mixiユーザー(id:21587781)

2023年11月26日07:37

88 view

バターン死の後進の真実

アメリカとスペインが衝突して、のちに太平洋戦争に繋がる伏線となり、日本にとっては重みのある戦争でした。アメリカはスペインの太平洋・大西洋艦隊を撃破して勝利しアメリカはスペイン領だったフィリピンを獲得し、海軍の拠点を置いたことにより、南太平洋の覇権を狙う日本との対立拠点となってしまうのです。

その、フィリピンのミンダナオ島の山岳地帯で60年間も生活していた旧陸軍中隊長、山川吉雄中尉87歳と中内続喜上等兵83歳とみられる2人が現地で保護されたと過去に報道されたことを覚えているでしょうか。

お二人とも高年齢のため早く帰国させてあげたいのですが、戦線から離脱したことで日本にて軍法会議にかけられ銃殺されるのではと60年の時が経過しても強く恐れていると言います。さらに同じ島の山岳地帯に40人以上の旧日本兵が生活していたといいます。

お二人が所属していた第三十師団は、昭和18年6月、平壌で編成された陸軍の精鋭部隊で対ソ連戦の訓練を受けていました。昭和19年4月、ミンダナオ島防衛のため出陣。第三十師団同16の部隊で構成され、戦死者は1万2000人だといいます。

第三十師団は昭和同19年7月に上陸して、9月にアメリカ海軍による空襲を受け、昭和20年4月、自給自戦を命じられ別々となり、北部のワロエというところに再度集合することになっていました。小人数で山岳部を異動中に終戦を迎えたため引き揚げの時に合流できずに、残されてしまったそうです。

以後、山川中尉らはミンダナオ島南部のブルアム湖近辺を拠点に生活していました。お二人は現在、南部サウスコタバト州ゼネラルサントス市郊外のイスラム教国の支配地域に保護されています。フィリピンでは、北部のルバング島で昭和49年、ジャングルに潜伏していた小野田寛郎陸軍少尉が救出されて以来30年ぶりの奇跡の生還となります。

また、その2年前の昭和47年にはグアム島で、日本兵の横井庄一氏が見つかりました。彼らは戦争の終結がわからず、上官が任務終了を伝えて軍刀を返却したのをみて何とも表現できない不思議な気持ちで胸を打たれてしまいました。

フィリピンといえば、ルソン島での「バターン死の後進」は歴史の教科書に登場する有名な出来事ですが、真実は違います。アメリカ・フィリピン軍が降伏したとき、日本軍は降参した捕虜7万余人を、炎天下の中、十分な水も食糧も与えずに、収容所まで徒歩で移動させ多くの死者がでた。

アメリカはこれを国際法違反の残虐な「死の後進」と非難して、日本兵を死刑にしたのです。この移送で多くの死者が発生したのは、日本軍が計画的な行為や怠慢によるものだとアメリカは指摘しましたが実はそうではなかったのです。

捕虜をバターン半島にそのまま放置していたら食糧も不足しており、マラリヤが多発していたから、捕虜を移送したのは適切な措置だったのです。マラリヤを治療する薬は少なく、日本兵自体にも多数のマラリヤ患者が発生していたのです。

日本軍は徒歩移動が当たり前ですが、アメリカ・フィリピン軍では車両移動が当たり前だったため、徒歩行進によって受けた苦痛は日本側にはわからないことでした。また、日本軍から支給される味噌汁や牛蒡を木の根っこだと食べない捕虜もおり、栄養失調で倒れる原因となったと言います。最善と信じて行なわれた行為が悲惨な結果をもたらしてしまったのも事実なのです。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

仲條拓躬 - YouTube
@taku-nakajoチャンネル
チャンネル登録お願い致します。

仲條 拓躬 (@takunakajo) | TikTok
フォローお願い致します。

(3) 仲條 拓躬 (タク)(@takuminakajo)さん / X (twitter.com)
フォローお願い致します。

仲條 拓躬(@takuminakajo) • Instagram写真と動画

(20+) 仲條 拓躬 | Facebook
(20+) Facebook

[mixi] 石原莞爾平和思想研究会

Home | taku (taku-nakajo.wixsite.com)

7 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2023年11月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

最近の日記

もっと見る