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2023年08月17日14:24

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一見劇団「森の石松 焔魔堂の最期」または大衆演劇の光と影

1.すばらしき大衆演劇の世界
 
8月13日、雨が降ったり止んだりして異常に蒸し暑い中、立川けやき座に一見劇団の公演を見に行った。一見劇団を見るのも、大衆演劇を見るのも、けやき座に行くのも、2016年の7月9日以来、7年と1か月ぶりだ。
そもそもなぜ大衆演劇を見に行かなくなったのか、明確には覚えていない。それは結局「自分の演劇」にはなりえなかったということ。少なくとも当時の私にとって、どうしても必要な演劇ではなかったということだろう。

ではなぜ今回思い出したように見に行ったのか。1つには、間も無く歌舞伎町劇場がオープンし、こけら落としのたつみ演劇BOXを、ご祝儀がてら1日分予約。「たまには大衆演劇もいいな」と思っていたら、立川でなじみの一見劇団がやることを知って、久しぶりに見てみようかと思った次第。
それが即物的な(?)理由だが、もっと心情的な理由もある。コロナ禍でそれまでの観劇生活が一度リセットされて以来、憑き物が落ちたように、演劇との心理的距離が開き、なかなか戻らない。もちろん中には良い芝居もあるが、その数は決して多くはなく、演劇に感動することがガクンと減っている。
特にそれまでは観劇の中心に位置していた「青年団系/こまばアゴラ系」の芝居に心を動かされることがほとんどなくなってしまった。そんな状況の中、久しぶりに大衆演劇というものを思い出して、「ひょっとすると今の自分に必要なのはこっちなんじゃないか?」と直感したのだ。
 
 
7年ぶりの一見劇団。演目は「森の石松 焔魔堂の最期」。これは見に行く前日に、9年前に見た演目だと気がついた。ただかなり面白かったという記憶があるので、まあいいやということで見に行ったのだが、やはり面白かった。
 
見始めた当初は戸惑った。ピンマイクとPAを使っているのだが、その音がヒドい。台詞が満足に聞き取れない。もう何日も上演を続けているので、今回たまたまではなく、いつもこんな音なのだろう。その粗雑さに辟易するが、まあ一見劇団は昔からそんなアバウトな感じだよなとも思う。 
その内に耳が慣れてきて、台詞の聞き取りもさほど問題なくなる。物語は分かりやすいものだし、9年前に一度見ているわけだから、特に困るというほどではない。まさに「いんだよ細けえ事は!」の精神で、次第に芝居に引き込まれていく。
 
9年前は、一見好太郎演じる石松が殺されるクライマックスで舞台上がおびただしい血糊に埋め尽くされるというスペクタクルがあった。そのため通常とは違い、先に舞踊ショーがあって、その後に芝居があった。あれでは舞台上を掃除するのに時間がかかるから当然だろう。
ところがこの日は最初に芝居から始まったので「あれ?」と思ったら、案の定 大量の血糊を使う演出は無し。「寿司食いねえ」のシーンもカットされていて、ちょいとあっさりバージョン。
では物足りなかったかというとそんなことはなく、血糊を使わずとも演技だけで場を盛り上げてしまう一見好太郎の役者としての華に感服した。さらに素晴らしかったのは、ゲストの三河家諒。七五郎の女房お民を演じていたのだが、家捜しに来た都鳥三兄弟に対して啖呵を切るシーンが圧倒的なカッコ良さ。
前回誰がどう演じていたのか記憶に無いので、いずれにせよここまで圧倒的なものではなかったのだと思う。流れるような男前の啖呵と、その後の恐怖に震える本音、そして古都乃竜也演じる夫 七五郎との掛け合いなど、何から何までお見事だった。
 
他にも個人的な見どころが2つ。1つは、昔見ていたときはまだ十代半ばだった紅ア太郎が、背は小柄ながら立派な若者に成長していたこと。途中の美苑隆太との掛け合いでは、ア太郎の軽妙なアドリブに隆太が対応しきれずタジタジとなる場面も。昔からは信じられない光景。ア太郎、本当に立派になったなあ…

もう一つは金ちゃんこと紅金之介の変わらなさ(笑)。こちらは7年経っても、相変わらずまったく芝居ができない。台詞はほとんど「へえ」しか無い。その愚鈍な感じそのものをネタにしている。清々しいほどの木偶の坊。ほとんど学芸会レベルの芝居だ。
正直なところ、彼は軽度の発達障害(さらにはっきり言えば軽度の知的障害)なのだろうと前から思っていた。これだけの年月が経っても芝居が上達せず、まともに台詞も話せないところを見ると、やはりそうではないかと思えてくる。どんなにヘタな役者でも、これだけ場数を踏んでいたら少しは上手くなるものだろう。
しかし金ちゃんには天性の愛らしさと独特の存在感、そしてあの斜視から漂う異形の色気がある。他の誰に代わりがいても、金ちゃんの代わりはいない。唯一無二の存在感。そして何よりも金ちゃんは、芝居は下手だが舞踊が素晴らしい!
正直、金ちゃんがごく一般的な社会、会社組織のようなところに入っても、そこで輝いている姿が想像できない。芝居の中ですらネタとしていじられる役。そんな金ちゃんが舞踊ショーになると突然誰とも違う、彼だけの輝きを見せてくれる…その姿がとても感動的なのだ。

この日は、そんな金ちゃんにますます好感を持ってしまう場面があった。本日の舞踊ショー、金ちゃんの踊りは扇子を駆使したもので、難易度が高いため本当に真剣に扇子と向き合っていた。そのため花道まで来ても、ひたすら踊ることにしか神経が向いていない。
そのためお花をつけようとした人がなかなかタイミングを見出せず、かなり困っていたのがおかしかった。結局踊り終わったときにつけていたが、ほとんどの場合、踊りの途中で付けるものなので、これはむしろ例外。他の役者は、どんな踊りを踊っていても、皆 見事なほどお花を付けようとする見逃すことはない。ところが金ちゃんだけはお花などそっちのけで、踊ることに全神経を傾けていた。
それは見方を変えれば「単にとろいだけ」とも「大衆芸能の役者として未熟」とも言えるだろう。しかし私は、実利などほったらかして、ただ踊りだけに専心する金ちゃんの姿にあらためて惚れた。私に金さえあれば、他の誰をさしおいても、金ちゃんにいっぱいお花を付けてあげたい。
 
そんなわけで、他のメンバーも魅力的だが、やはり私にとっての一見劇団は、演技がうまく美形の座長 一見好太郎と金ちゃんの2人が二枚看板の劇団なのだと痛感した。
そう言えば、しばらく見ぬ間に一見劇団は、花形だった古都乃竜也が一見好太郎と並ぶW座長に昇格し、美苑隆太が「若手リーダー」、そして金ちゃんとア太郎と一見大弥の3人が「花形」になっている。そうか、金ちゃん今では花形なのか。何だか涙が出そう。
 
芝居の後は口上で、グッズなどを販売。しばらく休憩を挟んだ後、舞踊ショー。昔は音楽の切り替えがメチャクチャ粗雑だったりしたが、その辺はだいぶ洗練された感じ。とは言え、舞踊そのものは相変わらずケバケバしい、和とも洋ともつかぬキッチュな踊り。
そもそも使われている歌が、演歌とも歌謡曲ともポップスともつかぬものばかり。これは誰が歌っていて、大衆演劇以外ではどこで流通し、どのような客層によって消費されているものなのか、毎度不思議になる代物。普段自分が聞いている音楽との違いに目眩を覚えるほどだ。
また踊りの多くが歌詞をそのまま表現するもので、たとえば「別れの悲しみに」と歌われたら、目頭を押さえる仕草をするといった具合。ところが同じようなことをやっても「原始的だなあ」と思うものもいれば、そんな批評性など吹き飛ばされて踊り手の持つ華やかさに見入ってしまうものもいる。本当に面白いものだ。
 
何にせよキッチュなものにはキッチュな魅力がある。初めて見た時には「何だこれは」と引いた記憶があるが、今ではこのケバケバしさをそのまま楽しむことができる。芝居で満腹、舞踊ショーでさらに満腹。これで木戸銭がたったの2000円(今回は予約したので+300円)だから、舞台として見れば破格もいいところだ。
 
やはり私の直感は当たっていて、近年 他の舞台を見ても味わえなかった満足感を覚えた。やはり舞台は「芸術」と「芸能」のどちらかに偏りすぎると、見ていて疲れてくる。映画で言えば、アートフィルムとハリウッドエンタテインメントのどちらかに偏りすぎるようなものだ。「芸術」と「芸能」、この2つを適度に循環するサイクルこそが大切。それによってどちらの価値もより明確になってくる。そんな当たり前なことを痛感する一夜だった。
 
これでまた舞台を楽しめるようになるかもしれない。ありがとう一見劇団。ありがとう金ちゃん。
 
 
…と、これで終われば「大衆演劇最高!」でメデタシメデタシなのだが、久しぶりに見て、実は大衆演劇の世界ならではの問題、ある種の居心地悪さを覚えたのも確か。正直、これを書くのは気が重いのだが…
 
 
 
2.大衆演劇の観客としての居心地の悪さ
 
かくも素晴らしき大衆演劇。芸術だけ見ていると疲れるように、芸能だけ見ていても絶対に精神の栄養が偏る。しかし両者のバランスをうまく取る生活をしていれば、これほど楽しく安上がりな娯楽も珍しい。だがそこには、ある種の居心地悪さも存在する。それについて書いてみる。
 
今回は、天気が悪く、日曜の夜の回というせいもあってか、観客は40人かそこらしかいなかった。単純に考えて木戸銭が2000円だから売上げは8万円だ。仮に、映画と同じように小屋と劇団で折半ならば、劇団の売上げはワンステージ4万円。チラシに載っている役者の数は14人だから、あれだけの舞台を見せても1人のギャラは3000円に満たない。これで生活できるはずがない。
 
しかし違うのだ。全然違う。大衆演劇には「お花」というシステムがあり、観客が贔屓の役者にバンバンお花をつけるのである。え? お花って何か? だから露骨に書くと差し障りがあるから聞くな。そのために載せられない写真もたくさんあるんだ。ググれば出てくるだろう。
 
お花も封に入れればいいものを、今回は何故かそのままつける人が多め。それを見ていれば一目瞭然。2000円の木戸銭など単なる入場料。飲み屋で言えばお通し代。大衆演劇の経済システムはお花によって成立しているのである。

ではなぜ言葉を濁すかと言えば…その経済システムはどう考えてもグレーゾーン…と言うより、お上からすれば完全なブラックであろう。だってこれでは収入の大半が税金以下自粛。
ブラックなのは経済だけではない。前の方でア太郎君の年齢について書いたが、それはつまり何を意味するかと言えば…後は察してくれ。
 
早い話が、大衆演劇は極めて前近代的と言うか、いわゆる堅気の生活とはかけ離れたところで成立している世界なのだ。それはそれである種のロマンを感じるが、自分の意思でその世界に入った大人ならともかく、外の世界へ自由に出られない身として生まれ育った子どもはどうなのだろう?という疑問は残る。
その辺を理解していれば、おそらく平均よりはずっと非堅気な位置にいる自分でさえ、一般市民として安全圏にいることが分かる。その安全圏にいる自分が大衆演劇を「安価な娯楽」として消費することに後ろめたさ(申し訳なさ)を感じてしまうのだ。
 
「それを言ったら大道芸も同じようなものだろう」と言われそうだが、大道芸の場合、もっと多くの人が、1人1人は安価な投げ銭をする薄利多売方式だ。面白ければ、私も気前よくとは言わないが、それなりの額を入れる。しかし大衆演劇のお花は、それとはレベルが違う。文字通りの意味で額がまったく違う。
つまり大道芸は、楽しませてもらったら、誰もが無理の無い範囲でその対価を支払うことで、観客と演者の間に健全で対等な関係が成立する。しかし大衆演劇の場合、その経済システムからすると、私のように木戸銭だけの客は、ほとんどタダ見も同然だ。
そのため舞台が面白ければ面白いほど「こんな楽しいものをタダ見せてもらっていいのか」という後ろめたさがどんどん募っていく。演者との間に対等な関係が築けない。これがどうにも居心地が悪い。楽しければ楽しいほど居心地の悪さを感じるというジレンマ。
 
これが篠原演芸場や木馬館のように大きめの場所で満員ならまだいいのだが、けやき座はもっと小さくて、役者もどんどん客席に分け入ってくる。「大衆演劇の小劇場」みたいな雰囲気。今回のように客も少ない状況で、お花もつけない、グッズも買わないオッさんが1人でいると、本当に居心地が悪い。
 
ただ、お花をつけない客は私だけかと言えばまったくそんなことはない。40人程度の客のうち、お花をつけていたお客さんは(同じ人が複数回つけるので)大目に見ても10人を少し超える程度だろう。つまりお花には無縁な観客の方が実際にはずっと多いのである。
 
その人たちがどのように感じているかは知らない。私が自意識過剰なのだけかもしれない。ただ、なまじ小劇場の内側を中途半端に知っていて、演劇で食べることの大変さを理解しているため、それとはまたかなり違うシステムながら、大衆演劇で「自分はこの楽しさにまったく見合うペイをしていない」という負い目を感じるのだ。
 
では小劇場ではそれに見合うペイをしているかと言えば、それもまた問題で、決められた料金をこちらが普通に払っても、なかなか利益を上げるところまでいかない。「全回満席でも赤字」という例さえごく普通にあるようだ。それは構造的な問題で、観客としてはどうしようもない。
ただ、小劇場の役者などは大抵他に仕事を持っていて、公演が無いときはそちらで稼いで、裕福ではないかもしれないが何だかんだで生活しているように見える(生活できなくて足を洗う人も結構いるが)。
そして構造的に儲からないにもかかわらず演劇を続けているわけだから、彼らは基本的に「生活のために演劇をしている」わけではなく「演劇をする(≒観客に見てもらう)ために生活をしている」のである。もちろんこの考え方は演劇人によって幅があると思うが、言わんとしていることは分かってもらえるだろう。
 
だから規定の料金を払っていれば、「これで儲けと言えるものは出ないだろう」と分かってはいても、負い目まで感じる必要は無い。しかし大衆演劇は違う。彼らは各地を旅して、1年のうち300日以上舞台に立っているのだ。
株くらいやっている座長はいそうだし、ここには書けない仕事をしている人もいそうだが、普通のバイトなど不可能だ。「生活のために演劇をしている」のでも「演劇をするために生活をしている」のでもない、「生活」と「演劇(舞台)」がほぼイコールの人生。「芝居を見て欲しい」とは強く思っているだろうが、小劇場のように「儲からなくてもいいから芝居を見て欲しい」という発想はないのではなかろうか。そんな考え方をしていたら、ああいう生活は成り立たない。
 
そうなると、「規定の料金さえ払えば、観客の義務は舞台表現に真摯に向き合うだけ」という小劇場や、もっと安全でドライな関係が築ける商業演劇などと違い、「木戸銭以上のものを支払って初めて真の観客たりうる」のが大衆演劇ではないのか…と思えてくる。
 
こういう考え方って、何かおかしいだろうか? 何か間違っているだろうか?
 
そんなわけで、大衆演劇に行くと(特に今回のような状況だと)、「与えられたものを楽しむばかりで、それに見合うものを返していないダメな観客」という負い目を感じ、何とも言えぬ居心地の悪さを感じってしまう…それを痛感した夜でもあった。
 
だが、よほどのボロ儲けでもないかぎりお花などつけられないわけで(ホント、金ちゃんにお花をつけられるような立派な大人になりたいよ)、今後も大衆演劇を見るなら、ダメ観客の地位に甘んじるしかない。楽しめば楽しむほど後ろめたさが増していく構造…やはり大衆演劇ばかりを見続けるのは、私には無理だな。これからまた見始めるとは思うが、熱心に見れば見るほどツラさが増してきそう。
 
なお、お花をつけている人たちは必ずしもお金が有り余っているセレブではなさそうだ。ごく普通のパートのおばちゃんが、コツコツとお金を貯めて、ご贔屓にお花をつけるなどという話も聞く。つまりは元祖「推し活」。
 
そういう人たちもいるのに、俺ときたら…とますます後ろめたさが募るのである。

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