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2023年08月03日06:38

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東亜連盟の思想も根絶

アメリカは、東亜連盟の思想も根絶したいと考えていたのでしょう。石原莞爾の扱いは、アメリカにとって悩みの種だったに違いありません。戦争終結戦後、石原莞爾の国民的な人気は絶大だったからです。敗戦後、東亜連盟は、東条内閣以来の戦争指導に反抗してきた唯一の国民運動として高い評価を得ていました。

東亜連盟は、終戦直後の昭和20年8月26日、湯の浜温泉で東北大会を開催しました。ここで、活動の題目として「一、国民総ざんげ、二、都市解体、三、農工一体、四、国民皆農、五、優雅なる簡素生活の確立」を決定し、郡山、新庄、盛田、秋田、一ノ関の各地区で大会を開きました。

どの地区でも、石原莞爾の講演を聞こうとして集まる会員は20万人以上に達していました。石原莞爾の講演のために、臨時列車が運転されるという未曾有の盛況を呈したのです。アメリカは、石原莞爾に対して満州事変の責任を問うことはできても、日本を大東亜戦争に導いた責任者として糾弾することは難しかったのです。

これまで、戦犯容疑者のリストに一旦は石原莞爾の名前が加わったにもかかわらず、最終的にはそこから外れた理由について、様々なことが語られてきましたが、アメリカは法廷で石原莞爾に語らせることの弊害を重く見たからではなかったのでしょうか。

実際、石原莞爾の主張は、アメリカの正義とそれに基づいた東京裁判の論理を根底から揺るがしかねない危険性をはらんでいました。昭和21年(1946)春、石原莞爾は膀胱腫瘍で逓信病院に入院していました。その時、石原莞爾は訪れてくるGHQの法務官や検事に対して、痛烈な批判を浴びせていたのです。こんなやり取りもありました。

石原莞爾平和思想研究会副会長・早瀬利之氏の『敗戦、されど生きよ』によれば、質問を始めた法務官に、石原莞爾は逆に質問を始めたのです。
「東京裁判は、日清日露戦争にまで遡って、戦犯を処罰すべきだ、と論議する者がいるが、君はどう考えているか」

「そうする方針です」

「そうか」石原莞爾はニヤリと笑った。「それは面白い。大いにやれ。それだったらペリーこそ戦争犯罪人だ。ペリーを呼んでこい」逆なぞだが、唐突なペリー発言に、法務官も通訳官も、思い当たる人物がいなくて、けげんな顔で互いに顔を見合わせました。

「なんだ、知らないのか。君は貴国の歴史を知らないのか。貴国のボスではないか。いいかね。日本は当時徳川封建時代で、どこの国とも付きあいしたくないと言って門戸を閉ざして鎖国主義をとっていた。それを貴国からペリーが黒船に乗ってきて、門戸を開けろと迫り、列国との交りを強要した。それで日本も、門戸を開放して外国と交際をしてみた。」

「すると列国はみんな侵略主義の恐ろしい国だと知ったのだ。それから日本は、自衛のために、貴国らを大先生として泥棒の侵略主義を習い、覚えた。いわば日本はアメリカの弟子だ。教わったことを日本がやったら、今度は日本は戦犯だという。だからペリーを呼んでこい。 彼をあの世から呼んできて戦犯としてはどうか」(「敗戦、されど生きよ』)。

この石原莞爾の発言には法務官たちも面食らったに違いありません。この発言こそ、大東亜戦争の原因の一つとして列強のアジア進出を挙げ、欧米の覇道主義を鋭く指摘する発言だったからです。法務官は答えることなく、話題を変え、「今度の戦犯の中で、一体誰が第一級と思われるか」と質問しました。

すると石原莞爾は、間髪を入れず、「それはトルーマンだ」と言ったのです。まさに、連合国の正義が揺るがしかねない発言でした。いずれにせよ、GHQは石原莞爾に発言させてはならないと考えたに違いない。辻政信の潜伏に手を貸した東亜連盟の同志たちただし、板垣征四郎はA級戦犯に指定され、東京裁判で死刑判決を受けました。

板垣は、昭和23年(1948)年12月23日、絞首刑に処せられました。彼の獄中日記には「満洲事変記念日。噫、十七年前ノ今月今日、満州事変ハ成功セリ。其後支那ニ手ヲ出シタノガ誤り。万死ニ値ス」と記されていました。

一方、辻政信も戦犯容疑で追及されることが確実でした。そこで辻は、昭和20年8月14日に方面軍司令官の中村明人中将に、「国家百年の為」 潜伏することを願い出て、数名の青年将校とともに日本人僧侶に変装しタイ国内に潜伏したのです。辻はバンコクの中華民国代表部の助けを得て、ハノイに渡り、さらに重慶へと向かったのです。

中国では国民党政権に匿われた。国民党政権は辻に親近感を持っていたようです。蒋介石の特務機関である軍統(軍事委員会調査統計局)のボス、戴笠の家族を過去に助けたことがあったからです。しかし、辻はやがて中国にとどまることにも危機を感じ、昭和23年に上海経由で日本に帰国しました。

日本での潜伏に手を貸したのは、東亜連盟の同志だったとされています。辻は、昭和25年(1950)に戦犯指定が解除された後、ようやく世に姿を現すことになりました。同年、彼が著した逃走中の記録 『潜行三千里』はベストセラーとなりました。やがて彼は、主権回復後の選挙に出馬し、石原莞爾同様に痛烈にアメリカを批判するのです。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

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