2日月曜日は、足利学校を見学後、隣接する真言宗大日派本山金剛山仁王院法華坊鑁阿寺(バンナジ)へ赴きましたが、途中に足利尊氏銅像があります。
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戦前、尊氏は逆賊とされていましたから、彼の銅像は珍しく、多分、全国唯一だと思います。
歴代足利将軍の銅像も殆ど見かけないですけどね…。
鑁阿寺は足利市宅跡〔史跡〕として日本百名城の一つにも選出されています。
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ここは足利荘初代地頭に任じられた足利義兼によって建てられた居館で、外縁の長さは北約223m・南約211m・東約175m・西約206mの不整台形をしており、土塁と堀により四周が囲まれています。
義兼の正室時子に関しては、建久7(1196)年に侍女藤野が汲んで来た井戸の生水を飲んだところ妊娠した様な腹になり、これを藤姓足利忠綱と密通して身籠ったのだと藤野が讒言した事から、身の潔白を示すために自害、その遺言どおりに遺体を改めると腹から大量の蛭が出て来たとする怪しげな「蛭子伝説」が伝わります。義兼は藤野を誅し、忠綱を成敗したため、藤姓足利氏本家は滅亡してしまいました。
同年、義兼は足利荘の居館に大日如来を奉納した持仏堂である堀内御堂を建立し、時子を弔うため智願寺殿御霊屋(蛭子堂)も建立、蛭のいた井戸は閉鎖されて「開かずの井戸」となりました。
義兼の子の義氏は足利荘居館の堀内御堂を拡大して伽藍を整備し、父の戒名に因んで鑁阿寺と名付け、以後、鑁阿寺は足利一門の氏寺として信仰を集める事となりました。
足利尊氏が幕府を開くと、鑁阿寺は将軍家氏寺として多数の荘園を寄進され、全盛時の所領は150000石にも達する事となりますが、江戸時代に入ると所領は60石に激減してしまいました。
その後、5代将軍綱吉生母の桂昌院は鑁阿寺の保護も行い、全盛時の十二支院が再整備されました。
明治元(1868)年の廃仏毀釈で衰微し、支院は廃絶しましたが、多くの伽藍が維持されています。
太鼓橋〔栃木県指定文化財〕は江戸時代後期建築の唐破風(カラハフ)桟瓦葺(サンカワラブキ)で、栃木県内唯一の屋根付きの橋となっています。
楼門〔栃木県指定文化財〕は、永禄7(1564)年に13代将軍足利義輝が再建した物で、本瓦葺入母屋造(イリモヤヅクリ)三間一戸の唐様建築です。
楼門には木造金剛力士立像〔栃木県指定文化財〕が立ちます。
二体共に鎌倉時代の作です。
楼門付近の水堀と土塁です。
鎌倉時代の有力武士館は、こんな形状の物が多かったみたいです。
水堀には錦鯉がいました。
土塁の上です。
境内東南には心字池を中心とする庭園があります。
ここにも錦鯉がいます。
本堂前は初詣客で賑わっていましたが、この一角は閑散としていました。
後方は鐘楼〔重要文化財〕です。
鐘楼は建久7(1196)年の建築とされますが、再建説もあります。
中央に元禄年間(1688〜1704)製の鐘が吊り下げられ、四方吹放しとなっています。
御水屋(オミズヤ)〔足利市指定文化財〕です。
明治22(1888)年の再建で、田崎草雲(タザキソウウン)が描いた天井画が微かに残っています。
多宝塔〔栃木県指定文化財〕です。
寛永6(1629)年に5代将軍徳川綱吉生母桂昌院によって再建され、屋根は銅板葺瓦棒付です。
栃木県内唯一の木造多宝塔になっています。
多宝塔の本尊金剛界大日如来〔栃木県指定文化財〕は鎌倉時代の作で、像高は100.6cmです。
本堂〔国宝〕です。
足利貞氏が正安元(1299)年に再建した桁行5間 ・梁間5間 の本瓦葺入母屋造で、当時最新の建築様式であった禅宗様建築を早速早く取り入れています。
応永14(1407)年から永享4(1432)年にかけての修理により、柱と小屋組みを強化して正面に向拝を付しました。
本堂の本尊は胎蔵界(タイゾウカイ)大日如来〔栃木県指定文化財〕で、本堂再建の際の制作と推定されています。
鑁阿寺境内には大銀杏〔栃木県指定天然記念物〕が聳えます。
銀杏(Ginkgo biloba)は裸子植物門イチョウ綱イチョウ目イチョウ科の落葉高木です。
この個体は高さ31.8m・目通り8.3mに達する巨木で、樹齢約550年と推定されています。
地上3m位の場所から二本に別れていて、どちらも数本に分岐し、地上15m付近で殆どの枝が切られた様に無くなっており、その部分から2〜3本の枝が伸びて、壮大な樹形を形成しています。
根元の二本に別れている部分は、本来二本の木が合体した様にも見られますが、明確には判っていません。参拝者による踏み固めを防ぎ、木を守るため周囲を石柱で囲われています。
東門〔栃木県指定文化財〕です。
本瓦葺素木造の四脚門で、本堂と同時期の鎌倉建築と推定されています。
東門付近の土塁と水堀です。
コチラ方面には錦鯉はいませんでした。
左が稲荷堂、右が本坊です。
正式には智願寺殿御霊屋(チガンジドノオタマヤ)と呼ばれる蛭子(ヒルコ)堂〔足利市指定文化財〕です。上述の様に怪死した智願寺殿、即ち足利義兼室の北条時子を祭ります。
桟瓦葺切妻破風向拝(キリツマハフコウハイ)付建築で、江戸時代に薬師堂として建立(コンリュウ)された建物でしたが、昭和32(1957)年に本来の蛭子堂が移築された後、薬師堂と蛭子堂を兼ねる事となりました。
大黒堂とも呼ばれる宝庫〔足利市指定文化財〕です。
行基葺(ギョウキブキ)寄棟造(ヨセムネヅクリ)の校倉造(アゼクラヅクリ)建築で、宝暦2(1752)年の再建です。元来は鑁阿寺の宝物を収容した収蔵庫でしたが、大正時代からは大黒天を祭っています。
大酉堂(オオトリドウ)です。
本来は足利尊氏像を祭っていましたが、明治時代からは大酉大権現を祭っています。
御霊屋(オタマヤ)〔栃木県指定文化財〕です。
11代将軍徳川家斉〔位;1787〜1837〕の寄進により再建された本殿に清和源氏の始祖源経基(ミナモトノツネモト)を祭り、本殿背後に足利家初代の義国の墓があります。
不動堂とも呼ばれる中御堂(ナカミドウ)〔足利市指定文化財〕です。
文禄元(1592)年に鎌倉公方の末裔で下野国喜連川(キツレガワ)3500石を領した足利国朝が再建した本瓦葺入母屋造建築です。
中御堂の本尊は、平安末期〜鎌倉初期制作の木造不動明王坐像〔栃木県指定文化財〕です。
経堂〔重要文化財〕です。
応永14(1407)年に第3代鎌倉公方足利満兼により再建された本瓦葺二重宝形造(ニジュウホウギョウヅクリ)建築で、宝永5(1708)年に屋根の修理が行われています。内部に八角形廻転式の経棚があり、参拝者が回転させる事が出来ます。
経堂では木造足利歴代将軍坐像〔栃木県指定文化財〕の有料公開が行われていました。
江戸時代の作で、15人が衣冠束帯姿で並んでいます。
ここで鑁阿寺の各種寺宝を紹介しておきましょう。
『紙本墨画仮名法華経(シホンボクガカナホケキョウ)』〔重要文化財〕。全8巻で、第1巻に元徳2(1330)年6月14日の日付が入っており、全て鎌倉時代末期の制作と推定されます。
『鑁阿寺文書』〔重要文化財〕。615通あり、仁治2(1241)年の足利義氏の下文(クダシブミ)以下、足利尊氏・高師直(コウノモロナオ)・上杉憲実・上杉謙信・武田勝頼等の錚々たる人物の書状が含まれています。
《絹本墨画 雲龍図(ケンポンボクガウンリュウズ)》〔栃木県指定文化財〕。江戸時代の作です。
《絹本著色 釈迦八大菩薩像(ケンポンチャクショクシャカハチダイボサツゾウ)》〔栃木県指定文化財〕。室町時代の作です。釈迦八大菩薩とは、文殊菩薩・観音菩薩・弥勒(ミロク)菩薩・薬王(ヤクオウ)菩薩・薬上(ヤクジョウ)菩薩・得大勢(トクダイセイ)菩薩・無盡意(ムジンイ)菩薩・宝壇華(ホウダンケ)菩薩の八人を指します。
《絹本著色 涅槃図(ケンポンチャクショクネハンズ)》〔栃木県指定文化財〕。ガウタマ=シッダールタ死去の様子を描いた絵で、室町時代の作です。
《絹本墨画淡彩 不動明王二童子像(ケンポンボクガタンサイフドウミョウオウニドウジゾウ)》〔栃木県指定文化財〕。南北朝時代の作です。
《絹本著色 真言八祖像(ケンポンチャクショクシンゴンハッソゾウ)》〔栃木県指定文化財〕。下の写真は龍樹(ナーガールジュナ)像ですが、他に龍智(リュウチ)・金剛智三蔵(コンゴウチサンゾウ)・不空三蔵(フクウサンゾウ)・善無畏三蔵(ゼンムイサンゾウ)・一行阿闍梨(イチギョウアジャリ)像・恵果阿闍梨(ケイカアジャリ)・弘法大師の同様の像があります。室町時代の作です。
《絹本著色 弘法大師四所明神像(ケンポンチャクショクコウボウダイシシショミョウジンゾウ)》〔栃木県指定文化財〕。四所明神とは、丹生大明神(ニウダイミョウジン)・高野(コウヤ)大明神・気比(ケヒ)明神・厳島(イツクシマ)神を指し、高野大明神以外は女神です。室町時代の作になります。
『大般若経(ダイハンニャキョウ)』〔栃木県指定文化財〕。鎌倉時代の写本で、600帖から成ります。
『紺紙金字法華経(コンシコンジホケキョウ)』〔栃木県指定文化財〕。鎌倉時代の物で、全8巻から成ります。
《太刀銘 家俊》〔栃木県指定文化財〕。鎌倉時代末期の備前国の刀工家俊(イエトシ)の作で江戸時代中期に鑁阿寺へ寄進され、「落葉の陣太刀」と呼ばれています。
《花鳥文刺繍天鵞絨(カチョウモンシシュウテンガジュウ)》〔栃木県指定文化財〕。箱書には文禄2(1592)年とありますが、元より到来し、足利尊氏の陣中に飾られた織物と伝えられています。
《青磁人物燭台(セイジジンブツショクダイ)》〔栃木県指定文化財〕。元帝国の竜泉窯(リュウセンヨウ)で製作された物で、高さ21.5cmです。
《金銅透釣燈篭(コンドウスカシツリトウロウ)》〔栃木県指定文化財〕。慶長15(1610)年の作で、高さは49.5cmです。
《刀(薙刀直し)》〔栃木県指定文化財〕。南北朝時代に薙刀(ナギナタ)を日本刀に改造した物です。
巡礼札〔栃木県指定文化財〕。「関東三十三度巡礼結願 山城國住□□□ 享禄四天□月日」等と刻まれているため、1531年の物と判ります。
《紙本著色 鑁阿上人自画像(シホンチャクショクバンナショウニンジガゾウ)》〔足利市指定文化財〕。出家して鑁阿(バンナ)の法名を名乗った足利義兼の自画像です。
《紙本著色 両界曼荼羅図(シホンチャクショクリョウカイマンダラズ)》〔足利市指定文化財〕。室町時代の作で、伝法灌頂(デンボウカンジョウ)等の修法事(ホウジ)の際、本堂の本尊須弥壇(シュミダン)の左右の柱間に掲げられて来た物です。天正5(1577)年・元和7(1621)年・享保8(1723)年・寛政6(1794)年に修理されています。
金剛界です。
胎蔵界(タイゾウカイ)です。
《紙本著色 足利義氏像(シホンチャクショクアシカガヨシウジゾウ)》〔足利市指定文化財〕。足利義氏(1189〜1255)像を江戸時代に写した物です。
《明治宮殿杉戸下絵(メイジキュウデンスギトシタエ)》〔足利市指定文化財〕。明治20(1887)年の皇居造営に際し、御杉戸に絵画の謹写をする旨の召命を宮内省から下された田崎草雲(タザキソウウン)が、半年余りの歳月をかけ構想を練り作成した下絵です。万葉集と古今集から四季折々の四つの題材を取り、それぞれ2枚ずつ8枚が描かれています。下の写真は春をテーマとした《岩上飛泉》です。
《綿布墨画 雷神図(メンプボクガライジンズ)》〔足利市指定文化財〕。田崎草雲が幕末に祭衣装へ描いた作品です。
《絹本墨画淡彩 雪景山水図(ケンポンボクガタンサイセッケイサンスイズ)》〔足利市指定文化財〕。明(ミン)帝国の弘治年間(1488〜1505)以降、即ち15世紀末〜16世紀前半頃に描かれたと考えられる雪景山水図で、浙江(セッコウ)地方を拠点とした浙派(セッパ)の作と推測されています。箱裏墨書等から、寛政6(1794)年に水戸の六地蔵寺から水戸徳川家に献納された後に鑁阿寺へ入った物と推測され、東国寺院に伝わる数少ない浙派作例です。
《木造 武将像》〔足利市指定文化財〕。江戸時代の作で、寛政12(1800)年の記録に文化財として掲載されています。三体あります。
伝源義国立像(ニナモトノヨシクニリュウゾウ)です。
伝足利義康倚像(アシカガヨシヤスイゾウ)です。
伝足利尊氏倚像です。
《木造 足利義兼坐像》〔足利市指定文化財〕。鑁阿上人自画像を元にして江戸時代に製作された物です。
《唐織十二天袈裟(カラオリジュウニテンケサ)》〔足利市指定文化財〕。元は李氏朝鮮王国の金剛山長安寺所蔵でしたが、天正2(1574)年に石見国の益田右衛門佐が紀州高野山の正智院に寄進し、後に鑁阿寺へ齎されたとされています。
《太刀銘 則重》〔足利市指定文化財〕。嘉暦3(1328)年に越中国の刀工則重(ノリシゲ)が製作した太刀で、明治22(1889)年に田崎草雲が鑁阿寺へ奉納した物です。
《一山十二坊図(イチザンジュウニボウズ)》〔足利市指定文化財〕。正和年間(1312〜1316)に描かれた鑁阿寺一山十二坊の鳥瞰図(チョウカンズ)です。
《紙本著色 足利城古絵図》〔足利市指定文化財〕。江戸時代初期に描かれた両崖山の足利城の古絵図です。
《絵馬 外国船の図》〔足利市指定文化財〕。オランダ船を描いた絵馬で、承応3(1654)年に月谷(ツキヤ)村の田島藤兵衛が奉納した物です。
《絵馬 銘酒玉の井繁昌の図》〔足利市指定文化財〕。現在の足利市通三丁目に当たる銘酒「玉の井」を醸造する和泉武右衛門経営の造り酒屋が繁盛する様子を描いた絵馬です。江戸時代後期に新井勝房(アライカツフサ)が描いた物です。
西門〔栃木県指定文化財〕です。
本瓦葺素木造の四脚門で、本堂と同時期の鎌倉建築と推定されています。
西門付近の土塁と水堀です。
境内では早咲きの紅梅が咲いていました。
快晴だったので、青空に良く映えていました。
日本水仙も咲いていました。
こちらはペーパーホワイト水仙です。
北門〔足利市指定文化財〕は解体修理中で撤去されていました。
元は鑁阿寺十二支院の一つである千手院の山門でしたが、大正7(1918)年に鑁阿寺北門として移築されました。
《続く》
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