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2024年05月12日04:11

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1534年(天文3年)、戦国武将の織田信長が生まれました。織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張(愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めました。
信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていきました。永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破。そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結びます。
永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成しました。一方で、室町幕府将軍足利義輝が殺害された(永禄の政変)後に、足利将軍家の足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとしました。美濃の戦国大名・斉藤氏(一色氏)との対立のためこれは実現しませんでしたが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となりました。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用しました。
翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たします。信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指しました。しかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破ることには成功したものの、三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺などに追い詰められます。同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱しました。
元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちします。しかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限ります。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放しました(槇島城の戦い)。 将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始めます。
元亀から天正への改元を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功しました。天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出しました。翌年には安土城の築城も開始しています。
しかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と信長に叛きました。天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示しています。
天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させました。同年には信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっています(三職推任)。その後、信長は長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、三男・信孝に出兵の準備をさせています。そして、信長自身も毛利輝元ら毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていました。
しかし、同年6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれました(本能寺の変)。 一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われています。一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在します。なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り・茶の湯・相撲などを愛好しました。南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われます。政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築きました。天皇や朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっています。
戦後永らく信長を過大評価していた見方を一変させたきっかけは明石散人(あかし さんじん)の『二人の天魔王 ー「信長」の真実』(講談社.1992年)です。賛否両論あるこの著書では、信長人気のきっかけは、信長を主人公とした萬屋錦之介主演の映画であると主張していますが、調べてみてもそんな映画は存在しないのは、いつもの明石調。

1698年(元禄11年)、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者の青木昆陽が生まれました。サツマイモの普及を図り、甘藷先生(かんしょせんせい)と呼ばれます。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させています。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評されます。享保20年(1735年)『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表しました。元文元年(1736年)には薩摩芋御用掛を拝命し、身分が幕臣となりました。著書に『蕃薯考』、『和蘭文訳』、『和蘭文字略考』、『経済纂要』、『昆陽漫録』、『草盧雑談』など。『国家金銀銭譜』は本邦初の金銀古銭の目録です。1769年11月9日、71歳で没。

1783年(天明3年)、小説家の柳亭種彦が生まれました。文化3年(1806年)24歳のとき、読本『阿波の鳴門』ほかを、翌年、唯一の洒落本『山嵐』ほかを出版して、烏亭焉馬、山東京伝、山東京山、葛飾北斎、歌川国貞らと交わるようになりましたが、文化8年(1811年)の『鱸庖丁青砥切味』以降、合巻に力を注ぎました。文化12年(1815年)(33歳)から天保2年(1831年)(49歳)にわたって中編集、『正本製』(しょうほんじたて)全12編を刊行しました。人気演目の翻案を「正本(芝居の脚本)風に仕立てた」シリーズで、国貞の挿絵とあいまって、全巻歌舞伎趣味に満ち、大いに迎えられました。『正本製』の先が見えた文政12年(1829年)(47歳)から、長編、『偐紫田舎源氏』を刊行し始めました。絵師は国貞、版元は鶴屋喜右衛門。キャラクター商品が出回るほどの、ベストセラーになりました。『田舎源氏』が軌道に乗った天保5年(1834年)(52歳)から、『邯鄲諸国物語』の刊行を始めました。国内諸国を舞台にした伝奇物語集で、絵師は国貞、版元は栄久堂山本平吉でした。天保13年(1842年)(60歳)、水野忠邦の天保の改革により譴責され、天保13年7月19日(1842年8月24日)に没しました。自殺説もありますが、「ショックによる病死」説が有力です。

1803年、ドイツの化学者、ユストゥス・フォン・リービッヒが生まれました。有機化学の確立に大きく貢献しました、19世紀最大の化学者の一人。応用化学においては、植物の生育に関する窒素・リン酸・カリウムの三要素説、リービッヒの最小律などを提唱し、これに基づいて化学肥料を作りました。そのため、「農芸化学の父」とも称されます。
また教育者としても抜きん出ており、体系だったカリキュラムに基づいた化学教育法を作り上げ、アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンをはじめ多くの優秀な化学者を育成しました。1873年4月18日、ミュンヘンにて69歳で没。
https://www.japanjournals.com/feature/great-britons/9402-florence?cookie_7322f43f046a00f75ec149fe9a9d99a8=accepted

1820年、イギリスの看護婦、社会起業家、統計学者、看護教育学者のフローレンス・ナイチンゲールが打生まれました。クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名。国際看護師の日(5月12日)は彼女の誕生日。ロンドンの聖トーマス病院に付属してナイチンゲール看護学校を設立、これは世界初の宗教系でない看護学校であり、現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部となっています。ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学のプラトン学者、ベンジャミン・ジョウェットとも親しく交流しました。晩年は年老いた親の看病などに当たるが、1874年に父親が80歳で没し、1880年に母親が91歳で没したあとは活動も少なくなり、1890年に姉が71歳で没し、以降はずっと自宅にいることが多くなりました。1910年8月13日に、バーンレーンの自宅で静かに息を引き取りました(享年90)。

1885年、小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員の武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)が生まれました。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らとつくった「十四日会」で創作活動をします。同年、東大を中退。翌年には処女作品集『荒野』を自費出版しました。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれ、実篤は白樺派の思想的な支柱となります。理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に、村落共同体「新しき村」を建設しました。実篤は農作業をしながら文筆活動を続け、大阪毎日新聞に『友情』を連載。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに、村落共同体「新しき村」を建設しました。但し実篤は1924年(大正13年)に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年でした。代表作は『お目出たき人』(1911年)、『その妹』(1915年,戯曲)、『幸福者』(1919年)、『友情』(1919年)、『人間万歳』(1922年,戯曲)、『愛慾』(1926年,戯曲)、『愛と死』(1939年)、『真理先生』(1951年)。1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある東京慈恵会医科大学付属第三病院で尿毒症により死去。享年92(満90歳没) 。晩年の20年間居住した調布市の自宅敷地および建物が、没後に「実篤公園」「調布市武者小路実篤記念館」として公開されています。主屋は2017年11月2日付で国の登録有形文化財となりました。
1889年、アンネ・フランクの父、オットー・フランクが生まれました。ホロコースト生還者。アンネの死後の1947年、彼女の日記『アンネの日記』を出版しました。現在ではこの日記にはオットーがあれこれ手を入れていることが判明しています。1980年8月19日に死去。
1907年、アメリカの女優、キャサリン・ヘップバーンが生まれました。主な作品は『勝利の朝』『若草物語』『赤ちゃん教育』『素晴らしき休日』『フィラデルフィア物語』『女性No.1』『アフリカの女王』『旅情』『招かれざる客』『冬のライオン』『黄昏』。演技部門においてオスカーを4回受賞したただ一人の俳優。2003年6月29日、コネティカット州オールドセイブルックにて、老衰のため96年の生涯を終えました。
https://rekisiru.com/10974

1928年、アメリカの作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサー、歌手(シンガーソングライター)、楽団指揮者のバート・バカラックが生まれました。1962年から70年代にかけて、作詞家のハル・デヴィッド(Hal David)とのコンビで多くのヒット曲を作曲しました。 2006年の時点において、米国で70曲のトップ40(Top 40)、英国で52曲のトップ40の実績があります。また、アカデミックな作曲技法をダリウス・ミヨー、ヘンリー・カウエルといった、いわゆる西洋芸術音楽(クラシック音楽)の作曲家に師事しています。映画音楽でも数々の楽曲を提供し、特にジョージ・ロイ・ヒル (George Roy Hill) 監督の映画『明日に向って撃て! (Butch Cassidy and the Sundance Kid) 』の主題歌「雨にぬれても (Raindrops Keep fallin' On My Head) 」はアカデミー主題歌賞を受賞。バカラックのアカデミックな音楽センスはこの時に培われたものです。2023年2月8日、アメリカ合衆国・カリフォルニア州・ロサンゼルスの自宅にて自然死。94歳没。
https://www.youtube.com/watch?v=rKt4IWKy1mU



引用・参照したサイト

5月12日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
5月12日、今日は何の日〜毎日が記念日〜
5月12日は何の日
5月12日の雑学。今日は何の日?記念日、誕生日、カレンダー
トラッドジャパン 5月12日
マイナビウーマン 5月12日
Wikipedia「5月12日」
ほか
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