「ガラスの切符」1977・8�弌�DCP)。監脚音撮:小林仁。出:中村洋美、根石 勉、浜中恵子。。まだPFF発足前の『第一回ぴあ展』での『第一回自主映画展』公募作品入選1作目。監督はプロの道に進まず(劇場公開作品は存在)、五日市キネマ団を結成して『あきるの映画祭』に関わって来られましたが昨年故人に。
内容的には昭和文学そのもので、脚本のクオリティはプロと変わりません。撮影は旧五日市街道周辺で行われたようで、武蔵五日市駅前は全く様変わりしているものの、武蔵引田駅周辺は半世紀前の風景を留めてます。監督の遺族の方々が来場されておりすぐ前席でしたが高齢で惜しくも本作のみ鑑賞後退場されました。
「悲しみの赤い自転車」1978・並プロ・8�弌�DCP)。監脚:高橋浩一。撮:五島泰嗣。助:宮崎公彦。出:田川尚、本村由紀子、大山さい子。。第二回自主映画展入選作品。余りの完成度の高さに驚く。現代の若手映画人で同等の作品を創作出来る人物は居ないのではないか?。無許可ロケ故に当時の新宿、渋谷、銀座、
自由が丘の記録映像としても貴重。ラストの空撮風俯瞰はおそらく浜松町の貿易センタービルから。それより東京駅から出発した東海道線の開けた窓から後ろを撮影してるのが危険極まりなく度胸が昭和。その東京駅では背景に『74形郵便荷物車』電車が映っており作品内容的に意図的演出だとしたら凄過ぎますが、
おそらく偶然。東海道新幹線はまだ便宜上の名称である『0系』と呼ばれて無く無形式名(この点がむしろ特別な存在である事を表す)で、初期型の大窓仕様と新型の小窓編成が混在しています。個人的注目点はまだ噴水のあったハチ公前広場と『新玉川線 渋谷駅』の表示。まだ田園都市線は二子玉川園(現二子玉川)
から大井町方向に接続しており(現大井町線)、半蔵門線がまだ開通していない渋谷⇔二子玉川園間は新多摩川線の名称の独立路線でした。さて、トークに移り高橋監督曰く、当時はその完成度を逆に文化人評論家達から「テレビドラマみたい」と批判されたそうです。アマチュア作品に対してですよ(笑)
昔も今も知的文化人ってやつは如何に目先の一点のみを根拠に語って優越感さえ得られれば満足というのがよく分かります。一方で当時のスタッフはまさにTVドラマのような出来を意図して狙ったそうで、逆説的に素人でありながらプロ以上の能力の高さだったかが分かりますね。主演の田川氏は監督と中学生の頃
からの付き合いで他のスタッフ共々客席内に居り紹介されると満場の拍手と成りました。またこの時代の特徴として映像は勿論、音楽楽曲の力を重視し、アマチュアですから主題歌はロッド・スチュアートがカバーした「セイリング」の転用ですが演出として抜群の効果を発揮しています。
この点でも現代商業映画の音楽と称するものが『脳内麻薬分泌促進音波』へと変貌してしまったのと隔世の感があります。当時のPFF黎明期の上映会場は分散していて、特に『文芸坐(現新文芸坐)』では通常は劇場スクリーンでは大き過ぎて映せない8�丱侫�ルム用に専用光源を有する機材を組んだとか凄い。
以下、日本のアマチュア映画をデジタル化保存している『ハーバード大学・自主映画アーカイブ』から昨年に続いて今回は二点の上映。トークゲスト:映画監督七里圭、ハーバード大学教授アレクサンダー・ザルテン。
「時を駆ける症状 The message from subway」1984・ 名古屋市立菊里高等学校映画部・8�弌�DCP)。監脚編:七里圭。撮:丸山敦。出:武藤 誠、三竹暢彦、岩崎ひとみ。説明は無かったものの高校生の作品故に音楽はYMOなどが無許可使用で、現在では著作権がクリア出来るNFAJ以外では事実上上映不能です。
1985年PFF入選、七里圭初監督作でとにかく独創性が凄い。コピペ切り張りで作品を構成する人間を『天才クリエイター』と持て囃す現代とは正反対な時代で、産業に置き換えれば独創的で優秀な日本製品が世界中で売れていた時代であり、粉飾で成り立つ現代の自称経済大国と正反対である事も文化と相似してますね。
「ドキュメント輪禍 むちうたれる者」1969・大阪自主映画センター・白黒16�弌4撞咫Ч�浩郎。撮:吉国秀幸。出:清水克彦、劇団道化座、集団ザ・プレイ。。タイトルはテーマである職業ドライバーの交通事故被害による『むち打ち症』と、労働者階級の運転手が雇用側や行政から受ける扱いを表していると推測。
人類が月に降り立った年、翌年万博という高度経済成長期初期において記録映像的に優れていると共に、ラストでは前衛的な演出を入れる事によって問題提議を強調しているという名作。既に車は自家用車も商用車も国産。インタビューの応じたドライバーはタクシーを中心にトラック運転手が一人。
ハーバード大学で日本の自主製作映画(非商用作品)の研究とデジタル保存に取り組むザルテン教授はPFFでは既にお馴染み。一方で大学の映像アーカイブはフィルムが対象であり、デジタル化作品は対象外である為に大学図書館の一部門として活動しています。しきりに『官僚主義』と発言するのが可笑しい。
昔のベルリン映画祭で受賞作品をテレビの深夜で放送してたのですが、始めて観た邦画が「逆噴射家族(1984)」で腰を抜かしたのがザルテン教授の間違いの始まり(笑)。今の課題は専用サイトを作る事と、70・80'年代はデジタル化が進んでるので、今回後半の上映作のような60'年代、さらに50'年代に取り組みたいと。
七里圭監督は元々映画に興味は無く、休部中(部員は先輩が一人だけの為)の映画部に入部したのは予算を使って遊ぶのが目的だったと。なので文化祭の際はビデオレンタルで「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー(1984・押井守)」を借りてきて上映。当然各方面から「制作活動して無いのか?」と怒られる。
高2に進級、遊んでいただけの部員同士で仕方なくジャンケン、七里監督が誕生する事に。ところが作品を観れば分かる通り出演者はひたすら同じ事を繰り返すシーンばかり撮らされる上、女子達は「顔が映って無い」と激怒、どんどん協力者が減ってしまい、主役ともう一人だが残ったので苦肉の策で終盤はコマ撮り
などの自主製作でありがちな低予算、少人数をカバーするテクニックを教わったのではなく独創で編み出し、結果凄い作品と成りました。が、実際上映すると超不評、題名は当時原田知世主演で大ヒットした「時をかける少女(1983・大林宣彦)」からなので皆そのパロディーを期待していたと。
一方で目利き生徒が数人居て「もう一回観たい」との申し出があり嬉しかったと。さらに一人だけ居た先輩は変人で(漫画の設定のようだ)、勝手にPFFに応募し本人達が知らぬ間に一次審査通過、青天の霹靂で学校に通知が来て「許可も無く何やってるんだ」と又しても怒られ、慌てて応募取り消しを求めたものの却下。
結局受賞して上京、映画祭のチケットを束でもらい上映作全部観る(注:1984年は各ジャンル全て豊作)。これが事実上の映画漬け人生の始まり。パーティーでは高校生なのにビールを振舞われたってのも大らかな昭和ですね。今月下旬から下高井戸シネマで七里監督作特集上映企画があります。
とにかく各回登壇者達の映画愛の熱量が凄くて、こちらも汗だくに成って聞いてるかのような勢いです。
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