mixiユーザー(id:250900)

2024年04月17日02:38

38 view

宇和島紀行25 日振島

 3月22日金曜日は、盛運汽船の高速船〔しおかぜ〕で日振島(ヒブリジマ)を訪れました。
フォト

 日振島は面積4.01㎢・海岸線延長27.5km・最高標高197.7mの島で、承平6(936)年頃から藤原純友が海賊活動の拠点とした事で知られます。純友は島の中央部の城が森を本拠とし、天慶2(939)年に公然と朝廷に叛旗を翻しますが、天慶4(941)年に誅されました。
 また、天正14(1586)年12月に九州豊後国で行われた戸次(ヘツギ)川の戦いで敗退した土佐国主長宗我部元親(チョウソカベモトチカ)一行が潜伏した事があります。
 江戸時代には宇和島藩領となりましたが、庄屋は清家氏が代々務めていましたが、鰯(イワシ)の曳網漁で隆盛を誇り、「島大名」とも呼ばれました。
 江戸時代末期から明治時代にかけて、水ノ子島の領有をめぐり宇和島藩と豊後国佐伯藩とで紛争がありました。
 明治22(1889)年の市町村制導入の結果、愛媛県北宇和郡日振島村となる
昭和初期 - 困窮を極める
 昭和20年代は島に凶事が続きます。昭和24(1949)年にはデラ台風により鰯漁船団7統が遭難して漁民100名余が命を落とし、同じ年には鼠が農産物や水産加工品を喰い荒らすねずみ騒動が始まり、昭和26(1951)年には村役場のある明海(アコ)集落が大火に見舞われて村役場が焼けてしまい、村民の戸籍が全て焼失、旧庄屋屋敷も焼け落ちました。
 昭和33(1958)年に周辺4村との合併によって宇和海村(ウワウミムラ)となりますが、ねずみ騒動は昭和36(1961)年まで続き、鰯の曳網漁もこの頃から行われなくなります。
 昭和39(1964)年に電気の海底ケーブルによって本格送電が開始され、昭和49(1974)年に宇和島市へ編入されました。
 昭和53(1978)年に日産200tの海水淡水化装置が完成して、井戸水を利用した水道頼りだった状況が改善され、南予レクリエーション都市開発構想の一環でキャンプ場の整備等の公園化が進められます。平成2(1990)年には山財ダムからの海底送水による水道網も整備されましたが、バブル崩壊で観光開発は中止されてしまいました。
過去にてきたが、現在では同計画は中止されている。
 平成27(2015)年当時の人口は140世帯289人です。西から能登・明海(アコ)・喜路(キロ)の3集落があります。
 私は明海地区を中心としたエリアを回りました。
https://www.google.com/maps/place/%E6%97%A5%E6%8C%AF%E5%B3%B6%E5%AE%9A%E6%9C%9F%E8%88%B9%E5%BE%85%E5%90%88%E6%89%80/@33.170544,132.2912597,18z/data=!4m14!1m7!3m6!1s0x3545e893aad05591:0xc52c314c47f0a0dd!2z5pel5oyv5bO2!8m2!3d33.1725092!4d132.2818464!16s%2Fg%2F1235qlsg!3m5!1s0x3545e9c86ecdd21f:0xdc69df070824303!8m2!3d33.1714838!4d132.2925494!16s%2Fg%2F11jskbm9pm?entry=ttu
 明海地区に以下の様な「藤原純友蟠踞(バンキョ)の碑」がある筈だったんですが、見当たりません。
フォト

 地元の人に聞くと、標高80mの山の上にあり、相当な悪路だとの事なので行くのを断念しました。
フォト

 県道290号線を南下してみました。
フォト

 沖合には真珠貝養殖の筏(イカダ)が連なっています。
フォト

 島が一番細く括(クビ)れている地点です。
 https://www.google.com/maps/@33.163247,132.2893795,18z?entry=ttu
フォト

 本来、満潮時にはここで島が分断されていたんですが、今は県道290線の盛り土によって繋がれています。
フォト

 県道沿いには西洋芥子菜(セイヨウカラシナ)が沢山生えていました。
フォト

 山桜です。
フォト

 丁度、満開でした。
フォト

 浜木綿(ハマユウ;Crinum asiaticum)です。花は夏しか咲きません。
フォト

 県道290線で明海集落へ戻ります。
フォト

 黄華鬘(キケマン;Corydalis heterocarpa var. japonica)が咲いていました。
フォト

 被子植物門双子葉植物綱キンポウゲ目ケシ科の越年草です。
フォト

 明海地区には菅原道真・素盞鳴命(スサノオノミコト)・大山積大神(オオヤマツミノオオカミ)を祭る日振島神社〔村社〕があります。
https://www.google.com/maps/place/%E6%97%A5%E6%8C%AF%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@33.1726813,132.2937729,18z/data=!4m6!3m5!1s0x3545e8e9e832e7f7:0x38796935d93c1d9!8m2!3d33.1717856!4d132.2945582!16s%2Fg%2F11cmzfmwcb?entry=ttu
フォト

 本来は喜路地区に八坂神社、明海地区に天満神社、能登地区に三嶋神社があったんですが、明治時代に三社が統合され、中央の天満神社が日振島神社として残る事になったのです。
フォト

 社殿は昭和26(1951)年の火災で焼失してしまったため、鉄筋コンクリートで再建されています。
フォト

 明海地区から短いトンネルを抜けて北へ行くと、南予レクリエーション都市公園の跡地があります。景色の良い所なので、ここで宇和島駅のコンビニで買って来たパンを食べてランチにしました。
https://www.google.com/maps/place/%E6%97%A5%E5%B4%8E%E6%B5%B7%E6%B0%B4%E6%B5%B4%E5%A0%B4/@33.1734177,132.2936281,18z/data=!4m6!3m5!1s0x3545e8e8455b7f5d:0x8f05fc7d7527fa21!8m2!3d33.1739851!4d132.2936035!16s%2Fg%2F119vhd9rt?entry=ttu
フォト

 最後に明海地区の小高い場所にある浄土宗龍光山海圓寺へ行ってみました。
https://www.google.com/maps/place/%E6%B5%B7%E5%86%86%E5%AF%BA/@33.1720886,132.2916754,18z/data=!4m6!3m5!1s0x3545e8e95f94c32d:0xf5651d32f5a44769!8m2!3d33.171962!4d132.291616!16s%2Fg%2F1w0s9p64?entry=ttu
フォト

 嘉元8(1204)年の創建です。
フォト

 小高い場所なので、津波の際の避難所にもなっています。
フォト

 日振島明海港からの帰りの便は、1536時発の普通船〔しらさぎ〕と1621時発の高速船〔しおかぜ〕があるんですが、〔しらさぎ〕は12ノットしか出ないので、後発の〔しらさぎ〕の方が先に宇和島に就くため、1621時まで島で時間を潰すつもりでした。ところが、この日は〔しらさぎ〕が修理のためドッグ入りしており、代替船として高速船〔ゆきかぜ〕が明海1428時発で運航される事になっていたため、これに乗る事にしました。普通船の代替便なので、運賃も普通船と同じ1420円とされており、高速船運賃より800円以上安かったのでラッキーでした。
フォト

 〔ゆきかぜ〕が近づいて来ました。
フォト

 令和4(2022)年に進水したばかりの単胴型高速艇で、全長22.93m・幅5.00m・深さ2.10m・重量55t・航海速力26ノット・旅客定員64名で、主機関はMTU16V2000M61です。
フォト

 〔ゆきかぜ〕は能登港に寄った後、1525時に宇和島港に到着しました。
フォト

《続く》
10 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2024年04月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930