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2023年03月28日00:00

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君津紀行7 貞元親王墓 / 建暦寺

 2日木曜日は君津中央公園から南下して、小糸川に架かる富久橋を渡りました。
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 西洋油菜(Brassica napus)が咲き乱れる中、東南へ向かいます。
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 やがて、県道158号線沿いにある貞元親王墓〔君津市指定史跡〕に到着しました。
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 貞元親王(869?〜910)は人皇第56代清和天皇第三皇子で、母は参議藤原仲統(フジワラノナカムネ;818〜875)の娘です。四品上野太守を務めた人物で、上総国とは特に縁が無かったにも拘わらず、当地には貞元親王が上総へ下向して当地で没したとの伝承があり、少なくとも江戸時代には貞元(サダモト)村が存在していました。
 伝説によると、親王は当地出身でかつて宮仕えをしていた「お万」という女性を追ってやって来たのだとされ、近江から持参した蓮華草の種を肥料として米を作る技術指導を行ったとされています。このため、当地ではレンゲ草の事を「親王草」「貞元草」等と呼ぶのだそうです。
 現在の墓碑は延宝6(1678)年に、親王とお万の子孫と称する地元の富農平野権左衛門が建てた物で、その碑文に権左衛門は「清和天皇第三皇子貞元親王墓施主平野権左衛門」と記したのですが、地元領主の旗本梶川三之丞に仕える関戸源三衛門がこれを見て「この平野氏は貞元親王に由緒があるか」と問い、土地の者は系図僭称を追及される事を恐れて「そうではない」と答えたとされます。そのため、源三衛門は「子孫でも無い者が皇族墓の施主となるのは不敬であり、平野氏は将来没落するだろう」と述べ、村人がそれを権左衛門に伝えたところ、権左衛門はいたく気にして「施主」以下の文字を削りましたが、その後平野家は本当に衰退してしまったそうです。
 現在でも当地の地名は「貞元」であり、貞元出身の歌人平野峯郎(1912〜2002)が昭和38(1963)年に作詞した君津市立貞元小学校校歌は「清和の昔 貞元の みこがおわせし この郷に」から始まる歌詞となっています。峯郎が権左衛門の子孫なのかどうかは不明です。
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 この後、近くの味楽囲さだもと店BS1218時発の君津市コミュニティバス小糸川循環線第6便に乗車し、1224時着の宮下BSで下車し、寒緋桜(カンヒザクラ)が咲き乱れる中、西方へ向かいました。
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 やがて真言宗豊山派(ブザンハ)濱子山(ハマゴサン)建暦寺(ケンリャクジ)に到着です。
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 建暦寺は寺伝によれば、天平9(737)年に行基菩薩(668〜749)によって創建され、天延年間(973〜975)に上総介源満仲(912〜997)が源信僧都(ゲンシンソウヅ)に命じて大伯父貞元親王の菩提を弔うために中興したとされます。その後、建暦2(1212)年に執権北条義時の執奏によって朝廷から「建暦」の年号を寺号とする事を勅許されたと伝えられます。当寺は男僧・尼僧雑居の寺として知られました。
 令和元(2019)年9月の台風15号で大きな被害を受けています。
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 台風15号で破損した仁王門です。
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 阿弥陀堂〔君津市指定文化財〕です。戦国時代に再建された桁行3間・梁間3間の寄棟造(ヨセムネヅクリ)で、寛延元(1748)年に補修されています。
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 台風15号で大きな被害を受け、未だに修復の見込みが立たない状態です。
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 本尊の木造阿弥陀如来坐像〔君津市指定文化財〕は檜の寄木造(ヨセギヅクリ)で平安時代の作とされます。
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 昭和48(1973)年建立(コンリュウ)の庫裏(クリ)です。
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 建暦寺には寺宝として木造菩薩面〔千葉県指定文化財〕が伝わりますが、現在は建暦寺縁起書〔君津市指定文化財〕と共に久留里城址資料館で保管されています。
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 木造菩薩面は25面あり、そのうち4面が指定物件です。うち3面は国学者塙保己一(ハナワホキイチ;1746〜1821)によって文化14(1817)年に纏められた建暦寺縁起書に記録されています。
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 右半面を欠損した1面を含めて各面とも縦22.3cm〜23.3cm・面長15.1cm〜18.2cmで、何れも檜材の一材で作られています。材は厚手で、表面は漆の上に金箔を置く漆箔技法で装飾され、裏面は黒塗仕上げで、4面共に白毫(ビャクゴウ)は欠失し、天冠は波状にうねり、毛筋を掘り出しています。
 面相は、やや伏し目がちで、口元に微笑を讃える慈悲相が表され、顔の表情は写実的で生き生きとしており、彫刻技法の水準の高さを感じさせます。各面共通の製作技法は、同系統の仏師の作を示しています。紀年銘は認められませんが、宋風の様式から見て鎌倉時代作と堆定されています。
 この種の仏面は、寺院の法会や供養会の際に、仏面を着けた僧尼が行列を作って読経しながら練り歩く「行道」の儀式に用いられた「行道面」と考えられています。
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 建暦寺に隣接して伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)・櫛御氣野命(クシミケヌノミコト)を祭る熊野神社があります。
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 ここから竹林の中を進んでいくと…
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 「行基菩薩水業の池」と称する穴がありました。
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 建暦寺近くにある雅楽之亮屋敷跡です。雅楽之介は、琵琶の名手で、この地で弟子達に琵琶を教えていたとされます。
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 建暦寺の僧房・尼房だった宗仁坊跡です。
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《続く》
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