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2023年05月14日14:15

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【ブックレビュー】アイデンティティと暴力

アイデンティティと暴力
(副題)運命は幻想である
アマルティア・セン 著
大門毅 監訳
東郷えりか 訳
勁草書房


 本書が出版された2006年からだいぶ経過していますが、戦争や分断は深刻度を増し、著者の専門である飢饉も大規模な発生が危惧されています。大丈夫か世界。
 本書は、主にいわゆる文明の衝突理論と共同体主義に対する批判です。

・・・・・
 人を矮小化することの恐るべき影響とはなにかを考察することが、この本の主題である。そのためには、経済のグローバル化、政治における多文化主義、歴史的ポストコロニアリズム、社会的民族性、宗教的原理主義、および国際テロリズムといった、すでに確立されたテーマを再検討し、再評価する必要がある。(以下略)
・・・・・(P9)

 集団(国家・民族・宗教等)のアイデンティティを重視する事が分断や対立を生む、人間は様々なアイデンティティを持っており、一つの帰属関係から見てはいけない、という警告です。例えば、「宗教を中心に世界の人びとを分析することが、人類を理解するうえで役立つ方法となるだろうか?」という問いを立て、

・・・・・
 そうはならない、というのが私の主張である。宗教ごとに分類すれば、文明ごとに世界の人びとを分けるよりは整合性のあるものになるかもしれないが、これもまた人間を一つの帰属関係から、つまり宗教という観点からのみ見ようとする同じ過ちを犯している。(中略)一般に社会、政治、文化を分析する際に、宗教による分類を最も重要な根拠とすれば、個人がもちうるあらゆる関係や忠誠心を見過ごすことになる。人の行動やアイデンティティ、自己認識において、こうした多様な関係は深い意義をもつかもしれないのだ。人びとの複数のアイデンティティと優先事項の選択を重視する必要性は、文明による分類の代わりに宗教にもとづく直接の分類を利用しても、やはり残るのである。
・・・・・(P93)

 と否定しています。この引用で分かると思いますが、著者は「アイデンティティ」を、統合された人格という意味ではなく、人間の持つ「属性」というニュアンスで使っています。


 ウクライナ国民の反ロシア(ソ連)感情について、これかなと思ったのは、不平等感や恨みの継続です。

・・・・・
 時期を逸しないことがとりわけ重要であるのは、不平等感は長い年月のあいだ、人びとの不満を蓄積させるからだ。それは飢饉や物資の欠乏によって衰弱させられ、能力を奪われる状況が終わった後までずっと続くものだ。貧しく、荒廃した時代の記憶はいつまでも残りやすく、反乱や暴力事件を起こすうえで引き合いにだされ、利用される。一八四〇年代のアイルランドの飢饉は平穏な時代だったかもしれないが、不平等を味わった記憶と政治・経済面で冷遇されたことに対する社会の恨みが、アイルランド人をイギリスから離反させる結果になった。(後略)
・・・・・(P199)

 ウクライナ戦争の遠因として、1930年代のいわゆるホロドモールの恨みがある、という指摘を報道等で何度か目にしました。当時の記憶を持つウクライナ人はもうほとんどいないと思いますが、民族の記憶というのは受け継がれて長く続くのですね。同様の悲劇は現在のイスラエル人からユダヤ人であること以外のアイデンティティを想い起こす自由と能力を奪っているかもしれないという指摘(P25)にも見られます。私は、ここはもしかしたら皮肉かもと邪推してしまいましたが(笑)。
 現在、アフリカ等にある貧困諸国は、先進諸国から搾取されているという思いを抱いているようです。将来、貧困諸国が豊かになっても、不平等感や恨みを抱いたままだったとしたら、追いつかれた先進諸国は痛い目に遭うかもしれません。貧困国を支援しなければならない実利的な理由はここにあります。かといってアフリカやアジアの全ての国を豊かにするには地球のリソースが足りないという現実もあります。困りました。


 西洋科学に対する不信感(P133 日本における反ワクチン反マスクを想起しましたw)や教育費(P157)も興味深い指摘です。それから、直近の話題で見逃せない、多様性のパラドックスのような問題点も挙げられています。


・・・・・
 (中略)これはつまり、文化的多様性を保つために、われわれは文化的保守主義を支持し、人びとにそれぞれの文化的背景に固執するように求めるべきであり、たとえ新たな生活様式に移行する正当な理由があっても、そんなことは考えまいとすべきだという意味であろうか?(以下略)
・・・・・(P163 傍点略)

 現在、イスラム教徒の土葬を受け入れている墓地は全国に9カ所(あるだけでもびっくりですが)しかないそうです。私は「郷に入らば郷に従え」派ですので、日本で埋葬するのであれば戒律を破ってでも火葬すべきかなと思います(そもそも土葬が禁止されていないのもびっくり)。移民を受け入れる理由が、単に労働力としてだとか少子化対策だとかであればまあいいですが、人種や文化の多様性を持ちだすのであれば、移民が保守的な主張をする場合には否を突き付けるべきでしょう。


 いわゆる文明論や国際関係論では、国家や民族や宗教といった分類で集団を抽象化する必要があるのは仕方ないとは思いますが、それら分類が対立や分断を生むのであればなるべく避けるべきでしょうね。ただ、著者が主張する、自由意志の尊重やケイパビリティや民主主義は、ちょっと逆風にさらされている印象です。自由意志は存在そのものが疑問視されています。ケイパビリティはITやAIの進歩で人間能力の質が転換しそうです。そして、民主主義はかなり劣勢です。はたして、分断と対立に満ちた世界をどう立て直すのか(あるいは立て直さなくてもいいのか)、私達は難しい局面に立たされていると思います。

 ところで、私は自由主義の先進国にいるので自由の価値が高いと信じていますが、それは本書においては批判の対象になってしまします。どうしましょう(´・ω・`)。


 蛇足ですが、著者が本書で再三指摘している通り、私達は様々なアイデンティティ(属性)を持って一人の人間として存在しています。「一本の芯の通った人間」として生きるのはなかなか困難ですね。会社で発揮しているリーダーシップを趣味のサークルで持ち出すと嫌われてしまうように。本音で生きる事ができたのは、一生を少人数の恒常的な集団で過ごした時代だけだったのでしょうか。

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