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2024年03月24日01:38

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宇和島紀行4 宇和島の歴史《近世近代編》

 慶長13(1608)年、藤堂高虎は伊勢安濃津等220000石に加増転封され、入れ替わりに伊勢安濃津50000石だった富田信高が宇和郡101900石を拝領して丸串城主となって、海運工事や掘削事業などを手掛けて城下町整備に努めました。
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 ところが、慶長18(1613)年に至って信高は、8年前に石見国津和野藩主坂崎直盛家臣でゲイ同士の三角関係の縺(モツ)れから殺人を犯していた人物を匿った罪を問われて改易されてしまいました。改易の本当の理由は大久保長安派粛清事件に連座したからだとの説もあります。
 この結果、幕府直轄領となった宇和郡代官・丸串城代として藤堂良勝が再び丸串城に入り、慶長19(1614)年に至って陸奥国仙台620000石伊達政宗の庶長子伊達秀宗が102000石で丸串城へ入封、元和3(1617)年頃に城名が宇和島城に改められて宇和島藩が成立したのです。宇和島城下町には、足軽を含めて1200家の伊達家家臣団が住み、町屋は約500軒でした。
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 なお、政宗は秀宗に対して藩主としての心得を記した『貞山公御教諭』を与えています。貞山(ヂョウザン)とは政宗の号です。
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 宇和島藩政は桜田元親と山家公頼(ヤンベキンヨリ)の二人が中心となって行われましたが、年貢軽減を主張する山家が軍費削減を強行したため、武功派の桜田が猛反発、悉く意見が対立して藩政は麻痺してしまいます。そして、元和6(1620)年に至って桜田の讒言で山家は謹慎を命じられ、秀宗の命令を受けた桜田一派によって山家は三人の息子達と共に殺害されてしまったのです。事件を知った伊達政宗は激怒して秀宗を勘当し、更に幕府に対して「秀宗は大虚(オオウツ)けで到底10万石を治める器に非ず。領地を召し上げて欲しい」と願い出るに至りましたが、秀宗正室の兄である井伊直孝と土井利勝による調停で御咎め無しとなりました。
 しかし、その直後から宇和島では大地震・台風・飢饉等の凶事が相次ぎます。桜田元親は寛永9(1632)年に金剛山正眼院で営まれた秀宗正室三回忌法要の際、強風で落ちて来たきた本堂の梁の下敷きとなり圧死、伊達秀宗も寛永14(1637)年に中風に倒れて寝たきりになり、長男宗実も病弱だったため、次男で継嗣の宗時が執政する事となりました。
 宗時は寺社造営・植樹・領内検地を実施し、この検地を基にして定免(ヂョウメン)法を採用、家臣の知行を従来の給地制から米現物支給の蔵米制へ変更するなど藩政確立に尽力しましが、寛永21(1644)年に宗実が死去したのに続き、承応2(1653)年5月には宗時も早世してしまい、弟の宗利が継嗣となりました。
 一連の凶事は全て山家公頼の祟りと考えられ、恐れ戦(オノノ)いた秀宗は同年6月、山頼和霊神社を創建して山家の霊を祀り、宇和島では山家公頼は「和霊様」と呼ばれて、やがて和霊信仰は西日本全体に広がって行く事となるのです。
 一方、秀宗の五男で宗時・宗利の異母弟にあたる宗純が秀宗による30000石の分知状を持ち出したものの偽造の疑いが濃厚だとして、宇和島藩では再び御家騒動が起こります。この騒動は幕府大老井伊直孝や仙台藩の実力者伊達兵部宗勝も巻き込んだ騒ぎとなり、結局、直孝の説得によって宗利は宗純に伊予吉田30000石を分知する約束をせざるを得なくなりました。
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 明暦3(1657)年7月に秀宗が隠居すると宗利が第2代藩主となり、同年8月には宗純が正式に伊予吉田30000石の初代藩主となりました。吉田藩領の主要部分は肥沃な穀倉地帯の上、飛び地を有していたために宇和島藩との境界線が複雑になり、領地の帰属を巡っての争いが絶えませんでした。また、宗利は吉田藩創設にあたり、高禄の家臣を宗純に押し付けるという報復に出たため、両藩の反目は長く続く事になります。
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 寛文2(1662)年、宗利は宇和島城の大規模改修に着手し、寛文6(1666)年頃に天守閣工事が完了しました。これが現存の物で、幕府への届出は修理とされていましたが、土台は岩盤から石垣へ、構造は望楼型から層塔型へ、外観は下見板張から白漆喰総塗込へと全く異なる新天守閣でした。
 また、寛文7(1667)年当時の史料によると、宇和島城下町は家数495軒・船数82とされています。なお、その後、宇和島湾の干拓による新田開発が進み、江戸時代後半になると、城の南方は水田地帯となり、宇和島城のうち海に面しているのは西方の一部のみとなって行きました。
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 元禄6(1693)年に宗利は婿養子の宗贇(ムネヨシ)に家督を譲って隠居しています。宗贇は仙台藩第3代藩主伊達綱宗の三男です。元禄9(1696)年、宗贇は吉田藩分知で70000石になっていた宇和島藩領を100000石に戻すため、収穫の無い荒田まで加えてた強引な高直しを行い、再度100000石となりましたが、幕府の普請役では100000石格を負担しなければならなくなり、湯島聖堂の造営等によって藩財政は逼迫してしまいます。
 正徳元(1711)年に宗贇は死去し、三男の村年が第4代藩主となりますが、旱魃・飢饉・風水害が続き、藩札発行・被災者救済・植林・植樹・難民の緊急雇用対策のための土木事業・倹約令発布・人材登用等の様々な藩政改革が試みられましたが、村年は享保20(1735)年に31歳で急死してしまいました。
 そこで長男の村候(ムラトキ)が第5代藩主となり、寛保3(1743)年に倹約令を発して藩政改革に乗り出しました。学問・武芸を奨励し、寛延元(1748)年には藩士と庶民共学の藩校・内徳館(後の明倫館)を開いています。また、木蝋(モクロウ)を藩の重要産品とし、紙の専売制導入・農政改革・博打や好色の禁止・役職勤務の見直し・風俗矯正・奢侈の禁止・租税改革等の大規模な改革が行われ、村候は宇和島藩中興の祖と呼ばれる事になりましたが、天明2(1782)年から六年間続いた天明の大飢饉の結果、農民一揆や村方騒動が相次ぎ、その最中の寛政6(1794)年に村候は死去、その四男村寿(ムラナガ)が第6代藩主となりました。
 村寿は、有能な藩士の登用・倹約令・歳出抑制・商品作物栽培や養蚕による歳入拡大・被災民救済等を中心とした藩政改革を行いましたが、この時代にも風水害が8回、旱魃が1回と天災が相次ぎ、文化9(1812)年には財政再建をめぐる重臣の意見の対立から萩森騒動と呼ばれる刃傷事件が発生しています。更に文化5(1808)年に伊能忠敬が宇和島に入って測量を行っていますが、この伊能一行の接待は幕命によりかなり大仰に行われ、宇和島藩にかなりの負担をかけ、藩も領民も不時の出費に大いに苦しむ事となりました。
 村寿は文化14(1817)年から病気により長男の宗紀(ムネタダ)に藩政を代行させ、文政7(1824)年に隠居、宗紀が第7代藩主には就任しました。宗紀も五か年に亙る倹約・奢侈の禁止・文学奨励・産業の振興と統制・人材の育成等を中心とした藩政改革を推進しています。宗紀は長男と次男を早くに失い継嗣が無かったため、文政12(1830)年に第5代藩主伊達村候の次男直清の子である旗本山口直勝の子宗城(ムネノリ)が養子に迎えられました。ところが、翌年、宗紀に三男宗徳(ムネノリ;ムネエ)が生まれたため、宗城は宗徳を養嗣子としています。
 天保15(1844)年、宗紀は家督を宗城に譲って隠居しますが、その後も長命を保ち、明治22(1889)年に98歳で死去しています。
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 宗城は殖産興業政策を引き継ぎ、西欧化による富国強兵策を採用、長州の村田蔵六(大村益次郎)や幕府から指名手配されていた高野長英等の蘭学者を招いて重用しています。また、幕政にも関与し、福井藩主松平春嶽・土佐藩主山内容堂・薩摩藩主島津斉彬と並び幕末の四賢侯と称され、将軍継嗣問題では他の三人と共に一橋派として動きました。この結果、安政5(1858)年に大老井伊直弼による安政の大獄で隠居謹慎を命じられてしまい、宗徳が第9代藩主に就任しましたが、その後も藩政の実権は宗城が掌握していました。なお、宗紀・宗城・宗徳3代の藩主妻子に家臣と奥女中が付いたため、藩財政は一層逼迫する事になります。
 安政7(1860)年3月の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると伊達宗城は表舞台に復帰し、人皇第121代孝明天皇に拝謁して国事に奔走しました。文久3(1863)年末から翌年春にかけては、京都で将軍後見職一橋慶喜・薩摩藩主父島津久光・前土佐藩主山内容堂・前越前藩主松平春嶽・会津藩主松平容保(マツダイラカタモリ)と共に参加し、国政の一翼を担っています。
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 慶応2(1866)年に英国公使ハリー=パークスがプリンセスロイヤル号で宇和島を訪れた際、宗城はお忍びで同艦を訪問、パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国旗を交換、さらに同年後日、英国通訳官アーネスト=サトウの宇和島訪問の際には、日本の将来について、天皇を中心とした連邦国家にすべしという意見交換をするなど、外国人とも積極的に交流しています。
 宗城は慶応3(1867)年5月に京都で開かれた四侯会議に島津久光・山内容堂・松平春嶽と共に参加し、同年12月に王政復古の大号令で新政府が樹立されると、議定(ギヂョウ)兼参謀に任命されました。しかし、慶応4(1868)年1月の鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜が朝敵と決め付けられると薩長の陰謀であるとして山内容堂と共に議定を辞任、宇和島藩は戊辰戦争に参加しませんでした。これは藩財政が枯渇し、町人や農民から献金を募らねばならない程であり、また支藩の吉田藩主伊達宗孝(宗城の実弟)が佐幕派として行動したため宗城はその説得に当たらざるを得なくなっていたためでした。仙台藩藩主伊達慶邦が奥羽越列藩同盟の盟主となったために逆賊になると、慶邦の養子は宗城の次男宗敦だったため、宗城は仙台藩存続に奔走し、使者を送って降伏を勧めたりしています。
 宗城は海外事情に通じていた事から新政府の外国掛・外国事務総督・外国官知事となり、版籍奉還が行われた明治2(1869)年には民部卿兼大蔵卿となって鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けています。
 明治3(1871)年には宇和島で30000人もが参加した野村騒動と呼ばれる大規模な農民一揆が起こりましたが、知藩事伊達宗徳は武力撃滅に成功しています。
 明治4(1871)年4月、宗城は欽差全権大使として大清帝国の天津に渡り、直隷総督李鴻章との間で日清修好条規の締結交渉に当たり、7月29日に対等な立場での条規締結に成功しています。
 しかし、その直前の7月14日に廃藩置県が断行され、宇和島藩は宇和島県となったのでした。この様に伊達宗城自身は明治政府で要職を歴任していますが、戊辰戦争に参加しなかった事が祟って、宇和島藩士には政府での活躍の場は多くは与えられませんでした。
 宇和島県は明治5(1872)年に神山(カミヤマ)県と改称され、明治6(1873)年に石鉄(イシヅチ)県と合併して愛媛県となりました。明治11(1878)年に愛媛県宇和郡が南北に分割されたため、旧宇和島城下町は北宇和郡に所属する事になり、明治22(1889)年の市町村制施行に伴って北宇和郡宇和島町となりました。
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 なお、最後の宇和島藩主伊達宗徳は明治17(1884)年に伯爵に叙されていましたが、明治24(1891)年に存命中だった養父宗城の勲功により侯爵に陞爵(ショウシャク)しています。
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 宇和島町は、大正6(1917)年に丸穂村を併合、大正10(1921)年に八幡村も併合して市制施行の運びとなり、この頃から木綿工業を中心とする工業化が進展しますが、鉄道が未発達だったため、海運が輸送の主力となっていました。
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 宇和島市は大東亜戦争末期の昭和20(1945)年5月10日から8月8日までの間に、愛媛県下では最多の9回の空襲を受けて家屋の6割が焼失、270人の死者を出しています。これは地理的に米機動部隊が接近しやすい場所にあったのが大きな原因だと思われます。なお、国鉄予讃本線が宇和島まで全通したのは同年6月20日の事です。
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 戦後、宇和島市は周辺町村の併合を進めて市域を拡大し、観光地としても注目を集める様になります。
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 そして、平成17(2005)年には北宇和郡吉田町・三間町・津島町と対等合併してニュー宇和島市が誕生、市章も改められました。
 現在の宇和島市の面積は468.19㎢、総人口は65872人です。
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《続く》
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