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2024年05月25日04:20

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5月25日が誕生日である人々

1863年、ドイツの哲学者、ハインリヒ・リッケルトが生まれました。新カント派・西南ドイツ学派の代表的な人物として知られます。リッケルトにとって、対象の認識とは、ある主語(非合理的内容)と述語(合理的形式)とを結合させることであって、その判断には価値が働くことになります。すなわち、認識とは、多様な現実の中から知るに値するものだけを選択して把握するものです。リッケルトはこれを価値判断と呼び、自身の価値哲学を展開しました。また、この価値哲学の視点から、リッケルトは、自然科学が絶えず反復される一般的法則だけを把握しようとするのに対して、歴史諸科学は、政治・経済・芸術などの文化価値からみて重要な個性的特徴だけを把握するものであると主張し、後者に「文化科学」の名を与えました。師ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの思想を発展させたこの「価値関係的」な文化哲学の立場からリッケルトは認識論の検討を行い、その後のドイツ歴史学に哲学的基礎づけを与えることになりました。 1936年7月25日、ハイデルベルグにて73歳で死去。

1893年、童話作家の浜田廣介が生まれました。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあります。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれました。1973年11月17日、前立腺癌のため東京都大田区田園調布の自宅で死去。80歳没。
https://hirosuke-kinenkan.jp/

1900年、政治家の佐々木更三が生まれました。日本社会党副委員長、委員長を歴任。社会党では左派の佐々木派の領袖。極めゼリフは「信念とズーズー弁は死んでも直りません」。佐々木は委員長就任演説で「アメリカ帝国主義は世界人類の敵」と述べて、反米色をあらわにしました。それまでの社会党委員長はインテリ出身者が多く、そのため、庶民的な佐々木は社会党の支持者から人気を集めないと言われましたが、意外にも彼のズーズー弁が有権者に受けて、マスコミへの露出も多くなっていきました。すると右派の江田三郎に対する批判を忘れたかのように、マスコミに嬉々として登場するなど言動に一貫性のないところを見せました。社会主義協会の勢力が拡大して佐々木派を侵食し、さらに親ソ派の社会主義協会と親中派の佐々木との対立が激しくなると、1974年(昭和49年)、佐々木は突如としてこれまで激しく争ってきた江田と和解し、勝間田清一元委員長、三宅正一副委員長らと7人委員会を結成しました。そして、社会主義協会との対決姿勢を明確にしました。1975年(昭和50年)、『社会主義的・的政権』を著し、社会党政権樹立後も急激に既存の社会のあり方を変える必要がないことを訴えて、現実主義的な姿勢を示しました。1976年(昭和51年)総選挙では世代交代の波に飲みこまれ落選し、政界を引退。1985年(昭和60年)12月24日死去。享年85。
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/412/

1938年、SF作家、推理作家、翻訳家、脚本家、評論家の豊田有恒(とよた ありつね)が生まれました。1961年、『時間砲』で第1回空想科学小説コンテスト(後のハヤカワ・SFコンテスト)の佳作に入賞。1962年、「火星で最後の……」(後に「絶滅者」と改題)で第2回ハヤカワ・SFコンテストの佳作に入賞し、これが『S-Fマガジン』1963年4月号に掲載されてSF作家としてデビュー。武蔵大学在学中から、SF仲間だった平井和正の依頼で平井原作のアニメ『エイトマン』で1963年末に脚本家デビュー。大学在学中にSF同人誌『宇宙塵』の会合で会った手塚治虫に『エイトマン』での手腕を買われて、1964年、嘱託社員として虫プロダクションに入り、『鉄腕アトム』を初めとしてアニメのシナリオを手がけます。虫プロダクションでは続けて『ジャングル大帝』などの脚本を手がけましたが、1965年に、いわゆる「W3(ワンダースリー)事件」で、『ナンバー7』のキャラクターの一つ「宇宙リス」と同種のキャラクターが、TBSの『宇宙少年ソラン』に登場したことから、手塚と虫プロ上層部からスパイの嫌疑を受け、虫プロを退職。TBSの通称漫画ルームに移り、『スーパージェッター』『宇宙少年ソラン』のシナリオを書きました。その後、手塚の誤解は解け、手塚の晩年まで公私にわたって交流は続きました。作家として売れ始めたことから、1967年の『冒険ガボテン島』を最後にアニメの脚本からは手を引き、専業の作家として活動。1973年から1980年代にかけては虫プロ時代の同僚山本暎一からの依頼で数年ぶりのアニメの仕事となる「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」の原案、設定にも携わります。代表作は『日本新神話物語/日本武尊SF神話シリーズ』など。個人的には彼に弟子入りした男に嫌な思い出があり、正直、あまり触れたくはなかったのですが。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231205/k10014278981000.html

1940年、写真家の荒木経惟(あらき のぶよし)が生まれました。「アラーキー」の愛称で知られ、丸い縁の黒めがねをトレードマークとします。写真集の発行点数がきわめて多く、私家版を含めて400冊以上を発表しています。ヌード写真や近年は少女も含む人物写真を得意としますが、花などの静物写真、東京を対象とした都市写真の作品も多く、人情味溢れるスナップ写真も有名です。1990年に、亡くなった妻の陽子を撮影して話題となります。この写真を発表した写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』をめぐり、意見が対立した篠山紀信としばらくのあいだ絶縁状態が続きました。1981年に映画作品として日活ロマンポルノ「女高生偽日記」を監督し、自身も出演。1997年に荒木と妻の陽子が現わした私的小説を原作に、竹中直人が監督して主演する映画「東京日和」が制作されて荒木が駅員の役で出演しました。「アラキネマ」と称するスライド写真と音楽を同期して投影するライブパフォーマンスを1986年から行っており、映像化したビデオをQuest社から2010年までに30本発表しています。パフォーマンスとしての「アラキネマ」は、AaT RooMの田宮史郎と安斎信彦の二人の操作と、安田芙充央のピアノで構成されます。美術家で元ファッションモデルの湯沢薫は、荒木から受けた性的虐待を2017年8月5日にFacebookで公にしました。湯沢が19歳の1990年に荒木と雑誌の仕事をした際に被害を被り、以来精神疾患を患いモデル業を休業し、心的外傷は現在も払拭できず、荒木の顔写真や作品を目にすると心身に異常を覚えました。冒頭に「What's about art?(芸術とは何か?)」と記して、芸術の名のもとに性的虐待が行われたことを批判し、荒木の作品を芸術として享受している人々に対して疑義を呈しました。また、ポールダンサーのKaoRiは、2001年から2016年にかけて「ミューズ」と称されて荒木の専属として作品の被写体モデルを務めましたが、その間に荒木から精神的苦痛を被ったと、2018年4月1日にウェブサービス「note」で公にしました。荒木との撮影やパフォーマンスは、契約書を交わさぬために報酬などで不平等な関係を強いられて経済的困窮に追い込まれました。荒木が都度公言していた「ミステリアスで、なんでもする女」との印象は自身にとって不本意ながら、彼を取り上げる写真業界やさまざまなマスメディアにより広範に流布され、ストーカー、嫌がらせ、窃盗などの被害をたびたび被りました。荒木に待遇の改善を繰り返して求めましたがすべて無視され、営業妨害、名誉棄損と恫喝され、長期の精神的苦痛に耐えかねて自殺も思案しました。これらを記しつつ、荒木の人権感覚や芸術を口実に搾取を正当化する姿勢、彼を肯定的に扱う業界やマスメディア、を非難しました。さらに、ファッションモデルの水原希子は、KaoRiの告発に触発されて、自身が受けたセクシュアルハラスメントとパワーハラスメントを2018年4月9日にInstagramで公にしました。20代前半の2010 - 2014年頃に企業広告で、上半身裸で胸部を自らの前腕で覆う姿で被写体モデルを務めましたが、平素の撮影時よりもかなり多い20数名の関係者らしき男性たちが撮影の場に来訪しました。「この業界にいる若いモデル、そして女性、男性にもこの記事を読んでほしい。モデルは物じゃない。女性は性の道具ではない」と業界全体の問題として批判しました。2013年の元旦に資生堂が「わたし、開花宣言」と新聞紙面で広告した写真は、荒木が水原の上半裸身を撮影したもので、「20代前半の頃」「上半身裸になって手で胸を隠して撮影」と水原が記した内容に合致しています。資生堂は2018年4月13日に「水原の所属事務所に事実確認を依頼し、自社内を調査したが、当社の広告撮影時に起きた出来事かどうかについては分からなかった」とインターネットメディアの問いに答えています。
https://media.and-art.jp/art-studies/photographer/nobuyoshi_araki/

1945年、女優の山田スミ子が生まれました。幼い頃から子役として宝塚映画製作所などで活動。学生だった1963年頃より吉本新喜劇へ出演し、1968年4月に吉本新喜劇へ入団。花紀京や岡八郎のマドンナ役を務め、1982年頃までレギュラー出演し、初の女座長も務めました。1982年には、第11回上方お笑い大賞金賞を受賞。『あっちこっち丁稚』での「あかんて言うてんのが、分からへんのんか〜!」「あかん言うてますのに、どないやねんな〜!」などとヒステリックなセリフを言い放ち、前田五郎をビンタするネタが定番でした(その際、木村明が赤い褌姿で舞台を平泳ぎしながら走り抜けるというシュールな演出も番組の名物となります)。また、夏休みには、木村が赤い褌の子どもたちを従えて登場する演出も名物となっていました。いわゆる「キレる芸風(キレ芸)」は、未知やすえに受け継がれていきます。新喜劇時代には「山田が大声を張り上げると周りの役者がコケる」というギャグもありました。新喜劇退団後は、東京の事務所に所属し活動。テレビドラマでは、長年、『家政婦は見た!』にレギュラー出演していました。2019年2月12日、直腸がんのために死去。73歳没。生涯独身。
https://www.youtube.com/watch?v=Hgt5nEhUSag

1947年、フリーアナウンサー、タレント、司会者、ラジオパーソナリティの小倉智昭が生まれました。元東京12チャンネル(現:テレビ東京)アナウンサー。大橋巨泉が『大橋巨泉の日曜競馬ニッポン』(ニッポン放送)をスタートさせるにあたり小倉を起用することを決め、巨泉のスカウトに乗る形で29歳のときに東京12チャンネルを退社し、フリーアナウンサーとして大橋巨泉事務所(現:オーケープロダクション)に所属。しばし雌伏を余儀なくされましたが、古巣であるテレビ東京の『タミヤRCカーグランプリ』での軽快で個性的なナレーション(自称「小倉のお兄さん」)で小中学生からの注目を集め、さらに『小川宏ショー』のリポーター、『アイ・アイゲーム』(フジテレビ)や『世界まるごとHOWマッチ』(毎日放送)のナレーションが転機となります。『RCカーグランプリ』や『HOWマッチ』では甲高い声と早口で洒脱なナレーションで名前を知られました。当時のキャッチフレーズは “七色の声を持つナレーター” でした。また、ラジオパーソナリティとしても頭角を現し、文化放送『とことん気になる11時』(1984年 - 1987年)、『小倉智昭の時計の針はいま何時?』(1987年 - 1991年)、『小倉智昭のニュースアタックル』、『小倉智昭の夕焼けアタックル』(1992年 - 1999年)など、平日の帯ワイド番組に長期に亘って出演しました。ラジオパーソナリティでの話術ぶりを評価され、『キャッチ』(日本テレビ、1989年 - 1992年)、『ジョーダンじゃない!?』(フジテレビ、1992年 - 1993年)、『どうーなってるの?!』(フジテレビ、1993年 - 1999年)などのワイドショーに次々に総合司会で起用され、着実に足場を固めて行きます。
そして1999年4月にスタートした『情報プレゼンター とくダネ!』(フジテレビ)の総合司会就任で、司会者としての地位を確実なものにしました。就職活動当時の1970年、小倉はフジテレビジョンが第一志望であり、入社したら朝のワイドショーを担当したいと入社面接時に話していたが不合格に終わったため、『28年来の願いが叶った』と、番組スタートの記者会見の場で語りました。
https://www.youtube.com/watch?v=4en52rCmqeM

1949年、歌手の葛城ユキが生まれました。1973年の第6回ヤマハポピュラーソングコンテストに朝霧マチ名義で出場し「小さな出発」で歌唱賞を受賞。翌年の第7回では「木曾は山の中」を歌い最優秀賞を受賞。同年秋の第5回世界歌謡祭でも同曲で川上賞に入賞し、同年メジャーデビュー。当初はロックではなく、ニューミュージック系でした。1980年にボニー・タイラーの「Sitting on the Edge of the Ocean」のカバー曲「哀しみのオーシャン」がヒット。同年、ファーストアルバム『寡黙』をリリース。1983年に飛鳥涼と井上大輔が大友裕子に提供した「ボヘミアン」をカバーし大ヒット。自身の代表作となります。1986年9月、中国広東省珠海市『珍珠楽園』で日本人女性ロックシンガー初のコンサートを開催し3日間でのべ3万人を動員。近年は夢グループ主催「夢スター歌謡祭 春組対秋組歌合戦」に出演し、全国各地を回っています。2022年6月27日、腹膜がんのため都内の病院で死去。73歳没。
https://www.youtube.com/watch?v=9GU___1igyI

1952年、アメリカ人の弁護士、タレントのケント・ギルバートが生まれました。1971年に末日聖徒イエス・キリスト教会のモルモン宣教師として初来日。1983年、『世界まるごとHOWマッチ』にレギュラー出演して外国人タレントとして人気を博し、一気に日本での知名度が上がりました。『世界まるごとHOWマッチ』では、いつも正解より安い金額を回答していたことから「ケント・ネギルバート」と呼ばれました。2018年10月6日、岡山理科大学の客員教授に就任していることをTwitterで明らかにしました。
1955年、落語家、タレントの桂小枝が生まれました。1988年より2013年まで『探偵!ナイトスクープ』の探偵としてレギュラー出演していたと書けば、関東の人でも「ははーん」と頷く人も多いでしょう。探偵紹介を受けてからの挨拶「よろしくお願いしま〜す、桂小枝で〜す、お願いしま〜す」(放送によっては、名前を先に挨拶する時もある)と、終わった後の第一声「しかし、まぁ〜何ですね〜」、直後の収録時と放送日との差をネタにしたトークがトレードマークとなっていました。フジテレビの『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜』にゲスト出演した際、細木数子にリポーターとしての活動ではでなく、もっと古典落語をやりなさいと言われたことがあります。現在は積極的に古典落語に挑戦し、『くっしゃみ講釈』『佐々木裁き』『悋気の独楽』などの得意ネタを持っています。2013年9月27日の放送分を以って、25年間出演していた探偵!ナイトスクープを卒業、その後2014年8月に顧問として復帰し以降定期的に出演。
https://www.youtube.com/watch?v=aWaS5_5DfNU

1955年、元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球解説者、タレントの江川卓が生まれました。高校時代は公式戦でノーヒットノーラン9回、完全試合2回、36イニング連続無安打無失点、県予選合計被安打2での夏の甲子園出場、選抜高等学校野球大会における一大会通算最多奪三振60個および8者連続奪三振、春夏通じた甲子園における奪三振率14.0、東京六大学リーグ時代の17完封など、今なお破られていない数々の記録を作り、「怪物」と呼ばれました。また、日本プロ野球史上6人目の投手5冠に輝くなどの実績を残し、1980年代の日本プロ野球、セ・リーグを代表するエースとして活躍しました。1978年度ドラフト会議(11月22日開催)の2日前に急遽帰国した江川は、ドラフト会議前日の11月21日、(福岡野球から西武グループに譲渡されたライオンズの独占交渉権はドラフト会議前々日の11月20日をもって喪失したとの解釈で)巨人と電撃契約しました(通称「空白の一日事件」)。セントラル・リーグ事務局は即時にこの契約を無効として江川の選手登録を却下しましたが、それに抗議した巨人は翌日のドラフト会議をボイコットしました。当のドラフト会議では、巨人の抜け駆け契約に抗議する意味で南海、近鉄、ロッテ、阪神の4球団が江川を1位指名し、抽選の結果、阪神が江川との交渉権を獲得しました。巨人は「全12球団が出席していないドラフト会議は無効である」と主張して、江川に対する阪神の交渉権を認めませんでした。この問題はこじれにこじれましたが、最終的に金子鋭コミッショナーの「強い要望」により、1979年1月31日、江川は交渉権を持つ阪神と契約を結び、一旦阪神に入団した上で、同日中に小林繁を相手とする交換トレードによって巨人に移籍することになりました。この一件により、江川に対する世間の風当たりは強くなり、一気に悪役に仕立て上げられます。マスコミは大挙して江川を批判すると同時に、小林を悲劇のヒーローとして報道しました。この経緯から、「エガワる」(周囲をかえりみず強引に自分の意見を押し通すこと)という造語が流行語にまでなりました。また、1960年代に子供が好きだった物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、嫌いな物として「江川・ピーマン・北の湖」という呼び方が揶揄的になされました。引退会見では、優勝のかかった対広島戦を前にして長年傷めていた右肩の故障が限界に達し、即効性があり一時的に力は回復するが投手生命を縮めるという、いわゆる「禁断のツボ」に鍼を打つ治療を受けたと語り、引退記者会見に出席した多くのスポーツ記者が、涙をにじませて語る江川の姿にもらい泣きしました。しかし、鍼灸関係者から、鍼灸治療でそのような危険な治療方法があるかのような誤解と不安を与えたとの不満と抗議が起こり、そのようなツボが江川が主張した患部(肩胛骨)の裏にあるという事実も確認できなかったため、治療をした鍼灸医の姓名を明らかにするように、鍼灸医の団体から正式な抗議を受けました。この件に関しては、江川サイドから文章で謝罪することで一応の決着が計られましたが、鍼灸医団体からの抗議自体が大手のマスコミではほとんど報じられませんでした。のちに江川は、引退記者会見でテンションが高まったあまり、思わず口をついた作り話であることを認めました。現役引退後のワインへの傾倒ぶりや不動産投機での大損はあまりにも有名。
https://www.youtube.com/watch?v=KSplMQ1k-Yo

1972年、女優の石田ひかりが生まれました。本名は訓覇ひかり(くるべ ひかり)、旧姓は石田。姉は女優の石田ゆり子。芸能プロダクションボックスコーポレーションに二子玉川でスカウトされます。姉・ゆり子も一ヶ月ほど前に自由が丘で同社にスカウトされています。姉妹だとは気づかなかったとか。1986年、『妻たちの課外授業II』(日本テレビ)で女優デビュー。その後『花のあすか組!』(1988年)や『ママハハブギ』(1989年)など、テレビドラマに出演。CMにも多く出演しました。また、芸能人水泳大会などにも出場、先述した得意な水泳で存分に活躍しました。1987年5月21日テイチクからシングル「エメラルドの砂」でアイドル歌手デビュー。当時中学3年生14歳でした。その後、シングル10枚、アルバム5枚を発売。代表曲としては、花王「ピュア」シャンプーのCMイメージ・ソングとなった「く・ち・び・る・ハート2」や「恋は確率51%」や尾崎亜美が書きおろした「二人の関係(リエゾン)」などがありますが、本人は「全く売れなかった」と自嘲しています。『さびしんぼう』などの尾道三部作で知られる大林宣彦監督の映画『ふたり』(1991年)、『はるか、ノスタルジィ』(1993年)に主演し、女優として大きく飛躍することになりました。1992年、読売テレビ『悪女』でテレビドラマ初主演。続いてNHK連続テレビ小説『ひらり』では大相撲が大好きなヒロインを演じました。その後もフジテレビ『あすなろ白書』に主演。『NHK紅白歌合戦』で、1992年と1993年に2年連続で、紅組司会を務めています。2001年5月、NHK職員の訓覇圭(当時NHK大阪放送局ディレクター)と結婚、幼児期に住んでいた西宮市に一時在住。2003年、同局制作の連続ドラマシリーズ『かるたクイーン』に出演、同年5月31日に長女を出産。その後、訓覇の転勤に伴い東京へ戻り、2005年1月8日に自宅で次女を出産。2010年3月から鎌倉市に在住。
https://www.youtube.com/watch?v=M0AaUaQTBGI

1974年には漫画家のうすた京介が生まれています。主に『週刊少年ジャンプ』でギャグ漫画を発表。代表作に『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』、『ピューと吹く!ジャガー』。 脱力系のシュールギャグ漫画家。

1986年、女優の上野樹里が生まれました。映画『スウィングガールズ』では演義だけでなく、本当にジャズのサックスを吹いていました。テレビドラマの『のだめカンタービレ』でもブレイク。『ラスト・フレンズ』では性同一性障害を抱えた男勝りなモトクロス選手を演じるため、役作りで髪を切りベリーショートにしました。その後はすぐにまた髪を伸ばし、映画『のだめカンタービレ 最終楽章』ではテレビドラマの時と同じボブカットに戻っています。2011年、『江〜姫たちの戦国〜』の江役でNHK大河ドラマ初主演。
2016年5月25日、ロックバンド・TRICERATOPSのボーカリスト・和田唱と結婚したことを所属事務所を通して発表。婚姻届は東京都内の区役所に代理人を通じて提出。2018年、『グッド・ドクター』で結婚後初、二年半ぶりの連ドラ出演を果たします。2019年、『監察医 朝顔』で13年ぶりに月9枠の主演を務めました。
https://www.youtube.com/watch?v=MLlDhE6stLc


引用・参照したサイト

5月25日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
5月25日、今日は何の日〜毎日が記念日〜
5月25日は何の日
5月25日の雑学。今日は何の日?記念日、誕生日、カレンダー
トラッドジャパン 5月25日
マイナビウーマン 5月25日
Wikipedia「5月25日」
ほか
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