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2024年05月17日00:31

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柏崎紀行04 柏崎の歴史《近世・近代編》

 江戸時代に入ると、現柏崎市域は越後高田藩領・藤井藩領・長峰藩領等に分割されますが、柏崎湊は高田藩領となって現在の西本町一丁目に当たる扇町に柏崎陣屋が設けられました。天和元(1681)年に高田藩が改易されると柏崎は天領となり、柏崎陣屋が代官所となっています。貞享2(1685)年に柏崎は再び越後高田藩領となりました。
 正徳年間(1711〜16)の柏崎は20ヶ町から成り、人口は男2804人・女2696人・下男200人・下女149人と記録されています。柏崎湊には62艘の船があり、漁業の外、廻船業も盛んでした。
 寛保元(1741)年に柏崎は陸奥白河藩領へと転じ、白川藩主久松松平定賢(ヒサマツマツダイラサダヨシ)は、扇町の陣屋に代わって大久保の高台に新たな柏崎陣屋を設け、領内221ヶ村の総支配所としました。柏崎陣屋は東西100間・南北50間・総坪数5千坪の規模でした。当時の柏崎は23ヶ町・人口5309人との記録が残っています。
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 寛政8(1796)年、大窪鋳物師(オオクボイモジ)は、鋳物界の元締めであった京都の真継(マツギ)家の支配下に入り、60人余りの職人を擁していた大窪村は勅許鋳物師の村として栄える事になりましたが、当時は日用品や梵鐘を製造するのが主な業務でした。
 文政6(1823)年に陸奥白河藩主久松松平定永が伊勢桑名110000石へ転封されると、柏崎も桑名藩領となり、引き続き柏崎陣屋が行政庁となりました。
 桑名藩領の柏崎では生田萬(イクタヨロズ;1801〜37)による騒乱が起きています。萬は上野国館林藩士の長男として生まれ、24歳の時に国学者平田篤胤(ヒラタアツタネ)に師事しました。政策にも明るく、館林藩にも改革を促しましたが受け入れられずに追放処分を受け、下野国太田で私塾を開いていましたが、柏崎の船問屋間瀬九郎右衛門や柏崎神社の神官樋口英哲の招きを受けて柏崎へ移住、桜園と称する塾を開きました。
 天保8(1837)年2月、大坂で大塩平八郎の乱がおこりますが、それに刺激された萬は、前年の天保大飢饉で困窮していた柏崎の農民達を救うべく、同年6月1日、6人の同志と共に蹶起、柏崎陣屋を強襲しますが、同志4人が討ち死にしたため、浦浜へ逃れた後に自刃しています。陣屋側では死者3人・負傷者7人が出ています。
 生田萬父祖の墓に関しては以下を御参照下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985114467&owner_id=250900
 幕末、沿岸防衛のために大窪村の鋳物師原琢斎・得斎兄弟は、信濃国松代藩の佐久間象山(サクマショウザン)に大砲鋳造法を習い、製造も行っています。また、原兄弟は江戸で蝋型鋳物と呼ばれる工芸技術を習得して大久保鋳物を美術工芸の域に高める事に成功しています。蝋型鋳物とは、蜜蝋と松脂を煮合せ形を作り、これを山砂を焼いて作られた土で包んで火中で蝋を焼流し、代わりに熔銅を流し込んで作る技法です。
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 元治元(1864)年、桑名藩主久松松平定敬(サダアキ)は京都所司代に任命され、将軍後見職の中納言一橋慶喜(ヒトツバシヨシノブ)、及び実兄の京都守護職・会津藩主松平容保(マツダイラカタモリ)を支えて天下に号令し、「一会桑(イッカイソウ)政権」と呼ばれるに至りました。
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 しかし、定敬は慶応4(1868)年1月の鳥羽伏見合戦の最中に、逃亡する内大臣徳川慶喜に強制される形で江戸へ連行されてしまいます。桑名城が新政府軍へ無血開城された後、定敬は慶喜から敗戦責任を擦り付けられて江戸登城を禁じられ、江戸深川の霊巌寺(レイガンジ)にて謹慎していましたが、横浜からプロイセン王国船に坐乗して3月23日に越後国新潟に到着し、3月29日に柏崎の勝願寺へ入りました。
 一方、桑名藩御政事惣宰(オセイジソウサイ;執政)の吉村宣範(ヨシムラノブノリ)も柏崎へ赴き、定敬が松平容保と共に徹底抗戦を貫く覚悟である事を知ると、必死で新政府への恭順を説きました。しかし、これに反発した定敬は、側近の山脇正勝と高木貞作に命じて閏4月3日に吉村宣範を斬り、徹底抗戦の構えを貫きました。なお、女優の鶴田真由(1970〜)は宣範の直系子孫です。
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 新選組副長土方歳三等と共に下野国宇都宮城攻防戦に参加して活躍していた桑名藩士立見尚文(タツミナオブミ)も柏崎へ駆け付け、定敬は、会津藩兵や旧幕府陸軍歩兵の衝鋒隊の支援も受けて柏崎周辺の防衛を固めましたが、柏崎陣屋は防衛拠点としては不利と判断され、閏4月16日に定敬はやはり桑名藩領だった東方の加茂へ本拠を移しています。
 これに対し、薩摩の黒田清隆・長州の山縣有朋を参謀とする新政府北陸道鎮撫総督軍約2000人は越後高田から海沿いに東進するコースを選び、桑名藩兵250人が守備する柏崎西方の要衝鯨波(クジラナミ)へ迫りました。
 閏4月27日0400時頃、両軍は交戦を開始し、一進一退の激戦が展開されました。特に立見尚文麾下の雷神隊は地形を巧みに活かして奮戦しましたが、夕刻、桑名藩兵は鯨波東方の番神岬まで退いて戦線を再編しています。鯨波戦争と呼ばれるこの日の戦闘で新政府軍側が8人の死者を出したのに対し、桑名軍の死者は1人だけでした。
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 しかし、新政府軍別動隊が上越国境の三国峠を越えて六日町から小千谷(オヂヤ)へ迫ったため、包囲される事を恐れた松平定敬は柏崎を放棄して閏4月28日に会津へ向かう事を決定、その後、五稜郭まで徹底抗戦を続けた上、フランス亡命を図って上海まで赴く行動力を見せています。
 閏4月29日に新政府軍が柏崎へ進駐、7月27日には柏崎県(第一次)が設置されて柏崎陣屋に県庁が置かれましたが、明治2(1869)年2月22日に柏崎県は廃止されて越後府へ編入されてしまいました。ところが、同年8月25日になって柏崎県(第二次)が再設置されて柏崎陣屋に再度県庁が置かれ、明治3(1870)年10月22日には長岡藩が柏崎県へ編入されています。
 明治4(1871)年7月14日の廃藩置県の後、同年11月20日に府県統合が行われ、椎谷県・与板県・高田県・清崎県が柏崎県(第三次)へ編入されましたが、結局、明治6(1873)年6月10日に至って柏崎県は廃止されて、新潟県に編入されてしまいました。
 なお、同年5月〜10月に開催されたウィーン万博に於いて、原琢斎は功労賞を受賞し、大久保鋳物の名を世界に轟かせています。
 明治11(1878)年、郡区町村編制法制定に伴って刈羽(カリワ)郡の郡役所が柏崎に置かれ、明治22(1889)年の市町村法施行によって、旧陣屋町は刈羽郡柏崎町となっています。
 明治23(1890)年、西山油田が発見され、明治30(1897)年に北越鉄道柏崎駅が開業した事もあって、柏崎は石油の街として発展する事となります。明治32(1899)年には日本石油柏崎製油所が開設されて、柏崎は人口が次第に増加し、昭和15(1940)年に市制が施行されました。ところが、この頃から西山油田は枯渇し始めていたのです。
 大東亜戦争末期の昭和20(1945)年7月24日、長野県方面より新潟県南部に侵入したB29一機が刈羽郡西中通村(ニシナカドオリムラ)長崎(現;柏崎市長崎)の国鉄越後線線路両側に爆弾2〜3個を投下、付近の田で草取り作業中の女性2名が爆死、重傷者2名・軽傷者4名が出ていますが、これは模擬原爆でした。アメリカ軍は新潟県内に3発の模擬原爆を投下しており、新潟県は次の原爆投下有力目標でしたが、この措置はソ連軍が新潟県へ強行上陸した場合に牽制する目的があったと考えられます。
 戦後、柏崎の石油は完全に枯渇してしまい、昭和42(1967)年には日本石油柏崎製油所も加工工場へ衣替えせざるを得なくなりました。この頃、柏崎市は周辺町村の合併を繰り返して市域を拡大していきますが、経済は沈滞して行く一方でした。
 そこで、経済再活性化の起爆剤として原子力発電所誘致が決定され、昭和60(1985)年に柏崎刈羽原子力発電所が営業運転を開始しています。
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 平成19(2007)年7月の新潟県中越沖地震によって柏崎刈羽原子力発電所の稼働する全ての原子炉は自動停止、発電所構内の変圧器に火災が発生して2時間後に鎮火する事態となったため、国際原子力機関(IAEA)が地震影響の調査をする騒ぎに発展、再稼働は平成21(2009)年までずれ込む事となりました。そして、平成23(2011)年の東日本大震災による福島原発事故を受けて再び運転停止に追い込まれてしまい、更に令和3(2021)年4月には原子力規制委員会が、テロリズム対策の不備を理由に核燃料の移動や装填を禁じる是正措置命令を決定したため、再稼働は困難となってしまったのです。令和5(2023)年12月に至って、漸く原子力規制委員会が運転禁止命令を解除しましたが、現在もまだ再稼働は行われていません。
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 現在、柏崎市の面積は442.02㎢、人口は76427人、市の木はマツ、市の花はヤマユリです。
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《続く》
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