ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

認知心理学コミュのイメージの想起

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 「こんにちは!」
前回に「理解術」というタイトルトピックを立てた者です。今回は「イメージの想起」というテーマでトピックを立てました。記憶に関する研究が私の本業です。
最近、想起について研究しているのですが、研究が行き詰まりました。
その行き詰まった原因があります。
 「イメージの想起の問題」です。この問題は記憶する際に反復学習とアウトプットが重要なのはお分かりいただけると思います。では、その反復学習をする際に、アウトプットのスピードが早かったり、一度に大量に想起できたりすればその記憶への定着率は格段に早くなると思うのです。
 しかし、実際はそのようなことはできない。その理由として想起するスピードはある一定のスピードで限界を迎え、無限に早くなり続けることができない。もう一つの量も、ある一定量で想起の量の限界を迎え、頭の中で無限個をいっぺんに思い出すことができません。また思い出す際に、必ず一個一個思い出している。これらのことは自分のイメージを内観すれば観測できると思います。
 これらの法則性を破ることができないのか?ということが私の今のところのテーマです。注意として、これらの縛りが破れるのは、イメージでは同形状の形のイメージであればわりかし早く、かつ大量に想起できます。しかし、同形状のもので縛りを破っても意味がありません。私の求めているのは多様なイメージで、これら縛りを破る方法です。
 私が今研究している想起についてわかっていることはここまでです。
 私はこの縛りをイメージの世界で破りたいのです。誰か一緒に考えてください。

「お願いします!」

コメント(25)

脳の情報伝達が電気から光に変われば速くなるかもしれませんね。
スキーマの効率化によって速くさせるのはプライミング効果によって若干ではありますが証明されています。
 書き込みありがとうございます。

 やはり物理的限界があるのでしょうか?

 話しは少し変わりますが、サヴァン症候群やルリヤ病は記銘に特異性があるのでしょうか?それとも想起に特異性があるのでしょうか?A・R・ルリヤ著「偉大な記憶力の物語」に出てくるSという人物は、記銘だけでなく想起にも特徴があったのだと私は思っているのですが。
> ボブグリア4世さん

 あなたの言われるイメージとは、どんなものを想定しているのでしょうか。私たちの扱うイメージには、明確に異なる二つの性質があります。一つは、質感的なイメージであり、もう一つは、情感的イメージです。(厳密には、この二つは完全に独立して存在することはできませんが)
 質感や論理は、本質的に時間軸に沿って並んでいるので、練習することで相対的に速く想起できるようになったとしても限界があります。これに対して情感は、原理的には限界があまりない(不明)であると思われます。

 但し、想起するのが速くても、それを自分や他人に向けて表現・表明することには時間がかかりますので、例えば何らかの方法、外的観点から測定するとなると別の問題になると思います。
 まあ、「あまりにも多くの思いが込み上げてきて言葉になりません」といった状態になるはずです。
 また、瞬間的に同時に多くのイメージが想起されれば、それを自覚できるほど分解して実感・体験することは、本人にも難しくなるでしょう。

 現実的に多くのイメージを想起しやすくするためには、人間のイメージを使用することが考えられますが、長くなるのでこの辺で失礼します。

参考

 統一場心理学では、質感的イメージや論理的なイメージのことを、質感イメージと呼び、時間軸のことを質感軸と呼んでいます。(時間は、質感軸上を動く現象であると考えます)
 喜怒哀楽などの感情や様々な欲求は情感イメージと呼んでいて、これは質感軸に直行する情感軸上に並んだ情報であると考えます。直行しているので、非常に多くの情報が瞬時に扱える訳です。
 また、心の中にある人のイメージのことを、内在者と呼んでいます。
 書き込みありがとうございます。

 私のイメージの意味しているところは、質感的なイメージです。言われてみれば情緒的なイメージというのもあるのだな、と思いました。

 人間のイメージというのは、私が推測するところの服、髪型、持ち物などは一緒に想起される現象のことでしょうか?
 あらゆるイメージ(統一場心理学ではイメージ情報と呼んでいますが)は、全て質感的なイメージと情感的なイメージの両方の性質をもっていると考えられます。情感的なイメージのことを「意味づけ」と表現すると、分かりやすいかもしれません。意味づけのない質感は、私たちには確かな情報として扱うことが難しいはずです。
 人間のイメージ(内在者)は、その中にあって、最も多くの質感的イメージと情感的イメージを含む、巨大な複合体と言えるでしょう。

参考

 例えば、他の物のイメージは、あまり変化しないのに対して、人間のイメージは、長く付き合えば付き合うほど「出来事」という形で加算されてゆきます。短時間でも、他の物とは比べものにならないほど複雑で、しぐさ、表情、声色など、千変万化といったところではないでしょうか。
 このように「短時間での複雑性・多情報性 × 時間と共に加算される性質」を考えるなら、どれほど複雑な物質も人間のイメージには遠く及ばないことが理解されると思います。
 返信ありがとうございます。

 なるほど。出来事ですか。確かに建物との出来事というのは、あまりないですね。でもそうなると、理論的には建物との出来事が多ければ多いほど人の情報と同じ可能性を持っていると考えてよろしいのでしょうか?この場合、情緒的なものは少ないのかもしれませんけど。

 あと、人の情報は少し変わるものが固定的であることもポイントだと思うのですが、そちらの方はどう思われますか?
 固定的というのは、例えば服や表情、体型、肢体の動きなどです。体型なんて変わっても予想がつく範囲で変わりますし、肢体だって関節の可動域が限られているしで予想がつきます。人間はポイント、ポイントで変わっていきますよね。

 私は結構しつこい人間なので、答えられたらでいいです。すみません。
>>[002]

脳が物理的なものである以上、恐らく容量にも限界があると考えて良いと思います。
それがどれくらいかは不明ですが、そう考えるのが自然ですね。

症候群や気質、病気などと記憶についての研究は多いですが、記銘に特徴があるかどうかは解りません。
記銘自体が思弁的なものなので、通常の記銘とそうでない記銘などを分別できないはずです。

脳のどの部分が記憶に関わっているか、どの部分が活動しているかは解りますが(といっても血流量や電気の流れが解ってるだけですけど)、それがどのような構造をしているかは現在、思弁的です。
これは医学の発達を待つしかないですね。
> ボブグリア4世さん

 しつこい方、歓迎です。 (^^

 人間のイメージは、もっと複雑だと思います。建物との出来事というのは、もちろん考えられますが、数桁情報量が少ないと思います。この問題については色々な表現ができます。

 例えば、建物を文字で表現する場合、これは(厳密さをカットして)まあ可能であると仮定します。1日、色々な方向から眺めたり、触ったりした記録です。
 でも人間に関して1日の出来事を同じくらいのセンスで記述しようとすると、これはほとんど無理ではないでしょうか。服の皺、関節などに規則性があったとしても、それらの組み合わせは事実上無限と言ってもよいほどだからです。

 さらに例えば、人との関係性には、「経緯」ということがあります。これは、音楽を聴いたときのことを考えれば分かりやすいでしょう。音楽を聴いていて、多くの人々が感激したりするのは、一連の音のつながりを踏まえて感じているからですね。つまりゲシュタルト的な表現になると思いますが、時間軸に関しても、全体は単なる部分の総体ではないということです。
 同じ表情、同じ身体のかっこうをしていても、私たちはそれを「同じ」とは認識しないのです。

 こうした傾向は、もちろん人間以外との関係性にも考えられますが、人間同士の「ストーリー」の複雑さを考えるとき、まるで桁違いの情報であると言えるでしょう。
> きゅうび☆さん

> 脳が物理的なものである以上、恐らく容量にも限界があると考えて良いと思います。

 確かに、そう思います。但し、ここにはもっと複雑な事情がからんでくるのではないでしょうか。平たく言うなら、脳は心を形成し得ないということです。つまり、「想起する」といった意識現象のもたらす出来事は、脳組織では説明できないことを論証するのは、それほど難しくないということです。
 多分、脳組織に何らかの形で固定的に記録されている情報が、意識現象内に読み込まれるのだと思われますが、そこには脳組織の物性だけでなく意識現象を形成する構造体の性質も関与すると考えられます。
>>[009]

そうですね、その通りだと思います。
想起についてはあるひとつの記銘に対する心的なイメージ(私は表象として扱っています)を無限とも言えるパターンでアウトプットすることまでは問題ないのですが、記銘容量とその過程で行き詰まっています。

ソフトウェアのプログラムイメージはいくらでもあるのですが、物的証拠が皆無なので当分は“解りません”で通すと思います(認知心理学者は)。

ここが解れば記憶に関する問題は全て解けると思うんですけどねー(^_^;)
一説には『白鯨』○冊分とか言われていますが、それは物理的記銘の容量であって表象量とは別に考えないといけませんね。

認知心理学の見解になるので申し訳ないですが、脳は心を形成していると考えられています。
脳が死ねば心も死ぬ、心の原点は脳、として扱われています。
この辺は分野について意見が別れるところなので一応、私の立場を明確にしておくだけに留めますね(^_^;)
> きゅうび☆さん

 レスをありがとうございます。

> 脳が死ねば心も死ぬ、心の原点は脳、として扱われています。

 確かに。
 例えば、宇宙空間にボールを浮かせたとすると、片面は太陽の光で輝きます。ボールがなければ輝かないのですが、だからといってボールを切り裂いても光の正体は不明だと思います。
 それでは、脳がなければ輝かない現象とは何でしょうか。という発想です。
 現在までのところ、人類の知っている現象の中で使用可能な仮説は、量子脳理論だけではないかと思います。それが正しいかどうかは証明不可能かもしれませんが、他に説明可能な仮説を立てた例を知りません。

 一般的な(巨大な量子場という考え方を除く)範囲で考えた場合、脳で起きているのは、個々の化学反応と電荷の移動だけですよね。つまり一般的な物理現象の連鎖が、バラバラにあるだけのことになってしまいます。どのような構造を作ったとしても、この事情は変わることがありませんので、以下の二つの疑問には答えられないと思います。

(1)心が、まとまりのある働きをしているのはなぜか
(2)心には、実感・体験という現象があるのはなぜか

 脳は、心と外界をつなぐアダプターのような働きであると仮定できます。アダプターですので、心の働きを外界に反映する全てのチャンネルを備えています。ですので、脳の働きを研究すると、あたかも心の働きの全てに相当する部分があるように思えるのではないかと考えております。
脳細胞と脳細胞との間隙(ニューロン間の接合部)シナプスの情報伝達が電気信号から一旦神経伝達物質に変換されるために一瞬の間が空くように成ってます。
しかしコレは刺激が瞬時に脳を直撃しないための緩和装置とも言えるんです。
幼児が転んでから泣き出すのに即で無くて数秒の遅れがあるのはシナプスの結合がマダ不充分だからですがコレを逆手にとって修行に使う(成長してからも訓練すれば活用出来るので主に防御に使う)のが柔道、空手、その他の武術のワザ(一発で倒されずに反撃できる)です。
>>[7]

 書き込みありがとうございます。

 なるほど。記銘は確かに確かめようがないですね。そういう意味で思弁的ですね。やはり結局のところ頭の中を覗ける機械が必要になってくるということですか。
>>[8]

 書き込みありがとうございます

 では、想起の際の直感像はどのような構造で想起されていると思われますか?
あれは人の情報でないのに、詳細に想起されるようですね。

 直感像は私の考えでは謎の多い現象です。何も記憶していない赤ん坊の方が得意としていることだと私は捉えているのですが。普通、記憶力は記憶量に比例して大きくなるはずですよね。無限通りの組み合わせのパターンを素通りしている現象のように見えるのですが。

 どうでしょうか?
>>[12]

 書き込みありがとうございます。

 私も何かの本で、もし人間の脳に間隙がなかったらどうなるか、というような内容を読んだ記憶があります。詳細な内容は忘れていますが。

 生物の自己防衛のためという側面もあったのですね。ありがとうございます。

 後、私事ながら私も一様格闘技をやっています。その経験から言えば、主に打撃をされている方の方が想像しやすいのですが、柔道をやはり倒される前にカウンターをして倒すのが、その技に当はまるのでしょうか?
> ボブグリア4世さん

 まず整理しておきたいと思います。建物とか普通の物体と人間を比べたとき、相対的に人間のイメージが数桁多くなるということについては、良いのでしょうか。その問題と、直観像の問題とは、少しことなるものだと思いますので。

> 直感像は私の考えでは謎の多い現象です。何も記憶していない赤ん坊の方が得意としていることだと私は捉えているのですが。

 記憶する(脳組織に固定的に記録する)ことと、それを思い出す能力とは、別のものとして考える必要があると思います。まず言えることは、ある種の訓練をすれば、成人でも直観像・映像記憶は、思い出すこともできるということです。
 では、なぜ訓練が必要なのか。それは、意味づけという一種の思い込みによって思考の効率化を進めてきた成人にとって、それ以前の状態に戻ることが難しいからだと考えられます。

> 普通、記憶力は記憶量に比例して大きくなるはずですよね。

 普通の意味ではそうだと思いますが、これは記憶する(記録する)能力というよりも、イメージの連鎖が多い方が思い出しやすいということだと思います。その点、人間をインデックスにした記憶は、本当に見事に様々なことを思い出させてくれますよね。これは、容易に想起できる巨大なイメージからであれば、とても多くの記憶をたどることができるからだと考えております。
>>[16]

 書き込みありがとうございます。

 普通の人でもできるというのは、聞いたことがあります。真偽は私にとっては不明ですが…w(ちょっと信じきれないのです)。



 今のところは、質感的なイメージであれば物理的、容量的限界があるから想起のスピード、量ともに限界があるのではないかという話しですね。他にも生物的な安全の面でも限界がついていると。

 でも、例外的に「人」のイメージは、その限界を越える?なのかな、ことをできるという可能性を持っている。それは物よりスゴイことになっていると。

 直感像は「人」の記憶と違い思い出す能力であり、それは成人以降でも訓練すれば身につけられる可能性がある。本来的には、意味づけという思い込みがなければ直感像を持っている。それから、成人が記憶力と記憶量が比例しているのは、覚える際のイメージの連鎖が多いため。

 こんなところが私の今のところの理解です。みなさん違ったらつっこんでください。お願いします。
 ではでは、「人」の記憶はどこまでの事柄を巻き込んでいくのでしょうか?どこまでというのは、例えば人の後ろにある背景とか、人と物との出来事などです。
 それと、少し思ったのですが、「場所」の記憶もかなり様々な「物」を含んで想起されますよね。これはどういうことでしょうか?

 これは、みなさんにも考えてほしいのですが、「人」の記憶を他の「物」でも人工的に作る方法を考えたいのです。どういう条件で「人」の記憶に対抗しうる記憶を作れるのか?ということです

 みなさん一緒に考えてください。お願いします。
>>[15]

僕は瓦を割った事までは有りませんが手を怪我せずに割れる・・・がポイントだそうです。受け身の練習だけは中心に僕もやらされましたけども。
既に亡くなりましたが僕の老師匠は元、隼の戦闘機乗りで「なんで空中戦で撃墜されずに生還出来たか?」をきっかけに平和時でも応用出来る色々な術を考案して教えてくれた人です。
ソノ内のヒトツは、ぶつけたりしても「痛いっ、熱いっ」の替わりに反射的に「治った!!」て叫べるようにする練習。イザと言うときに役立ちます。
実際、怪我や火傷しない。信号をブロックするんだそうです。
> 17 ボブグリア4世さん

 分かりにくい書き方をしてしまいましたが、私の考えは、少し違います。

>  でも、例外的に「人」のイメージは、その限界を越える?なのかな、ことをできるという可能性を持っている。それは物よりスゴイことになっていると。

 そうではなくて、物でも人でも、質感的イメージを想起する場合には、時間の流れの中で「物理的、容量的限界」は同じようにあると思います。しかし、その限界の中で、他の物はそれほどイメージの情報量が増えてゆかないのに対して、人の場合にはどんどん変化し増えてゆくことになります。
 複雑な風景を直観像として捉えたとしても、それがどんどんアメーバーのように変化することはあまりないでしょう。でも、人間の場合は、ほとんどの場合、どんどん変化する訳です。

 更に人のイメージが異なるのは、情感的イメージの面が大きいと言えるでしょう。つまり情感的な意味づけの複雑さ・豊富さが桁違いに大きく、それが質感的イメージと結びついていて、想起をうながしてゆくということです。

 人に関する記憶も直観像があると思います。でも、質感的イメージと情感的イメージの双方が膨大であり、成人になった後でも、覚える際のイメージの連鎖が多いため思い出しやすいという考え方をしています。
>>[19]

 面白そうな技ですね。しかも、発想のきっかけが普通ではないですね。やはり人間学ぼうと思えば様々なことから様々なことを学べるのですね。
 後、初めの頃は私も受身ばかりやらされました。懐かしいです。
>>[20]

 なるほど。自分の誤解しているところが大体わかりました。抱石さんの書き方は全然悪くないです。拝見していてモノスッゴクわかりやすいです。見習いたいぐらいです。

 アメーバのように変化するというのが、私の考えの鍵になりそうです。

 後、意地悪みなたいな質問をしますけど、これは理由がある質問なのですが、例えば建物に顔と手足がついた場合は、イメージとしてどちらに判定されるのでしょうか?これも「人」として成り立つのでしょうか?

 これは記憶術的なイメージをすると、自然と、たぶん記憶術を使っている多くの人に共通して出てくるイメージだと思うのです。半物半人みたいなイメージですね。
> ボブグリア4世

 半物半人の場合、それがどのくらい微妙な意味づけに耐えるのかが問題になるでしょうね。記憶術の場合は、むしろシンボル的で単純な人間のイメージになりそうですね。
「どの位の情報量を、質感的イメージ、情感的イメージという視点から考えてどんな構造にしてもっているか」といった個別の問題になりそうです。
 追伸

 MIXIで、こうした紳士的な議論ができるのは、久しぶりです。ありがとうございます。
>>[23]+[24] 抱石さん

言われてみれば、そうですね。どのようなイメージかで変わってきますね。

 後、こちらこそ一方的に教えてもらってばかりで、すみません。でも、スッゴク楽しいです。ありがとうございます。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

認知心理学 更新情報

認知心理学のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング