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2024年05月12日04:14

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5月12日が誕生日である人々 後篇

1935年、俳優の川津祐介が生まれました。慶應義塾大学医学部(その後文転し経済学部を卒業)在学中の1958年(昭和33年)、映画監督木下惠介の勧めもあって同年『この天の虹』(松竹)でスクリーンデビュー。以後青春スターとして人気を誇ます。松竹退社後はフリーとなり、松竹時代の青春路線とは異なる敵役や癖のある準主役など、様々な役柄を演じました。1965年(昭和40年)からはテレビドラマ『東京警備指令 ザ・ガードマン』の荒木隊員役(ほとんど登場しない)や『スパイキャッチャーJ3』の壇俊介役などでアクションスターとしても人気を集めます。『Gメン75』でのバイクでのアクションシーンで、簡単なスタントであったにも関わらず、過度のダイエットが祟り大ケガを負ってしまい、長期入院で番組も降板し、仕事が途絶えてしまうという苦境に立たされました。しかし、食品会社のコマーシャルに家族全員で出演することによって、ピンチを脱することができたと『こんなにヤセていいかしら』で述懐しています。1976年(昭和41年)、神奈川県藤沢市の藤沢西武に「珈琲&ワインの店 ララの巣」を開業し、レストランオーナーとしても活動。その後、茨城県土浦市、東京都練馬区にも支店を構えますが、経営不振によりすべて閉店しました。1988年(昭和63年)にはダイエット本である著書『こんなにヤセていいかしら』がベストセラーになり、同書の中核である「骨盤体操」を世に流行らせました。キチンキトサンの持つ毒素吸着効果に着目し、廃棄物処理されていたエビ・カニの殻を安定仕入れするための独自ルートを構築。殻から抽出したスープ類を提供していました。1995年(平成7年)、60歳の時に心臓左心室壊死という病気にかかり、20数年間司会を務めた早朝の科学番組『てれび博物館』(東海テレビ)において、手術のために降板することを自身の口から視聴者に告げます。医師からは余命3週間、長くて3ヶ月と診断されていましたが、奇跡的に手術が成功して復帰。この手術の一部始終は『てれび博物館』で放送されました。現在は『土曜スペシャル』(テレビ東京系)等で夫婦睦まじい姿を見られます。趣味は陶芸、油絵、料理など。2009年(平成21年)4月から京都造形芸術大学芸術学部映画学科客員教授に就任(任期は1年)。2021年9月頃に体調を崩し、以降は介護を受けながら自宅療養を続けてきましたが、2022年2月26日、慢性心不全のため東京都内の自宅で死去。86歳没。
https://www.youtube.com/watch?v=tfuUULbdo9Y

1936年、アメリカのジャズベーシスト、ゲイリー・ピーコックが生まれました。1970年から1972年までの2年間は京都に滞在していました。その間、禅や仏教の影響を強く受け、いまでいうマクロビオティック自然食生活を送ったといわれます。一時活動を休止しましたがポール・ブレイのトリオで復帰し、1970年代後半はアート・ランディとのトリオで活躍。1977年にキース・ジャレット、ジャック・ディジョネットとトリオで『Tales of another』(ECM)を録音しました。1980年代、ワシントン州シアトルのコーニッシュ・カレッジで教鞭をとっていました。1984年からキース・ジャレット、ジャック・ディジョネットとともに、トリオ(通称:スタンダーズ・トリオ)として活動し、たびたび来日公演を行っています。1986年に富樫雅彦、佐藤允彦と「ウェイヴ」を結成。1990年からは、菊地雅章、ポール・モチアンとともに「テザード・ムーン」 (Tethered Moon)を結成。1993年からはニューヨーク州キャッツキルに在住。多くの時間を座禅をすることにより過ごしていたということです。2020年9月4日、ニューヨーク州アップステートにて85歳で死去。
https://www.youtube.com/watch?v=WRjCA0xm0E4

1949年、漫画家の萩尾望都(はぎお もと)が生まれました。代表作は『ポーの一族』
『トーマの心臓』『11人いる!』『半神』『残酷な神が支配する』など。作品のジャンルはSF・ファンタジー・ミステリー・ラブコメディー・バレエもの・心理サスペンスものなど幅広い分野にわたり、竹宮惠子・大島弓子らとともに「花の24年組」と呼ばれ、中でもその代表格、さらには「少女漫画の神様」とも評せられています。その作品は文学的あるいは文学を超えているとも言われ、文化人たちが多く批評の対象としています。
2012年春に少女漫画家では初となる紫綬褒章を受章。2019年秋には女性漫画家では初となる文化功労者に選出されました。
https://www.youtube.com/watch?v=GvorrYPfqro

1951年、漫才師の西川のりおが生まれました。高校卒業前に西川きよしに入門。1975年1月、元B&Bの上方よしお(当時の芸名は上方真一)と「西川のりお・上方よしお」を結成。やす・きよ、ザ・ぼんち、島田紳助・松本竜介らとともに1980年代前半の漫才ブームの地位を築きました。松本竜介(晩年は竜助)の「竜介」という芸名は自分(のりお)が考えたと2006年4月2日の竜助の通夜の席で話していました。その後『オレたちひょうきん族』にレギュラー出演し、ぼんちおさむと共に独特の暴走キャラでひょうきん族になくてはならない存在となります。主に「ツッタカ坊や」「つくつくほーし」「西川のりおとフラワーダンシングチーム(コント赤信号とヒップアップのメンバーと共に。後に彼らによるオリジナルソングまで作られた(フラワールームより愛を込めて))」「オバQ(テレビゲームのりおとにらめっこ)」などが代表的なギャグ。後に人生幸朗の「責任者出てこーい!」というぼやき漫才を真似しましたが、演技とは言え、怒りすぎて胃を痛め、やめてしまいました。私が大阪のなんばグランド花月(NGK)に見に行った時には、ピンで素人発掘プロデュースみたいな高座を繰り広げていました。
https://www.youtube.com/watch?v=8MbTe5zIqHs

1952年、女優、モデル、タレントの秋川リサが生まれました。父親がドイツ系アメリカ人(アメリカ軍の軍人)で母親が日本人。 1967年、15歳でテイジンのモデルとしてデビュー。16歳でファッション月刊誌「服装」の専属モデルを2年間務めました。 17歳で資生堂専属モデルを4年間務めます。高校卒業時に、篠山紀信が撮影を担当したヌード写真を残します。 1970年『anan』のレギュラーモデルとして活躍し、その名前が広く知られます。また、初代テイジン水着キャンペーンガールに選ばれ、1973年まで務めます。1972年、三宅一生 ニューヨークコレクションに参加。また、高田賢三パリコレクションにも参加。また、劇団東京キッドブラザーズ「猿のカーニバル」で舞台初主演。その後、オンシアター自由劇場で「遥かなる鼓笛」(串田和美 作 演出)出演より4年間で5本の作品に出演。 21歳で一般人と結婚。その後、離婚。 1973年、「立木リサ」名義で4年間、日本テレビ「11pm」の司会を愛川欽也と務めます。 80年代には『プロハンター』などのドラマ、『探偵物語』などの映画に出演しました。32歳の時、写真家の立木三朗と再婚。立木三朗は写真家、立木義浩の実弟。秋川リサが立木義浩と友人だったことが知り合うきっかけだったと見られます。1986年に男子、1987年に女子(麻里也)を出産。だが、その後離婚で結婚生活は終焉を迎えました。2001年からビーズアートの教室を開き、本などを出版しています。
https://www.youtube.com/watch?v=PILOcyEfvv8

同じく1952年、これも女優の風吹ジュンが生まれました。18歳で上京し、銀座の高級クラブに勤務、1971年の在籍中にスカウトされます。芸名は、風に吹かれたように出てきたから"風吹"、語呂がいいから"ジュン"。作家の但馬オサムによると、総じて歌唱力は低いとされます。1973年に初代ユニチカマスコットガールに選ばれデイヴィッド・ハミルトン撮影によるポスター写真でマスメディアに浮上。1974年に歌手デビュー、1975年に女優デビュー。1981年に川添象郎と結婚し、1男1女をもうけるも、1992年に離婚。
https://www.youtube.com/watch?v=8txYBcAWP0M

1956年も女優。余貴美子が生まれました。台湾人の父と、日本人の母親との間に横浜市で生まれます。外国人登録証上の出生地は中国広東省鎮平村(祖先の出身地、現梅州市官坪村)。祖先は客家。范文雀は従姉(父の姉の子)にあたります。祖父が戦前に妻子とともに台湾(桃園市)から日本に移民し、神戸で紅茶や果物の輸出入業を始め、戦後は金融や新聞事業なども手掛け、日本初の客家団体「客家公会」を立ち上げました。両親は池袋で歌謡喫茶「パラダイス」を経営後、横浜西口駅近くでバーや焼き鳥屋を営んでいましたが、父親は若くして亡くなりました。神奈川学園高等学校後の1976年にオンシアター自由劇場に入団。自由劇場時代の代表作は『上海バンスキング』のリリー役。オンシアター自由劇場を退団後、1985年に大谷亮介らと東京壱組を旗揚げし、1996年の解散まで14公演を公演。その後は活躍の場をテレビや映画に移します。2006年3月に2歳年下のNHKの美術スタッフと結婚。2008年度・2009年度には2年連続で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。2009年2月23日(日本時間)、ハリウッドにあるコダック・シアターで開催された第81回アカデミー賞授賞式で、『おくりびと』が日本映画で初めて外国語映画賞を受賞し、余も渡米して授賞式に出席しました。
https://www.youtube.com/watch?v=HWlD_O_8jO8

1960年、シンガーソングライター、セラピストのEPOが生まれました。旧名および出生名:佐藤永子。代表曲として「う、ふ、ふ、ふ、」があり、提供曲としては高見知佳「くちびるヌード」、香坂みゆき「ニュアンスしましょ」が知られています。デビュー当時から昭和歌謡とも洋楽とも言い切れない音楽性で活動しており、J-POP黎明期を創った一人であると見なされています。『俺たちひょうきん族』でエンディングテーマ『土曜の夜はパラダイス』が流れてくると、「ああ、週末だなあ」と感慨に浸ったものです。
https://www.youtube.com/watch?v=F9woeOiAgXw

1961年、俳優の渡辺徹が生まれました。劇団文学座所属。妻は歌手、タレント、女優の榊原郁恵。2男の父で、長男は俳優の渡辺裕太。城西国際大学メディア学部特任教授。 1981年、人気テレビドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ)の通称名・ラガー(竹本淳二)刑事役でデビュー(1985年まで出演)。1982年、EPICソニーから『彼〈ライバル〉』で歌手デビュー。同年発売のセカンドシングル『約束』は、グリコ「アーモンドチョコレート」のCMソングとなり大ヒット。また彼の代表曲のひとつでもあります。1983年、『夜明けのランナー』(東宝) で映画デビュー。「太陽にほえろ!」降板・終了後は最終的に130kg前後まで太ってしまい、役者としての仕事が減少し、司会者・タレントとしての活動が多くなりました。ピークは結婚時だったため、妻・郁恵の料理によりダイエットに成功して、91年頃には90kgまで痩せました。その後も何度か増減を繰り返していますが、2012年4月に虚血性心疾患であることが判明し、5月に手術を受け、退院時には79kgまで体重が減少しました。またこの当時出演予定だった舞台等は全て降板しています。2022年11月28日、敗血症のため死去。61歳没。たいへんなマヨラー。
https://www.youtube.com/watch?v=688nrWG5oNk

1965年、ミュージシャン、シンガーソングライター、ギタリスト、音楽プロデューサーの奥田民生が生まれました。1987年、ロックバンド「UNICORN」のボーカリストとしてデビュー。「大迷惑」「働く男」「すばらしい日々」など、数々のヒット曲を世に送り出し、バンドブームの寵児ともいわれました。バンドは1993年に解散(2009年に再結成)。その後、約1年間の充電期間を経て、1994年からソロ活動を開始。以降、ソロ活動の傍ら、女性デュオ「PUFFY」のプロデュースや、井上陽水とのユニット「井上陽水奥田民生」をはじめとした様々なミュージシャンとのコラボレーションなど、バンド、ソロ、プロデュースあらゆる音楽活動において大きな成功を収めています。 ソロ活動においての代表曲は、『愛のために』、『イージュー★ライダー』、『さすらい』など。
https://www.youtube.com/watch?v=AqcK8_TRHSwhttps://www.youtube.com/watch?v=AqcK8_TRHSw

1970年には女優の裕木奈江が生まれています。1988年公開の映画『ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー』に本名の田沢 奈江名義で出演しデビュー。1980年代末に映画女優として活動を開始。1990年公開の『曖・昧・Me』に主演し、本格映画デビューを果たします。裕木奈江の芸名は作家の五木寛之が名付けたものです。その後1990年代になってテレビドラマ・CM・歌番組などテレビ番組での芸能活動にも進出し、JRAのCMで高倉健と共演、フジテレビ系連続ドラマ『ウーマンドリーム』(1992年)の挿入歌「泣いてないってば」で歌手として本格的に活動を開始し8枚のアルバムをリリース、ラジオ深夜番組の『オールナイトニッポン』のパーソナリティもを務めるなど、アイドル的な人気を博します。1992年放送のフジテレビ系スペシャルドラマ『北の国から'92巣立ち』では黒板純(吉岡秀隆)の恋人・松田タマコ役を演じて、純の子を妊娠し中絶するという衝撃的な内容で脚光を浴びます。さらに、翌1993年放送の日本テレビ系連続ドラマ『ポケベルが鳴らなくて』では友人の父(緒形拳)と不倫に陥り家庭を壊してしまう役を演じて社会現象を巻き起こし、確かな演技力に定評を得ます。一方で、女性から共感を得られない役柄を自然体に演じたことにより、ドラマ制作をめぐるトラブルを契機に演じた裕木自身が「ぶりっ子」「嫌いな女優No.1」などとして女性誌から“女性の敵”であるかのような激しいバッシングを受けることとなりました。1999年の写真集『UNRELEASED FILMS』で初めてオールヌードを披露。2004年9月から1年間、文化庁の新進芸術家海外研修制度を利用し在外研修生としてギリシャに国費留学し、英語と演劇を学びます。当時の海外留学ブームを背景に、芸能界しか知らない人生の世界を広げたいと同制度に応募。演劇の起源であるギリシャ劇に興味があったことから留学先にギリシャを選び、英語での授業や米国からの留学生たちと同じドミトリーで生活することにより語学力も身につけます。
2006年4月 クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』にNAE名義で出演。以降ハリウッド映画出演時はこの名を使用。同年7月 日本において舞台『無頼の女房』に出演。作家坂口安吾の妻役。2007年 デヴィッド・リンチ監督の映画『インランド・エンパイア』に出演。同年、アイスランド映画『レイキャヴィク・ホエール・ウォッチング・マサカー』に日本人メイドの役で出演。2017年 デヴィッド・リンチ脚本・監督の海外ドラマ、新作『ツイン・ピークス The Return』に出演。アジア人で唯一、デヴィッド・リンチ監督から直接キャスティングされました。アメリカSHOWTIMEにて、5月21日から9月3日まで放送されました。日本では、WOWOWにて7月22日より放送。
https://www.youtube.com/watch?v=sXfvkJeRzxw

1971年、タレントの大久保佳代子が生まれました。お笑いコンビ・オアシズのメンバー。相方は光浦靖子。現在は情報番組のコメンテーターや食レポなどのピン活動などが中心。YouTubeでは、顔に似合わぬ肉食女史であるとバラされています。
https://www.youtube.com/watch?v=E-eBScistHY&list=PLdDrTl31O6BPA3JY8BYzCx3aJyBW0Hng0

1972年、お笑い芸人、イラストレーターの鉄拳(てっけん)が生まれました。本名、倉科岳文(くらしな たけふみ)。 1997年に、お笑いプロダクション「オフィス★怪人社」に入団。独特の風体のお笑い芸人・鉄拳としての活動を始めます。『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)や、『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ)、『たけしの誰でもピカソ』(テレビ東京)などに出演して人気に火がつきます。単行本『こんな○○は××だ! 1・2・3』(扶桑社)はベストセラーになりました。スケッチブックを持ち、自筆のイラストを見せながら滑舌の悪いトークで「こんなものはいやだ」というフリップネタ(めくり芸)をする。主にブラックユーモアを基本としていますが、当初は必ずやっていた「ガビーン」(首吊りネタ)は、「子どもには受けるが、やはり保護者には受けない」と自身の著書『鉄拳劇場』(ぶんか社)で吐露しており、最近は控え気味。芸人になる以前、大仁田厚のプロレス団体「FMW」で練習生だったが、脱走していたとのこと。
https://www.youtube.com/watch?v=MR2u024VdQ8


引用・参照したサイト

5月12日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
5月12日、今日は何の日〜毎日が記念日〜
5月12日は何の日
5月12日の雑学。今日は何の日?記念日、誕生日、カレンダー
トラッドジャパン 5月12日
マイナビウーマン 5月12日
Wikipedia「5月12日」
ほか
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