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2023年04月10日05:33

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明智光秀の娘の嫁ぎ先


明智光秀は2020年の大河ドラマの主人公でした。永青文庫という旧熊本藩主細川家の美術館があります。今の理事長は父たちと日本新党を立ち上げた元首相の細川護熙氏です。細川家は明智と、ゆかりが深いです。絶世の美女で知られる細川ガラシャは明智光秀の娘で細川家に嫁いでいます。それだけではない。

そもそも、明智光秀が世に出るきっかけも、細川家が関わっていました。また、我が家の系図中に細川家の家臣で現れています。もし、細川家が道を誤っていたら仲條家も終わっていたことでしょう。父は細川さんと何の因果かなと話されていたのを覚えています。

明智光秀の前半生をいくら調べても謎がとても多いです。京の人、立入左京亮入道隆佐は「光秀は美濃国(岐阜県) 住人、とき (土岐)の随分衆」と記しています。当時ヨーロッパの宣教師が作った日葡辞書には「随分の人」の項目があり「際立った人」と訳されています。明智光秀は「美濃の名族土岐氏の上級家臣」の出身とみられていました。

ルイス・フロイス『日本史』は、明智光秀の子女は「非常に美しく優雅でヨーロッパの王族を思わせるようだった」と記すから、明智光秀一家は、高貴な雰囲気をもっていたのでしょう。美濃方面の出自は事実かもしれませんが、明智光秀の前半生は、王族には程遠く「朝夕の飲食さへ乏かりし身」(『当代記』)でした。

踊り念仏をする僧侶の記録 『遊行三十一祖京畿御修行記』の天正8(1580)年1月24日条には「明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住」と出てきます。土岐氏の親類が牢人になって、越前(福井県)の朝倉義景を頼り、寺の門前に10年住まわせてもらっていました。

しかし朝倉の元を去り、細川家に仕えたらしい。興福寺の多聞院の日記に「細川ノ兵部大夫カ中間ニテアリシ」(天正10年6月17日条)と出てきます。これが細川護熙さんの史料で、中間とは荷物運びなどをする下働きのことです。

戦国末期に少年で、100歳まで生きた者の回想『老人雑話』に「明智初め細川幽斎藤孝)の臣也」とあります。細川家の家臣になったが家老の米田助左衛門などが「悪しくあたり」いじめたので明智はこらえきれず織田信長に仕えるのを望むようになったなどとあります。

その経緯は平戸藩松浦氏が編んだ『武功雑記』が記してあります。内容を鵜呑みにできる史料ではないのですが、この書物にも「明智はもと細川幽斎の家来也」とあります。同家家老の松井佐渡が気に入らず、明智は「何とぞ信長へ御奉公に出たく」と願っていました。

そんな時、幽斎から「信長に使者に行け」といわれ、好機と見て信長に直訴して家来にしてもらったというのです。もう細川家には帰らず、使者の返事は「飛脚にて遣」したといいます。その後、明智は劇的に出世しました。

家老の松井に「あなたに気に入られなかったから立身できた。仇は恩で返したい」といったら、すかさず松井が「では、娘子を(当家の) 与一郎(忠興)に」といい、細川家は美女ガラシャを迎え入れたという。

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