家族だから言えなかった
『「百歳まで生きたい」と笑う母に、私は「あと何年続くんだろう」と考えてしまった』
母が「百歳まで生きたいねえ」と言うたび、私はうまく笑えなくなった。
先週も、昼食のうどんを食べ終えた母が、湯飲みを両手で包みながら言った。
「あと十年くらいは生きられるかしらね。百歳までいけたらいいんだけど」
「そうねえ。元気でいられるといいね」
私はそう答えながら、流しに置かれた食器を見ていた。
これから洗い物をして、午後は整形外科に連れていかなければならない。
帰りにスーパーにも寄る予定だった。
母は九十歳に近い。
ひとりで外出するのは難しく、通院には毎回付き添いが必要だ。
食事も、朝昼晩と私が用意している。
母が特別わがままなわけではない。
食べたくないものを無理に食べさせろと言うこともないし、買い物を頼むときも「悪いね」と言う。
それでも、私の一日は母の予定を中心に回っている。
朝は母が起きる前に洗濯機を回し、朝食を作る。
薬を飲んだか確認して、診察券や保険証をそろえる。
帰宅すれば昼食の支度があり、夕方には夕食のことを考える。
自分の用事は、母の体調と相談しながら決める。
友人から旅行に誘われても、すぐには返事ができない。
「その日は病院があるから、ちょっと待ってね」
そう言っているうちに、話が流れてしまったことも何度かある。
母に悪気がないことはわかっている。
私がいなければ困ることも、実際にたくさんある。
だからこそ、誰かに愚痴をこぼすのも難しい。
先日、昔の職場の友人から電話があった。
「今度、みんなで一泊旅行に行こうって話してるんだけど、どう?」
「いいね。行きたいな」
口にしてから、私は黙ってしまった。
「どうしたの?」
「いや、母の通院があるから。ちょっと予定を確認しないと」
友人は少し間を置いてから、「そっか。また連絡してね」と言った。
電話を切ったあと、私はしばらくスマートフォンを持ったまま座っていた。
旅行なんて、何か月も前から計画すればいい。
母の通院だって、日程を調整できることはある。
頭ではわかっているのに、いざ自分の予定を優先しようとすると、母を置いていくような気持ちになる。
結局、その旅行の返事はまだしていない。
母が百歳まで生きたいと言うとき、私は心の中で考えてしまう。
あと十年、この生活が続くのだろうか。
その頃には私だって、今より年を取っている。
足腰が弱っているかもしれないし、自分の病気で通院しているかもしれない。
本当は、行きたいところがいくつもある。
海沿いの道を車で走って、気に入った店があったら立ち寄りたい。
朝早く家を出て、帰りの時間を気にせず、知らない町を歩いてみたい。
若い頃は、そんなことはいつでもできると思っていた。
子育てが終わったら。
仕事を辞めたら。母の暮らしが落ち着いたら。
そうやって先に延ばしているうちに、気がつけば、自分のために使える時間をどう作ればいいのかさえ、わからなくなっていた。
ある日の夕食後、母が食卓に座ったまま、私に尋ねた。
「今日は疲れた顔をしてるね。どこか具合が悪いの?」
「大丈夫。ただ、ちょっと疲れただけ」
「そう。あんたも無理しちゃだめよ」
母はそう言って、飲み終えた湯飲みを流しまで運ぼうとした。
立ち上がるときに少しふらついたので、私は慌てて手を貸した。
「いいから、そこに置いておいて。私が片づけるから」
「いつも悪いね」
母は申し訳なさそうに笑った。
その顔を見ていると、責める気持ちはどこかへ消えてしまう。
私が子どもの頃、母は仕事をしながら家事をして、家族の世話をしていた。
私が熱を出せば仕事を休み、学校の行事にも時間をやりくりして来てくれた。
母にも、きっと自分の時間を諦めた日があったのだろう。
そう思うと、今の私だけが苦労しているような顔をするのも違う気がする。
けれど、母に感謝していることと、今の暮らしが苦しいことは、私の中では別々の話だ。
母の長生きを願えない瞬間がある。
そんなことを考える自分を、嫌だと思う日もある。
それでも、母が「百歳まで生きたい」と言うたび、私は自分の残りの時間を数えてしまう。
誰かに責められたいわけではない。
母を大切にしていないと思われたいわけでもない。
ただ、私にも行きたい場所があり、会いたい人がいて、何も気にせず一日を過ごしたいという気持ちがある。
今朝、友人から旅行の日程が送られてきた。
私は台所で朝食の支度をしながら、何度もその画面を開いた。
母の次の通院日は、まだ決まっていない。
「お母さん、来月の予定、少し相談してもいい?」
そう声をかけると、母は新聞から顔を上げた。
「なあに?」
私はまだ、どこへ行きたいのかも、何日家を空けたいのかも話せずにいる。
母の朝食をテーブルに置くと、母はいつものように「いただきます」と言った。
私は向かいに座り、自分の冷めかけたお茶をひと口飲んだ。
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