第二次元寇(弘安の役)でも、兵力の大多数を占めたのは元南宋からの降伏兵。
朝鮮戦争のケースと非常によく似た「征服したばかりの旧敵の兵力を外征で消費させる」という、帝国特有の冷徹な軍事・政治戦略が見て取れます。
戦場で大損害を受けようが痛くも痒くもないどころか。むしろ好都合だったんでしょう。
そんな権力者の都合で殺された将兵をダシに独裁国家同士が結束を確かめる。
戦死した人たちはさぞ悔しいでしょうね。
1. 国民党軍の降伏部隊(「起義・投誠」部隊)の編入
中国共産党は国共内戦(1945〜1949年)の過程で、膨大な数の国民党軍兵士を吸収しました。これらは「起義」(寝返り・蜂起)または「投誠」(降伏)と呼ばれ、合計で数百万人規模に達しました。
国共内戦終結直後、共産党政権(中華人民共和国)にとって、これら旧敵の兵士たちは「反革命分子」になるリスクを孕んだ潜在的な脅威であり、養うだけでも莫大なコストがかかる存在でした。
2. 朝鮮戦争への投入と「一石二鳥」の側面
1950年10月に中国が朝鮮戦争への参戦を決定した際、初期の主力は共産党の精鋭部隊(林彪率いる第4野戦軍など)でしたが、戦況の長期化・泥沼化に伴い、大量の旧国民党系部隊も戦線へ送り込まれました。
歴史家や研究者の間では、この動員には以下の意図があったと指摘されています。
• 弾除け・戦力消費(処分論): 忠誠心の低い旧国民党兵を最前線に投入することで、共産党の純血な精鋭部隊の消耗を抑えつつ、国内の不穏分子を合法的に減らすことができた。
• 思想改造と再編成: 激しい戦場という極限状態に置くことで、共産党への忠誠を誓わせ、真の意味で「人民解放軍化」させる。
事実、朝鮮戦争で捕虜となった中国兵(約2万人)のうち、約3分の2にあたる1万4,000人以上が中国(共産党政権)への帰国を拒否し、台湾(中華民国)への移住を希望しました。このデータは、前線に投入された志願軍の中に、共産党に心から忠誠を誓っていない旧国民党系の兵士が多数含まれていた事実を裏付ける強力な証拠とされています。
■金総書記が中国共産党序列4位と会談 「対米抗戦の英雄たちへの永遠の敬意」 JNNカメラが車列を捉える
(TBS NEWS DIG - 10月25日 00:50)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=266&from=diary&id=9001600
1. 弘安の役における兵力構成(江南軍の存在)
弘安の役では、二つのルートから日本へ攻め込んできました。全体の約8割近くが、旧南宋領から出撃した部隊でした。
• 東路軍(約4万人): 旧高麗領から出発。モンゴル人、高麗人、漢人(旧金国領の北中国系)の混成部隊。
• 江南軍(約10万人): 旧南宋領(慶元、現在の寧波など)から出発。主力は降伏したばかりの旧南宋の将兵(南人)。
2. クビライの意図:国内の不穏分子の処分(一石二鳥)
元(モンゴル)は1279年に南宋を完全に滅ぼしたばかりでした。当時のクビライ政権にとって、以下の問題が深刻でした。
• 莫大な降伏兵の処遇: 数十万人規模の旧南宋兵をそのまま中国南部に置いておけば、反乱や治安悪化の温床になる。かといって養うだけの食糧や資金の余裕もない。
• 反乱リスクの排除: 彼らを危険な外征(日本遠征)に駆り出すことで、国内から物理的に隔離し、仮に戦死しても元の痛手にはならない(むしろ好都合である)と考えた。
3. 低かった士気と悲惨な結末
この降伏兵たちの士気は極めて低いものでした。
• やる気の欠如: 滅ぼされたばかりの敵(モンゴル)のために、見たこともない海を渡って異国(日本)と戦う大義名分が彼らにはありませんでした。
• 暴風雨(神風)後の処遇の違い: 鷹島などに置き去りにされた元軍のうち、モンゴル人や高麗人、北方の漢人は処刑されましたが、旧南宋兵(唐人)は「戦いたくて来たわけではない」とみなされ、助命されて奴隷や職人として日本国内に連行・分散配置されました。この史実からも、彼らが強制的に連れてこられた「弾除け」であったことが窺えます。
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