と推論って知覚プロセスとして何が違うのだろうか?と思いました。私には同じに見えるのですけど…。
なんのエビデンスもない意見です。

「理解」という概念の中に”推測”があるのではないか。と考えています。
”推測”と推論の違いは、”推測”が過去の経験・学習に基づく無意識レベルの瞬間的な予測で、
推論は意識レベルの、論理的整合性を確保した状態の予測ではないでしょうか。
推測は知覚情報を、生活上意味のある部分・全体情報へ決定する行為で、
理解の最後のプロセスだと思います。


そして「理解」という情報処理過程は、
トピ主さんの言葉も使うと
知覚>感覚器官の情報性質ごとに”分解”の選択>”分解”>各情報を”結合”するための選択>”結合”>統合化された部分・全体情報から”推測”
という流れではないかと思います。

貴重なコメントありがとうございます。
推論と推測の関係はあまり考えていなかったので、新しい知見を得られてありがたいです。
特に最後のプロセスとして推測が用いられているというの私には新しい知見です。
体験的な記憶に基づく知の文法として、知識の文法スキーマを「理解」に応用したミンスキーのフレーム理論があります。ミンスキーは記憶に於けるフレーム知識とスロット照合される解釈的なスキーマのマッチング的な連想という思考行為として「理解」を捉えています。このミンスキーのフレーム理論に於いては記憶としてのフレームは世界を一定の視点から理解するためのア・プリオリなカテゴリー系をなしていて、ノードと関係のアークからなるネットワークの形を取ったものです。(このネットワークでの各フレームは人間の持っているそれぞれの物に対するある一塊りの知識であって、その知識は他の知識(フレーム)との種種の関係で結合されていると考えられ、階層構造を持ったフレーム相互間の結合を行って全体知識の表現を形成するとされています。)そこでのトップレヴェルのノードは対象とする世界の真なる事態を指すラベルを有し、低位レヴェルのノードはスロットとしてデータの割り当て用の変数であるか又はデフォルト値を持つものと考えられています。そしてこれらのフレームは類似関係によって関連づけられているフレーム・システムとされています。そこでは、ある世界の状態を見てその意味を理解すると言うことは、しかるべきフレームを選択してスロットをデータで埋め、関係のアークを辿ってトップのノードに到達することであり、状態の変化の理解は視点の変化による選択フレームのシステム内変換であると考えられています。そして、ミンスキーのかかるフレームは制御付きプロダクションをなしていて、そこでの操作の中で世界の視点が映ることとしての操作と知識とのマッチングはフレーム選択の変換かあるいは(サブ)フレームの作り替えと考えられていて、そして類似フレームを一つのスキーマとして表しています。またスキーマではノード、スロット以外に関係アーク操作(更にトップレヴェルのノード)までスロット化がなされるとすると、その為にそこでの値の割り当てをインプットされる視点情報によって決めていくプラグマティクなスキーマ解釈用制御がもたらされると考えられています。そしてかかるミンスキーの理論を発展させたものとしてシャンクの文の概念依存関係(CD)理論があります。このシャンクが考えた知識の表現構造は、また時間的に変化する場合のものでそれをスクリプトとしています。
そして、1980年代にスキーマの認知的な心理学的な説明は、コネクショニスト・モデルでもって実行されました。過去の処理の歴史は、ニューラル・ネットワークのコネクション重度の(永続するが修飾な)基盤での‘保存されたもの’であって、このように入力の進行中の処理に因果的に全体論のやり方で影響する(ラメルハート、Smolensky、McClelland and Hinton 1986)ところの、スキーマと連続した思考プロセスは分散処理に対応するされました。 認知的な人類学者、例えばクローディア・シュトラウスとNaomiクインは、どれほどの文化学習が伝統によって浸透されて、まだ厳しく反復的である反応を起こすかについて示すために、このコネクショニスト・スキーマ理論を使用しました。
なを、言語学者George Lakoffは、「抽象推論はイメージ・スキーマに基づくか?」と問うて、イメージ・スキーマに対して、概念体系と言語体系に関わる規則性を特徴づける一般的な原理としての「不変性仮説」を提唱(坂原茂編『認知言語学の発展』ひつじ書房)しています。
ところで、パターン認識に於いて有名な「醜いアヒルの子定理」を提唱した、国際的な学者であった渡辺慧先生の著書『知るということ 認識学序説』が、ちくま学芸文庫より復刊していますので、こちらも参考にして下さい。
コメントありがとうございます。
推論は理解と同じくらい手つかずの分野だと思っていました。
知っている人はやはり知っているんですね。
本の方の記載ありがとうございます。
読んでみます。
理解と学習はどう違うのかな。
あと,ミンスキーつながりで,K-ラインというのを思い出した。心の社会です。
 私が思うに学習は理解しなくてもできると思います。丸暗記も学習と言えるのではないでしょうか。記憶も高度なものになってくると理解に使うような方略を使用しますが、特に理解と記憶の違いは理にかなってなくても記憶は記憶力は高まるという点です。しかし、低次元の記憶はそれを必要としません。だから、丸暗記、棒暗記なら理解の方略を用いることがないはずです。
 また私の学習観では、理解以外の様々な要素も学習は内包していると思います。
上記のコメント、私は基本的に記憶と理解しか研究していないので、記憶と理解の観点から述べさせてもらいました。少ない知識量ですみません。
あ,理解を記憶のための方略として見ているのですかね。なら,「処理水準」ですか。

理解を理解するには,エピソード(インスタンス)を概念(クラス)化するところが,肝のような気がします。帰納や演繹は概念化した後の話(推論)でしょう。
 よく考えてみたら、推論の仕方は正解が何であるかに左右されるっということに行きつきました。理解を考えるうえで同じくらい正解が何であるかということが重要なようです。
 そこで物体の理解についてのプロセスのみに焦点を当てて考えることにしました。しかし、物体の理解の正解って何か?という新たな疑問が生まれました。
 (物体の理解とは、例として何も知識がない人間が、どうやって物体を景色から分化するのかと言うことなど)
 物体の理解の正解って何でしょう?
ミンスキーはフレーム理論は動的でないとして『心の社会』(産業図書)ではエージェント理論へと修正しました。そこでは、ミンスキーは、心とは「一つひとつは心を持たない小さなエージェントたちが集まってできた社会」と提示しています。その「心の社会」は、「エージェント」と呼ぶ思考の最小機能単位による複雑なインタラクションがエージェントの「社会」を構成し、それが心を生み出すという内容となっています。ミンスキーによれば、数百数千の異なるコンピュータから脳が構成されており、要素一つ一つは簡単なプロセスを実行し、それらがグループを作って活性化したり、他を抑制する、それが脳の働きの基本だという。「エージェント」は「思考素(esource/resources)」と呼ばれ、また問題に対処する為の思考の経路を意味する「思考路(Way(s) of think)」という言葉がキーワードとして登場するが、問題に応じてさまざまな「思考路(Way(s) of think」をセレクター(「選択家」)で切り替えることで心は機能しているのだと述べています。その基本は「if→do」ルールと言えますが、思考路による処理の階層を上がるとより複雑になって、さまざまな状況に応じて、さまざまな思考素をセレクターが選択するとされています。そして、知識には、「何が事実として成立しているかということの知識」の他に、「どの様に行うかということの知識」としてのある種の技術・能力を持つということに依存した知識も必要とされます。なを、「心の社会」に於けるフレームは、他の構造と接続出来るようなターミナルの集まりに基づく表現とされ、普通各ターミナルは暗黙の仮定に結びついており、この暗黙の仮定はより特定化された情報に簡単に置き換えられるとされています。同じターミナルを共有するその集まりである「フレームアレイ」のどこかのターミナルに接続された情報は、そのフレームアレイに含まれたフレーム全部から、自動的に利用できるようになり、これによって物理的な見方を変えるだけでなく、心の別の領域からの見方も変えることが容易になるとされています。
ミンスキーの「K-ライン」は、エージェントたちの集まりが活性化され、さらにそれによって以前の心の部分状態が再活性化されるプロセスに基づいた記憶をK-ラインと呼び、そして記憶についての「心の社会」の層として、元々の記憶S-エージェントの、その記憶について考えるにはそれぞれのK-ラインを直接にそれらのS-エージェントに結びつけなければならないとされ、そして新しいK-ラインを古いK-ラインに結びつけるもっと効率の良い方法が使えるようになるとされる。また、K-社会が対応するS-社会に近い《層》の形に成長するならば、(K-社会とS-社会とは、S-社会の方が始めに来るというだけで何ら本質的な違いはなく、その果てしない連鎖の先に新しく現れてくる社会は鎖の最後にあり、直前の社会を利用するようになるが、新しい層はそれぞれK-ラインの集まりとして作られ始め、それは一つ前の層によって獲得された技能なら何でも利用しようとすることから始まり、新しい層はどれも古い層がすでに出来ることを使うための新しい方法を学習することとしての)両者の間に簡単に新しい結合を作り続けることが出来るとされます。
付け加えるならば、どの様な問題でも、それらを処理したりして学習するには、それら問題を解くために様々な種類の記憶を使わなくてはならないということと、将来類似した問題が起こったときに以前のの解決法を使うために、それら問題をどうやって解決したかを思い出す必要があります。また、何かを理解する場合、何らかの類推によってそれら新しい問題をすでにもっともよく知っていることに似せて表現して、当てはめなければなりません。
コメントありがとうございます。「心の社会」を要約されたものだと思いました。実に興味深いです!
そういえば…
理解というのはどういう定義になっていますか?

対象を察したり、許したり、認めたりする共感としての理解。
対象の特徴や特性を把握し、その仕組みを解明する識的な理解。
色々あると思います。

推論についても定義があれば話の方向も明確になってきます。
対象把握、因果、構造や仕組みを理解する方です。
機械的な方ですね。
理解の定義について考えてみたのですが、
「ある現象、事物に対して経験や観察に基づいて、その構造、仕組みに近い、妥当な解釈を行うこと」と定義してみました。
推論の定義も同じような定義になってしまうので、理解と推論が私の中では何が違うのかわからないです。
確かに違いがあるような気がするのですが、それが何なのかわからない状態です。
定義の付け足しや批判がありましたらありがたいです。
経験や観察に基づいて解釈を行うのは推論ではないでしょうか。
理解というのはモノの仕組みを把握することなので、漢字通りに言うなら“理が解る”ということです。

この“解る”という状態を判断するにはどうすれば良いかと考えたとき、調べてみなければいけないという結論に達します。
理解できているなら、理通りに現象が起こるはずですので。


ここから、経験や観察から解釈を行うのは推論。
モノの仕組みを理通りに把握できているのが理解という定義とするのが妥当な気がします。


例えば、「リンゴを手から離したら落ちる」という現象について、“理解している”とはどういうことを指しますか?

もし、「“経験”からリンゴが落ちると“解釈”した」とするなら明らかに推論です。
これを理解として定義するには無理がありそうです。

理解しているというのは、知識をもってして“なぜリンゴが落ちるのか”を説明することが出来、尚且つその通りに現象が起こることを証明できて初めて理解しているとみなされます。

そこには経験や解釈はありません。
過去の経験を加味したり、どう解釈するかは別の話としたほうが良いでしょう。

理解とは誰が説明しても同じ解答となることと、現象がその通りに起こって初めて証明されます。
それが“理解”というものであり、推論とは異なる部分ではないでしょうか。


この辺をまず固めていかないと話の土台がゆるくなってしまいます。
理解の経緯やプロセスを研究する場合において、理解そのものが理解できていないというのは危険です。
コメントありがとうございます。
理解できてるかわからないので、自分なりに比喩してみました。
つまり、サッカーでいうところのゴールするためにボールの弾道を予測している状態が「推論」で、ゴールした結果、そのボールがどういう軌道でゴールしたかを読み取っている状態が「理解」ということですか?
私の研究では比喩できる状態というのが、理解対象を構造的に理解している状態(比喩したことの構造と理解したことの構造が一致しないと比喩は成立しないという性質がある)を指すというところまではわかっているので比喩してみました。
 この比喩で正しいですか?
深いですね。何度も読み返してみます☆
コメントありがとうございます。
一回で全部「理解」できると便利ですよね。
正直あまり頭が良い方ではないので本を読んでも、コメント見てもそれこそ理解力がない感じなのでw。
だからこそ理解について追及しているんだな〜と改めて思いました。
>コメント20きゅうび☆さん

 自分の中で理解できないのかを考えた末、何が違うのか整理してみることにしました。
 まず、違うと思ったのは理解「した状態」と理解「する動作」で私と考えていることの違いを感じました。 これが私の混乱の種のような気がします。
 次に知識って経験の連続じゃあないですかということが引っ掛かりました。経験の連なりのことを人は知識と呼ぶのでは?ということが疑問に残ります。
 最後に『理解とは誰が説明しても同じ解答となることと、現象がその通りに起こって初めて証明されます。 それが“理解”というものであり、推論とは異なる部分ではないでしょうか。』という部分ですが、
1+1=2と人は言いますが、エジソンが言った粘土の1+1=1は理解できないことでしょうか?。これは理解というものが妥当な推論過程を通せば、どのような理解もあり得る証拠ではという疑問がありました。

 どうでしょうか?。正直書くべきどうか迷いました。が、より良い理解のために書いてみることにしました。
 状態と動作の件は私的にはどうでも良いのですが、下二点は譲れないものです。誰か私を説得してください。
> ボブグリア3世さん

理解した状態を定義しないと、理解する動作について、理解する動作が理解に繋がる結論を導き出せないので、“理解”自体についてどう定義されているのか質問しました。


知識の起源は経験です。
しかし、知識の獲得は必ずしも経験を伴いません。
人から聞いたり本から読んだだけの知識は“経験なき知識”ですね。
起源と獲得過程で別ければそういう結論になります。


エジソンの粘土の話ですが、それは誰もが“理解”していることだと思います。
なので、その理論が成り立つ場合と成り立たない場合を説明できることでしょう。
例えば、粘土のような合体する物質は別の話というだけでもその現象が起こるか起こらないかの判断は出来ていることになります。

粘土の成分がどうだとかは別として、粘土は合体する物質であると説明でき、且つ、その通りに現象が起き、ゆえに(粘土の場合は)1+1=1である。
ということで現象の理解はなされているとみなして良いと思います。
ここから、「必ずしも1+1=2とは限らない」という結論(命題)も手に入るでしょう。

この場合において理解出来ていない回答があるとするなら、「どうしてリンゴを1つとリンゴを1つ足して2と数えるのに、粘土が合体しちゃうのは訳が解らない」などという、「粘土は合体しない」という間違った知識による“誤解”があるからと言えるでしょう。

理解しているということは、その理解しているものが適応される範囲も理解しているとなります。
となると“1+1=2”という命題を理解しているというのは“必ずしもそうとは限らない”という理解も得られているとなります。
だからこそ、その反証命題について説明でき、且つ、実証できるのです。


話というのは逸れていくものなので、もう一度、“理解”というのはどういう状態を指すのかということに戻るのが良いですね。
私の「わからない」に付き合っていただきありがとうございます。
状態と動作の問題がわかりました。意図が分かれば、確かにその通りかもしれないですね。
経験と知識の問題もわかりました。
エジソンの粘土の合体は「+」の意味の取り方の誤解だと思うのですが。
普通の子供が「+」を「存在する」という現象の数であるという理解をするところを、エジソンは「+」を「合体する」という現象の結論の数であると理解したところに問題があったのではないのかと思うのですが。
つまり、1+1=2を理解していないのではないのかっというのが私の考えです。
エジソン的には「どうして私の考えだと結論が2にならないのか?」という疑問だけが残っていたと思います。

まだ、エジソンの問題だけ「わからない」です。

理解の解答は推論の仕方の数だけあると私は思います。なぜなら、仮に同じような理解しか生まれないならば、人の価値観を統制することもできることになります。帰納法が常に同じ結論を描きださないように、理解もどんなに同じ情報を提示できたとしても同じ理解になるとは思えないのです。
私の今のところの思ったことです。
書いて直ぐに思ったのですが、理解「する」という前提で話を進めれば、私の話のようになると思いましたが、理解「した」という状態で考えれば、答えが一通りに搾られるような気がします。
 やっと全てを飲み込めた気がします。
 ありがとうございます。
> ボブグリア3世さん

お役に立てて良かったです。
研究頑張って下さい。
理解の性格についての一つの見解。

理解というのは「モノの仕組みを把握すること」と言うこととは、少し違うのではないでしょうか。そもそも、説明や解釈をする以前に、その説明や解釈の対象は記述されていなければならないが、そうした記述というものは全てに於いて何で「ある」かを明らかにする性格のものです。そうした何であるかを把握する作用を「理解」と呼ぶならば、理解は説明や解釈の前提条件としてあると言えます。
そうした「理解」について、N・グットマンは『記号主義―哲学の新たな構想』(みすず書房)で、「ある人が知識を持つことは、たいていのの場合、その内容が真であること、その人がそれを信じていること、そしてその内容が確証されていることを必要とするのに対して、ある人が何かを理解することはこれらのうちどれも必要ではない。私たちは言明をその言明が真であることやそれを信じることとは無関係に理解できる。………理解は知識より適用範囲が広いのである。」と言っています。更に、彼は「「理解」は技能、操作、成果の全てを意味する多面的な用語である。第一に、理解は、包括的に意味での認識「能力」と呼ぶことかできるかも知れない。すなわち、探求したり創案したり、識別したり発見したり、結びつけたり明確にしたり、秩序づけたり組織したり、採用し、検証し、否認するといったさまざまな能力の集まりである。第二に、理解は、ある世界やいくつもの世界、あるいはいくつもの世界から成るある世界、上記のような技能を用いて制作したり制作し直したりする認識の*操作*である。この操作は先へ先へと続いていく。というのも、理解はいつも部分的だからである。記号を働かせるのは、記号システム、指示の関係、そして状況や目的がとりどりであるのに応じて、とりどりな課題である。理解の前進とは有意的な技能に上達すること、あるいはそれらの技能を適用して理解されたものを拡張し洗練することである。第三に、理解は、認識過程が達成する物事である。それは、知識がある意味で知られた事物からなるのとどこか似た事情にある。もっとも、知識の場合とは異なり、理解された物事を人は必ずしも信じたり真として確証しているわけではない。」と述べています。
従って、何かに似ているという意味での理解と、何を*意味しているか*という意味での理解とを、混同してはならないと言えます。なぜならば、前者は因果的説明(解釈)に特有な理解であり、後者は目的論的説明(解釈)に特有な理解であるからです。また、「意味」把握という作用は、解釈の問題であり、物事の意味理解の問題であるからして、そうした解釈活動を広義の説明的活動とみなすことが出来るかもしれない。そして、「これは何であるか」という問いに答えることがその解釈の成果であり、他方その出来事の理由や原因について問うことが、厳密な意味での「説明」の試みであると言えます。
> 慧遠(EON)さん

グットマンのいう理解は、見解や了解のことではないでしょうか。
私は先のレスでそういった理解と、原理的・機械的な理解のどちらで定義されているか確認をとった上で、機械的な理解に基づいて話を進めた形になっています。

言葉通りの意味でみるなら、理解は乱雑に取り入れられた情報を暗号化して、理を並べていく作業そのものとも言えます。
その場合は真であるかどうかは問わないで理解を完了していることになります。
グットマンの理解はこの範疇の話でしょうか。

一方、今回の話での理解は機械的な理解なので、単純に「理解という作業を行っているか?」ではなく、「“ちゃんと”理解出来ているか?」という方向になります。
モノの仕組みや構造を把握する理解についての研究とのこと。
となると、モノの仕組みや構造を把握する=機械的な理解≠了解・見解(グットマン)という前提で話を進めました。

この場合の理解は真であるかどうかの判定も必要とされます。
真の理解に到達する理解過程を調べるならその理解基準も設けないと調査できないので。

もちろん、グットマンの理解論については考慮しないといけませんね。
そこはスレ主さんがどう取り入れるかセンスの見せどころですね〜。
私か、"きゅうび☆"さんの「モノの仕組みや構造を把握する=機械的な理解≠了解・見解、という前提」とは、あえて違う「理解」を述べた理由を説明します。
グットマンのいう理解の考え方をわざわざ述べたのは、一般に言われる「見解や了解のこと」ではなく、「言葉通りの意味でみるなら、理解は乱雑に取り入れられた情報を暗号化して、理を並べていく作業そのもの」とも言えますが、直接的には脳神経科学的に『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』(河出書房新社)の著者ロバート・A・バートンが提唱している《既知感(feeling of knowing)》という内的なモニター・システムの感覚系として、それによって思考を意識すると同時に、思考がそれによって色づけされ判断され評価される、思考に於ける報酬としての効果を与え励ます感覚であるところの、思考を確かめる際に必要であるばかりでなく、まだ証明されていない考えや証明不可能な考えを動機づけるために欠かせない報酬として働くものがあると、考えるからです。まさに、思考は自己の位置に関する感覚を必要とし、自分が考えていると告げる感覚として、そこでの報酬としての効果を発揮させるために、意識的で意図的な結論であるように感じられる既知感(あるいは正確感、確実感)が、実際には思考に先立ち、思考を気づかせているにもかかわらず、あたかも思考の反応として現れてくるかのように見えるという性格であるが、「知っている」という(無意識的な)思考それ自体である既知感(あるいは正確感、確実感)という感覚は内容の知識とは独立に生じることに、注意していただきたいのです。そして、「何かを知っている」という事態は知識と既知感が合わさった状態であり、ときには既知感なしに知識を有する場合(盲視現象など)もあれば、知識無しに既知感が現れる場合もあり、また既知感は感覚である以上錯覚もあり得る、と言うことです。
以上は、"きゅうび☆"さんが言われる「機械的な理解」とは違いますが、仮にその方向で考えるとすると、(古い雑誌ですが)『サイコロジー No.24 1982/3 特集=認知心理学の最前線 "理解"とは何か、"わかる"とはどういうことか』(サイエンス社)の中の、佐伯胖氏論文「人工の思考と人間の思考 「わかる」ことの探求」での課題解決に於ける「思考の領域固有性」の問題、及び上野直樹氏論文「理解と視点」での「視点を通した理解」とに、関係すると私には思われます。

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