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2024年05月12日04:16

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5月12日に亡くなった主な人々

1186年(文治2年)、武将の源行家(みなもと の ゆきいえ)が源義経に協力したために頼朝方に捕われ殺されました。40数歳だったと推測されています。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促しました。木曽義仲が頼朝の派遣した頼朝の弟の源範頼・義経兄弟の軍勢に討たれた後、行家は元暦元年(1184年)2月に院の召しによって帰京しています。その後の鎌倉源氏軍による平家追討には参加しておらず、甥の義経に接近しながらも鎌倉に参向しようとはせず、半ば独立した立場をとって和泉国と河内国(河内源氏の本拠地)を支配していました。元暦2年/文治元年(1185年)8月、頼朝が行家討伐を計ると、行家は壇ノ浦の戦い後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受け、「四国地頭」に補任されます(義経は「九国地頭」)。しかし行家らに賛同する武士団の連中は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3日、行家・義経一行は都を落ちました。途中で、同族である摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受けこれを撃退するも(河尻の戦い)、大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗した後は、次第に追い込まれ、逃亡の末に和泉国日根郡近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷(のちの畠中城)に潜伏します。翌文治2年(1186年)の5月、地元民の密告により露顕し、鎌倉幕府から命を受けた北条時定の手兵によって捕らえられました。

1583年、叔父の柴田勝家に与した武将の佐久間盛政が賤ヶ岳の戦いに敗れ斬首されました。数え30歳。落ち延びる途上、盛政は越前府中付近の中村の山中で郷民に捕らえられました。命運の尽きたことを悟った盛政は、自ら直接羽柴秀吉に対面したいので引き渡すよう言いました(盛政を引き渡した郷民は直ちに処刑されました)。引き渡されたとき、浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ敗れて自害しなかったのか」と愚弄されましたが、「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」と言い返し、周囲をうならせたということです。秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘いました。しかし盛政は信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、秀吉の好意を感謝しながらも、「生を得て秀吉殿を見れば、私はきっと貴方を討ちましょう。いっそ死罪を申し付けて下さい」と願いました。秀吉は盛政の説得を諦め、その心情を賞賛してせめて武士の名誉である切腹を命じましたが、盛政は敗軍の将として処刑される事を望みました。そのため、秀吉に「願わくば、車に乗せ、縄目を受けている様を上下の者に見物させ、一条の辻より下京へ引き回されればありがたい。そうなれば秀吉殿の威光も天下に響き渡りましょう」と述べました(『川角太閤記』)。秀吉はその願いを聞き届けて盛政に小袖二重を贈りますが、盛政は紋柄と仕立てが気に入らず、「死に衣装は戦場での大指物のように、思い切り目立ったほうがいい。あれこそ盛政ぞと言われて死にたい」と大紋を染め抜いた紅色の広袖に裏は紅梅をあしらった小袖を所望し、秀吉は「最後まで武辺の心を忘れぬ者よ。よしよし」と語って希望通りの新小袖2組を与えました。盛政は秀吉により京市中を車に乗せられて引き回されましたが、その際に「年は三十、世に聞こえたる鬼玄蕃を見んと、貴賤上下馬車道によこたわり、男女ちまたに立ち並びこれを見る。盛政睨み廻し行く」とあります(『佐久間軍記』)。

1973年、「てんぷくトリオ」の一員、戸塚睦夫が肝硬変により、新宿の国立医療センターで逝去。満42歳没(享年43)。1958年6月新宿フランス座のコメディアン石井均の独立に戸塚も同行し、フランス座隣の松竹文化劇場で「笑う仲間」として旗揚げしたが諸事情から「石井均一座」に再編、ここで伊東四朗、財津一郎らと知り合います。石井は、ある芸能事務所から紹介された夜のキャバレー営業を1956年に引き受け戸塚を誘い「石井・戸塚コンビ」で活動していましたが自身の一座運営との兼任は難しくなり、三波伸介は度々石井の代役を務め、またキャバレー営業の仕事を求めていたため交代に同意し「戸塚・三波コンビ」として活動、その後新宿フランス座のスケジュールから三波が出演出来ない時には戸塚は同座員の伊東四朗を代役(「にせ三波伸介」)にして急場を凌ぎましたが前触れもなく三波が一時期大阪に行ってしまい、三波こと伊東とのコンビは一年余り続きました(伊東は「三波伸介」と芸名二つを使い分けたことになります)。1961年、石井均一座が解散。三波・伊東と共に『ぐうたらトリオ』を結成(三波がリーダー)。翌年『てんぷくトリオ』と改名しました。この名前は当時人気だった『脱線トリオ』(由利徹・南利明・八波むと志)のもじりであるとも。てんぷくトリオでの戸塚は大ボケ役で、台本にない台詞を言って三波を驚かせることがありました。それが三波のギャグ「びっくりしたなあ、もう」につながったと言われます。私の記憶ではコントでもいつも出前持ちで「毎度。ラーメンお待ちどう」のセリフしかなかったかと思います。でもYouTubeで確認すると、他の役も演じており、それなりのセリフもこなしています。
https://www.youtube.com/watch?v=WeI-RpaNsXI

1990年、中華料理人の陳建民が70歳で没。私、彼の「赤坂四川飯店」に行ったことがあります。辛くもなんともないよう、徹底的に日本向けにアレンジされていたのはご存知のとおり。中国系日本人1世で、来日後に日本に帰化しており日本名は東 建民(あずま けんみん)といいました。息子の陳建一(中国料理の"哲人"として知られる.この人も当日、「ワタシ、日本語、アマリ得意デナイから」と言った建民の代わりに挨拶にやって来ました)、孫の陳建太郎も料理人。
https://www.youtube.com/watch?v=PP849D9QgdM

1994年、ドイツの精神分析家、エリク・H.エリクソン(Erik Homburger Erikson)が91歳で没。「アイデンティティ」の概念、エリクソンの心理社会的発達理論を提唱し、米国で最も影響力のあった精神分析家の一人とされます。エリクソンが有名な「アイデンティティ」の概念を思いついた背景には、マサチューセッツのオースティン・リッグス・センターにて同一性に苦しむ、境界例のクライアントに会っていた事が契機とされています。エリクソンは「アイデンティティ」という概念を極めて多義的、動的なものとして捉えており、複数の著作を当たっても定義が困難な非常に複雑な概念です。この事は、エリクソンがidentificationとidentityを並列し、「果たしてidentityがidentificationの総体なのか」と問うている所にも見受けられます。(青年と危機)しかしその後、心理学のみならず社会科学やあらゆる学問分野でアイデンティティ概念が多用されている事態を受け、エリクソン自身が困惑を隠し切れなかったと語っています。
https://hitopedia.net/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BBh%EF%BD%A5%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3/#gsc.tab=0

2008年、小説家、SF作家の今日泊亜蘭(きょうどまり あらん) が肺ガンのため死去。97歳没。1953年、佐藤春夫の推薦で「文芸日本」に「桜田門」(水島多樓名義)を発表しデビュー。同誌にはその後も何作かを発表しましたが、そのうち「河太郎帰化」は、1958年(上半期)直木賞候補に推されました(ちなみにそのときの受賞作は、山崎豊子「花のれん」と榛葉英治「赤い雪」)。同時期には、辻まことの紹介で「歴程」にも参加しています。1957年には、日本最初のSF同人誌「宇宙塵」に客員として設立より参加。同時期に、渡辺啓助、矢野徹らとSF同人「おめがクラブ」(この命名は今日泊による)を設立、同人誌『科学小説』を発行。1962年、戦後初のSF長編小説『光の塔』(『苅得ざる種』改題)を発表。1983年には、第25回児童文化功労者を受賞。1987年から1990年には、77歳にして「S-Fマガジン」に長編『我が月は緑』(『光の塔』の30年後を舞台とした続編)を連載。他の代表作に『海王星市(ポセイドニア)から来た男』、『アンドロボット'99』など。また、30ヶ国以上の言葉を操る在野の言語学者としても活躍しました。
https://bookmeter.com/books/12439976

2016年、演出家、映画監督、俳優の蜷川幸雄が肺炎による多臓器不全(長年の喫煙による影響)のため東京都内の病院で永眠。満80歳没(享年82)。蜷川の演出作品は、清水邦夫、唐十郎、井上ひさし、野田秀樹、岩松了などの現代劇からギリシャ悲劇やシェイクスピア、チェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、多岐にわたります。鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込むことを得意とします、現代日本を代表する演出家のひとり。海外でも評価が高く、「世界のニナガワ」、「蜷川先生」とも呼ばれます。起用する出演者はトップスターや実力派俳優から人気アイドルまでと幅広く、意表をついたキャスティングで話題を呼んでいます。現代演劇のフィールド外でも、小澤征爾の指揮による歌劇『さまよえるオランダ人』(リヒャルト・ワーグナー作曲)、宇崎竜童作曲によるミュージカル『魔女の宅急便』、尾上菊之助の依頼を受け菊五郎劇団と組んだ歌舞伎『NINAGAWA十二夜』などを演出、ほかにも映画、テレビドラマ、コンサート、ファッションショーなど、さまざまな媒体や舞台での演出を手掛けていました。
https://www.youtube.com/watch?v=GF0X1nQwNpM

2019年、女優の京マチ子が心不全のため東京都内の病院で死去。95歳。1936年(昭和11年)に大阪松竹少女歌劇団(OSK)に入団して、娘役スターとして戦時中に活躍。1949年(昭和24年)に大映に入社、女優デビューしました。後輩の若尾文子、山本富士子と共に大映の看板女優として活躍しました。160cmと当時としては大柄であり、官能的な肉体美を武器に数々の名作に出演。溝口健二監督作品『雨月物語』(1953年)、黒澤明監督作品『羅生門』(1950年)、衣笠貞之助監督作品『地獄門』(1953年)など、海外の映画祭で主演作が次々と受賞し「グランプリ女優」と呼ばれました。1971年(昭和46年)の大映倒産以降はテレビドラマと舞台を中心に移し、活躍の幅を広げました。大映社長永田雅一との恋愛関係が憶測された時期もありましたが、生涯独身を通しました。1965年(昭和40年)には、日本で初めての「億ション」、コープオリンピア(東京・表参道)を購入して話題となりました。月丘夢路とは映画『華麗なる一族』、ドラマ『犬神家の一族』などで共演し、共に家庭内の壮絶な抗争に執念を燃やす中年女性の狂気を熱演しました。1976年12月公開の『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』でマドンナ柳生綾を演じましたが、マドンナの中では唯一渥美清より年上でした。『必殺シリーズ』での厚化粧での坂東京山も忘れ難いです。
https://www.youtube.com/watch?v=bOEkiIWniQo

2020年、漫画家のジョージ秋山が死去。77歳没。『銭ゲバ』『アシュラ』『ピンクのカーテン』『浮浪雲』(ひたすら主人公に御都合の良い設定・筋運び)などで有名ですが、デビュー作の『ガイコツくん』や『パットマンX』は後年の諸作とはまったく違うギャグ漫画。
https://www.asahi.com/articles/ASN6156RMN61UCVL01J.html


引用・参照したサイト

5月12日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
5月12日、今日は何の日〜毎日が記念日〜
5月12日は何の日
5月12日の雑学。今日は何の日?記念日、誕生日、カレンダー
トラッドジャパン 5月12日
マイナビウーマン 5月12日
Wikipedia「5月12日」
ほか
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