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2023年01月27日04:53

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足利紀行25 旧足利模範撚糸工場 / 勧濃城跡

 5日木曜日朝は富士山城跡の麓から、近くにある旧足利模範撚糸工場〔登録文化財〕へ赴きました。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%97%A7%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%A8%A1%E7%AF%84%E6%92%9A%E7%B3%B8%E5%B7%A5%E5%A0%B4/@36.3305984,139.4428911,18z/data=!4m9!1m2!2m1!1z6Laz5Yip5biC6aeF!3m5!1s0x601f2187a38e9567:0x51cbc64413b83d2a!8m2!3d36.3305561!4d139.4450367!16s%2Fg%2F11clzg5k71
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 この建物は明治36(1903)年に明治政府の輸出絹織物振興の国策会社である足利模範撚糸合資会社の工場として建てられました。大谷石(オオヤイシ)造の本格的な洋風工場建築で、半円形窓を持つ縦長窓や、二つ連なっている鋸型の屋根に光を採り入れる為の大きな窓が付いている点などが特徴です。明治時代に全国で六ヶ所建設された模範撚糸工場の中で、唯一現存する貴重な建築物です。
 現在は一部改築されてアンタレススポーツクラブとして再利用されています。
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 この後、中橋で渡良瀬川を渡り、河川敷を東南へ進むと、勧濃(カンノウ)城とも呼ばれた岩井山城跡〔足利市指定史跡〕が見えて来ました。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%8B%A7%E8%BE%B2%E5%9F%8E%E8%B7%A1/@36.323623,139.4590702,17z/data=!4m6!3m5!1s0x601f23cf0318420f:0x1d78fc0901b06f6d!8m2!3d36.3223371!4d139.4602595!16s%2Fg%2F11g6qdlwdj
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 享徳3(1455)年に勃発した享徳の乱以後、足利荘は古河公方足利成氏と関東管領上杉房顕との間で争奪が繰り返されていましたが、文正元(1466)年に至り、8代将軍足利義政は足利荘を上杉方の管轄と認定、上杉家重臣の長尾景人(ナガオカゲヒト)が代官として派遣されて足利荘入りし、荘園政所近くにあった足利学校背後の岩井山に勧濃(カンノウ)城を築いて本拠としました。以後、景人の系統は足利長尾氏と呼ばれる事となります。
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 勧濃城は、渡良瀬川沿いの標高54.5m・比高20m程の三角形状の丘陵地の上に建てられた東西250m・南北300m程度の平山城で、最高地に土塁で囲まれた本丸が築かれており、やや下がった南側に二の丸、その南東側には三の丸が築かれていました。
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 本丸の周りには帯郭(オビクルワ)があり、東側の中央部には大手口が設けられていて正面には石垣を組み、物見櫓を構えた郭がありました。
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 下野国に於ける唯一の上杉方拠点であった勧濃城は古河公方にとって目障りな存在であり、何度も攻防戦が繰り返される事になるため、景人は足利学校に戦禍が及ぶのを恐れて、応仁元(1467)年に学校を鑁阿寺(バンナジ)近くの現在地へ移転させています。
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 文明4(1472)年、古河公方軍との攻防戦の最中に長尾景人が28歳で死去すると、幼い定景が後を襲い、叔父の長尾房清の後見を受けましたが、文明7(1475)年に定景は死去、弟の景長が後継となって、やはり房清の後見を受けました。
 房清は、関東管領山内上杉顕定に反抗していた扇谷上杉定正と結んで顕定に叛く姿勢を見せたため、顕定軍が勧濃城を攻撃、山内・扇谷両上杉氏による長享の乱の契機となりました。
 扇谷上杉定正は古河公方足利政氏と同盟していましたが、明応3(1497)年に定正が落馬事故死したのを機に、足利政氏は山内上杉顕定側へ寝返り、この際に長尾房清も山内上杉側へ乗り変えています。このため房清は、永正元(1504)年に両上杉軍の大決戦が行われた武蔵国立河原(タチカワノハラ)合戦に山内上杉方で参戦しますが、戦死してしまいました。
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 この結果、長尾景長が当主として自立する事となり、永正9(1512)年に居城を勧濃城から要害堅固な両崖山の足利城に移しています。この移動は軍事的な理由だけで無く、渡良瀬川の水害を避ける意味もありました。即ち、この頃から渡良瀬川本流は現在の矢場川の線から現流路へ移りつつあり、勧濃城は渡良瀬川の流路の中に浮かぶ中州の様な形になって、城下の町や農地が壊滅していたのです。
 その後も勧濃城は足利城の支城として維持されていましたが、天正18(1590)年の小田原征伐で長尾顕長が豊臣秀吉によって改易されると、廃城となりました。江戸時代には、城跡の東側が渡良瀬川によって削られてしまい、氾濫原と化しています。
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 明治6(1873)年に城跡周辺の勧濃村が勧農村と改められたため、勧濃城は勧農城とも表記されます。
 勧濃城とその周辺部の土層には縄文時代の遺跡が存在し、平成8(1996)年に縄文遺跡の調査が城跡の東側で行われた際に中世期の井戸跡や鞴(フイゴ)等の遺構が確認されたため、平成12(2000)年には城跡の調査が行われ、石垣の造成土中の組成や出土した瓦片から、伝承通りの室町時代後期の築城である事が確認されました。
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 勧濃城跡には磐筒男命(イワツツオノミコト)と磐筒女命(イワツツメノミコト)を祭る赤城神社〔村社〕があります。
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 鎌倉初期の創建ですが、天保10(1839)年に渡良瀬川の水害を避けるため現在地に遷宮されました。明治43(1910)年に天満宮、大正3(1914)年に石神社・十二神社を合祀しています。
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 現在の社殿は昭和14(1939)年の改築です。
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 境内ではピラカンサ(Pyracantha coccinea)がたわわに実っていました。
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 勧濃城跡から望む足利城跡の両崖山です。
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 渡良瀬川の氾濫原に架かる岩井橋を渡って北方へ進みました。
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 雪化粧した赤城山が綺麗に見えました。
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 氾濫原には足利渡良瀬ウォーターパークが設けられています。
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《続く》
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