■「ラーメン・そうめん・うどん」トリビア!“飲んだあとの締めのラーメン”には生理学的な理由があった
(週刊女性PRIME - 08月11日 11:00)
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『蔭涼軒日録』は、禅籍です。
禅の本です。禅僧の行動を記した本です。そこに書かれている僧侶が。家政書の類書である『居家必要事類』をなぜ参照したのか。
ラーメンが、禅僧によって食べられるべきものとの認識があったということです。
ラーメンのスープは、組み合わせの妙を発揮するものです。
鶏ガラとネギ、ショウガ、ニンニクを煮ればスープができます。
しかし、大の大人が、スルメやらタコやら貝柱やらを必死で見繕って煮込む。
これが、ラーメンです。
『居家必要事類』は、1300年頃と言われていますが、
禅宗に食事の重大性を持ち込ん、道元は、1223年、こういう経験をします。
(『典座教訓』)
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船が中国についたら、遠方からはるばるやってきて、積み荷の桑の実を買いに来た典座(料理担当の僧侶)と会った。食事を作るのは重要な修行であると道元に教えた。
その後、道元はこの典座と再会して、禅の話を聞いた。
道元「言葉とは、どういうものでしょうか」
典座「一、二、三、四、五」
道元「弁道とはどういうものでしょうか」
典座「すべてが現われており、隠されているものはない」
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この話が注意するべきであるなのは、典座がはるばる港まで来て高価な舶来の食材を購入したことです。
質素に暮らす、むさぼらない、命を大切にする…などでは、典座のこの行動は説明がつきません。
感銘を受けた道元は、その後も、この言葉を反復して味わいます。
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山僧、後に雪竇の頌もて僧に示せることあるを看るに、云う、
一字七字、三五字、
万像窮め来たるに拠を為さず。
夜深け月白くして、滄溟に下る、
驪珠を捜し得ば、多許有り。
と。前年に彼の典座の云いし所と、今日の雪竇の示す所と、自ら相い符合す。弥々知りぬ、彼の典座は、是れ真の道人なりしことを。然れば則ち、従来看し所の文字は、是れ一二三四五なり、今日看る所の文字も、亦六七八九十なり。後来の兄弟、這頭より那頭を看了り、那頭より這頭を看了りて、恁のごときの功夫を作さば、便ち文字上に一味の禅を了得し去らん。若し是くの如くならざれば、諸方の五味の禅の毒を被り、僧食を排弁するも、未だ好手を得る能わざるなり。
<訳>
私はそれから、この文字ということについて、雪竇重顕禅師が師を作って弟子達に示した詩をを読んだ。次のようなものであった。
一字や七字、十五字でものごとを表現する、
あらゆるものごとも本質を窮めてみれば、依拠するのたるものはな何もない。
夜も更け月はいっそう皎々と輝き、光は大海へと下るように、
探し求めていたあの竜の顎の下のすばらしい玉も、手にいれてみれば、そこらじゅう玉でないものは何もなくなる。
先年、あの老典座と話し合った折に典座が言った言葉の内容は、今見た雪竇禅師の詩の示す内容と、自ずとピッタリ符合している。ここにいたって、あの老典座はまさしく真実の道心ある師僧であることがますます分かった。
こういうわけで、これまで見てきた文字は、一二三四五であるが、文字の何たるかを知った上で見る文字も、やはり六七八九十と、ちっとも変わりはない。後学の修行者よ、こちらからあちらを見、あちらからこちらを見るというように、このように丁寧に丁寧に真実の修行をしたならば、ただちに文字の上にも、純粋な禅の教えがあることが分かるであろう。もしそうでなかったならば、いろいろと混じりもののある不純な味わいの毒を受けて、たとえ修行僧の食事の支度をしたとしても、決して自分の本当の腕前を発揮することはできないはずである。
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一体、なぜ、禅は食事を重んじるのでしょうか。
決して、栄養のためではありません。
作ること自体が、修行だということでしょう。
だから、典座の僧は、わざわざ舶来の桑の実を買いに来たわけです。
素材である桑の実も鶏も、何もかも、「一、二、三、四、五」
椎茸と豚という「六、七、八、九、十」と同じです。
だが、
他と同じにみえる食材も、組み合わせのよって真価を発揮させることが禅の修行なのですね。だから、千金を投じても惜しくない。しかし、その千金は体力をつけるためではない。
出汁の組み合わせの体現する「空」(もとはありふれたもので意味がないものだが、組み合わせによって、五官を喜ばせるものになること)の体験なのでしょう。
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