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2024年04月18日07:38

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木曜日のメインコンテンツ「哲学」の第一弾 → ジョン・スチュアート・ミル 44 三 ミルの価値観 ー 人間と価値 (一) 序 ー 価値と多元性 2

 人間性そのものについてみた場合、ミルは、ベンサム批判のなかで「人間というこの最も複雑な存在」と言っています。それは、人間性の道徳的な部分にとどまらず、人間には廉恥も個人的尊厳の感情もあれば、芸術家の情熱であるところの美にたいする適合とを愛する愛もあり、またあらゆる事物における秩序、一致、調和と、あらゆる事物の目的にたいする適合とを愛する愛もあります。あるいは他の人間を支配するというような狭いものでなく、自己自身の意志を実現せしめるような力にたいする愛の感情もあります。さらには、運動と活動とにたいする渇望ともいいうる行為にたいする愛の感情もあります。……そして、これらのものが人間性のなかの有力な構成要素をなしているわけであります。したがって、人間は個人個人それぞれ異なる思考や判断がなされることは当然のことでしょう。したがって、人間とはいっても、個人個人の価値判断は異なるとみざるをえないわけで、いわば価値は多様的なものとなるのであります。

 しかしそればかりでなく、人間が構成している社会は、経済、政治、文化……といった複数個の体制の集合体であります。してみると、この各個別体制にもとづく価値判断が当然にみられてくるのでしょう。いわば人間はこういった各種の体制にそくした発想をするものであり、したがって価値選択もまた、それぞれの体制のなかで各種になされてゆくのでしょう。

 このように、一概に価値選択とはいっても、そこに選択される価値はけっして単一なものでもなければ、単一種類(たとえば経済的なものだけ、あるいは政治的なものだけ)のものではありえません。いわば多様的なのです。

 こうして、われわれのいうところの価値は第二次的価値、すなわち媒介価値でありました。少なくともミルにおいても、究極価値は「最大幸福」におかれていたとみてよいでしょう。しかしミルは、この究極価値をもって社会や個人の行為の現実的な価値基準から解放して、いわば媒介価値をもって人間の現実的行為の基準とみなしたのです。ここに実は、ミルの価値選択の特徴があるということを強調しておきましょう。したがって、われわれが論究するところの価値は、まさにこの媒介価値をさしているのであります。

 このように価値の概念規定をするとき、われわれは、ミルが価値を次のような意味あいをもって定義していたように考えます。すなわち、価値は対象にたいする主体の選択行為の基準であると。もっとも、ミル自身、これを明示的に定義しているわけではさらさらありません。しかし、彼の社会体制にかんしての考察には、つねに他の体制との比較において、その体制についての判断批判がなされており、しかも比較にはつねにある種の価値基準にもとづいてなされているところからしても、この定義づけは可能であろうと考えられます。ところで、このように価値づいてなされるなされているところからしても、この定義づけは可能であろうと考えられます。ところで、このように価値の概念規定をするとき、問題とされざるをえないのは、一つは価値選択の主体であり、二つは選択された価値自体の妥当性であり、三つは選択された諸価値の両立可能性といった事柄であります。

 この続きは土曜日に。


参考文献

 『ミル自伝 大人の本棚』
   ジョン・スチュアート・ミル(著) 村井章子(訳) みすず書房
 『新装版 人と思想 18 J・S・ミル』 著者・編者 菊川忠夫 清水書院
 『J・S・ミル 自由を探究した思想家』 関口正司(著) 中央公論社
 『世界の名著38 ベンサム/ミル』 早坂忠(訳)  中央公論社
 『J・S・ミル 自由を探究した思想家』 関口正司(著) 中公新書

https://www.youtube.com/watch?v=eiKBDCP6ojk
   【10分で解説】『功利主義』まとめ(ベンサム、JSミル)



※ 参照として前回分

 われわれはすでに、前章「ミルの社会科学の方法」の(三)「ミル方法論の展開」のなかで、ミルにおける価値定立が多次元的であることを多少とも指摘しました。このミルの価値観は、ベンサム批判のなかで展開されたものであります。ベンサムは「最大幸福」を人類の究極価値=目的として、それをただちに現実的実践的な価値基準とみなしました。彼が幸福の構成因として快楽と苦痛を選びだし、それをめぐっての数量的把握を試みようとしたのが、その証左なのであります。しかし、ミルは、このベンサムの方法について、究極価値はaxiomata)直接証明は不可能であるとして、媒介価値すなわち第二次的価値の定立を提唱したのでした。これについては、さきの(三)節のなかで、「ベンサム」(Bentham,1837)の一部を引用したのでここでは繰り返しませんが、究極価値の実現を達成するに役立つ歴史的現実的目的=価値の定立ができれば、その価値の実現が人間行為の直接の目標になるものといえます。つまり、この究極価値を第一次価値とすれば、それの実現に役立つものとしての価値は第二(三……)次価値、いわゆる媒介価値(media axiomata)ということになるのでしょう。

 したがって、ミルにおいては、価値は多次元的なものであり、その場合の低次の価値はより高次の価値にたいして補助的(subordinate)な関係をもつことになり、またより低次の価値ほど具体的個別的なものとして位置づけられるといえるでしょう。こうして、社会ないし個人の行為の価値基準として定立されるところのものは、まさにこの媒介価値にほかならないということになるのです。

 つまり社会的価値は、究極的なものをめぐって、それより低次の諸価値が階層的に序列化されており、さうした諸価値の選択は究極価値にてらして行われる、というのがグンナー・ミュルダールやミルの見解であるといってよいでしょう。してみると、われわれのミルの価値選択にたいする考察は、究極価値としてなにが定立され、それとのかかわりにおいて媒介価値としていかなる価値が選択されたかに向けられることになります。
 しかし、その前に、われわれは、もう一つの問題、つまり選択されるべき価値(媒介価値)が多様的であることにふれておかなければなりません。この価値の多様性については、それが人間存在の多面性によるものであること、そして社会はいくつかの体制の複合体制であること、によるところから説明されることでしょう。いわば相対的孤立系の総体化が社会体制にほかならないのです。
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