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2023年11月07日01:22

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米原日帰り紀行3 青岸寺 / 湯谷神社

 9月19日火曜日は米原宿跡から曹洞宗吸湖山青岸寺へ向かいました。
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 青岸寺の前身は、南北朝時代の延文年間(1356〜81)に近江守護佐々木京極道誉(1296〜1373)によって創建された天台宗不動山米泉寺です。道誉の娘婿の近江守護佐々木六角氏頼(1326〜70)が造立した「お腹籠観音」の名で知られる聖観音立像を胎内仏とする秘仏聖観音坐像〔米原市指定文化財〕が本尊で、鎌倉時代作の木造十一面観音菩薩立像〔米原市指定文化財〕も保存されています。
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 その後、戦国時代に焼失しましたが、慶安3(1650)年に彦根藩主井伊直澄の命によって彦根大雲寺の要津守三(ショウシンシュザン)が入山、越前敦賀の伊藤五郎助の寄進によって大雲寺末寺の曹洞宗寺院として再興されました。明暦2(1656)年に伊藤五郎助が卒した事を悼み、彼の諡(オクリナ)である青岸宗天に因んで寺号を青岸寺、山号を吸湖山に改めています。
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 再興時に作られた築山林泉式枯山水庭園〔名勝〕は、延宝5(1677)年に彦根城の玄宮園・楽々園築庭のために庭石が持ち出されましたが、彦根藩士の香取氏によって延宝6(1678)年に再築されました。
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 今回の米原日帰り旅行は、この庭園を見学するのが主目的だったんですが、何と火曜日は定休日でした。
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 お寺の庭園に定休日があるとは想定していなかったので、事前リサーチしておらず、痛恨のミスとなってしまいました。
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 生垣の間から無理やり撮影してみましたが…
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 やっぱりダメですね、ww
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 こちらは本堂です。
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 本堂前では百日紅(サルスベリ)が咲いていました。
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 青岸寺の背後の山は太尾山城跡〔米原市指定史跡〕です。
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 太尾山城は浅井長政の家臣である中嶋宗左衛門が城主を務めた山城で、美濃と近江、江北と江南の境目の城として重視されました。長政が織田信長との同盟を破棄すると、元亀3(1573)年に信長の軍勢によって攻め落されました。南北二城により構成される「別城一郭」の城郭で、南城には堀切や土塁が、北城には土塁の遺構が確認出来るそうです。
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 暑い中ですし、時間も無かったので登りませんでした。
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 次に、大己貴命(オオナムチノミコト;大国主命)・水門神(ミナトノカミ)・保食神(ウケモチノカミ)を祭る湯谷(ユタニ)神社〔村社〕へ赴きました。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B9%AF%E8%B0%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@35.3143261,136.2928837,17z/data=!4m14!1m7!3m6!1s0x60022c9952a653d5:0x3ee8e17df2b91b52!2z57Gz5Y6f6aeF!8m2!3d35.3147704!4d136.2898448!16zL20vMDJnbGx0!3m5!1s0x60022ca2aabc831b:0x2671125d4abb0ea7!8m2!3d35.3128309!4d136.2954431!16s%2Fg%2F120s24xd?entry=ttu
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 湯谷神社の創祀年代は不詳ですが、社伝によると、上古出雲国人が諸国を巡ってこの地に至り、里人に池を掘らせると温泉が湧出、又荒地を開墾して五穀が良く成育したので、出雲の祖神大己貴命を小谷(オダニ)の岩上に奉斎したのが始まりとされています。温泉は万病に効くと伝えられて崇敬者が多く、後に水門神と保食神を合祀したとされます。
 後白河上皇の院政時代(1181〜92)に日吉(ヒエ)大社の社領となったため、山王権現社と呼ばれる事となりました。箕浦庄地頭の今井備中守秀遠が当社を守護神と崇め、その一族米原氏も社殿を修理して社領を献じています。文明3(1471)年に太尾山城で激戦があった際に当社は焼失してしまいましたが、天文13(1544)年に今井氏は米原氏に命じて再興、大山咋命(オオヤマクイノミコト)を勧請(カンジョウ)したため、六所権現とも呼ばれる事となりました。文禄4(1595)年に今井氏家臣だった岩脇(イワギ)氏はが社殿を修復し神門を寄進しています。
 享保17(1732)年に彦根藩主井伊直惟(イイナオノブ)が社殿を再興し、手水鉢(チョウズバチ)・木造狛犬を献じています。享保19(1734)年刊の『近江輿地志略(オウミヨチシリャク)』に「湯谷は昔此の地に温泉あり諸病を治す。或日(アルヒ)葦毛(アシゲ)の子を此の湯坪に洗いしより此の湯かるゝ」とあります。
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 明治維新後、地名に因(カンガ)みて湯谷神社と改称し、境内には明治11(1878)年の北陸巡幸の際に明治天皇が小休止された北村邸の行在所があるため、明治22(1889)年には内大臣三条実美(サンジョウサネトミ)公爵が社号額を寄せています。
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 拝殿です。
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 本殿です。
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 稲荷大神(イナリオオkミ)と稲倉魂神(ウカノミタマノカミ)を祭る境内社の春川稲荷神社です。
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 天保8(1837)年に当地へ遷座しました。
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 湯谷神社には米原曳山祭〔滋賀県指定選択無形民俗文化財〕で用いられる松翁山(ショウオウザン)の山車(ダシ)があります。
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《続く》
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