リットン報告案を審議中の国際連盟は、昭和8年2月24日、日支問題最終の総会を開きました。票決の結果、友邦タイ国代表が棄権したのと、当事者である日本が反対投票をした以外には、41箇国が賛成投票をしました。
ここにおいて、日本と他の連盟諸国とは、極東平和を確保する方針について、全く意見を異にする事実が判明したので、松岡代表は連盟脱退を宣言し、随員の石原莞爾も会場を立ち退きました。随員の、石原大佐(満洲事変終了後、大佐に昇進)が入っていたのだが、ジュネーブにおける彼の行動は、全く影の人として、世界注目の焦点となったわけではない。
帰朝後、歩兵第四連隊長に補せられたが、夢の間も、忘れることの出来なかったのは満洲でした。王道楽土の道義的国家を建設しようとして、世の努力をささげて、やっと完成させたが、さて、その後は、どうなっているのか、生長ぶりが気になるのでした。
昭和11年の秋、出張を命ぜられ、おどる胸を抑えて、満洲に赴いた時は、愕然としました。そして憤然しました。 石原莞爾の抱いていた王道楽土の夢の痕は、あと方もなく消え去って、全満洲の政治は、関東軍参謀長東条英機の手に、引きずりまわされていたのです。
軍司令官植田謙吉は、独身の将軍で温厚篤直な人格者だったことが、東条には却って好都合であったと見え、軍の機密費は、将校婦人会長東条勝子の手にさえわたって、まるで湯水のように費消されていたのです。
満人は、王道楽土の呼声に応じて、満洲の立直しにふるい立ったのですが、実際において生活を悦楽しているのは、日本の軍人・軍属・官吏、それに日本から渡った多くの利権屋だけでした。日満両国の童児が、路傍に喧嘩しているのを見ると、日人の子どもは、「おれは、日本人だぞ」と、高飛車に出ます。
満人の子どもは、自分の方に理窟はあっても、それをきくと、唇をかんで黙ってしまいます。そういう優越感をもって、満洲にのぞむことは、石原莞爾の最も警戒したところだったのですが、唾棄すべき日本人根性の悪の一面は、少しばかり、タガがゆるむと、自省の念をうしなって、すぐに弱いものいじめの態度に出るのでした。
建国運動に携った当時の片倉大尉参謀 (上原勇作元帥の愛婿)は、中佐に昇任し、この急潮の関東軍にあって、満洲国の内面指導に苦労していました。軍人が政治に関係することを、明治天皇は禁じられたが、ひとたび関係すると、何とはなし病みつきになって、軍人的政治家となります。石原莞爾は、これが「軍閥」というものの本体だと云っています。
「満洲国は独立国である。関東軍が、この国の政治に手を出すのは、独立を侵害するものだ。関東軍第四課は、即時廃止し、内面指導などというものはやめて、満人の政治的意志を尊重しなくてはいかぬ。」この主張を意見書にまとめて、軍司令官に提出しました。(関東軍司令官満洲国内面指導撤回)。東条軍閥は、勿論、これを踏みにじったのです。
だが、満人たちは、石原莞爾の姿を見ると、どよめき立った。「この人こそ、吾々の味方だ。この人さえ、もう一度、立直しに来てくれたら、満洲はよみがえる」どん底に沈んでいた人々が、非常なよろこびをもって迎えました。
石原莞爾は、同胞には嫌われましたが、こうして異国民には慕われて、多くの力弱き人々の群が、石原莞爾の身辺にいたのです。石原莞爾も、満洲国の立直しが、当面の急務だという事を、しみじみ感じたのでした。
石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)
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