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2022年12月29日00:23

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保守ウヨのマペット、杉田水脈

古谷経衡の丁寧な論考を一言でまとめれば「杉田水脈=保守ウヨのマペット」という話。
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いくら保守ウヨでも直接には言いにくい、タブーに触れる「本音」を代弁するのが杉田の役割であり、それを買って出ることで保守ウヨ村社会のスターになり、故・安倍晋三らの寵愛を受け、ついには政務官にまで上り詰めた(?)わけだ。強烈な日本人・男性・中高年中心社会の保守ウヨ論壇に登場する女性や外国人はだいたい皆この類だが。
                                  
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なぜ杉田水脈氏は差別発言を繰り前したのか? 〜”ホシュ村”への過剰同化の危うさ〜
古谷経衡

 杉田水脈総務政務官が辞表を提出した。表向きは自発的とも報道されるが、事実上の更迭では、という観測もあり、いずれにせよ遅きに失した感は否めない。杉田氏は、辞表提出に際し、性的少数者やアイヌ民族を巡る発言以外は撤回しない考え等を示すとともに「真意が中々理解されないことがあったが、差別をしているわけではない」などとも釈明した。とはいえ本人が何を言おうが、杉田氏があからさまな差別表現を続けてきたのは事実だ。

・杉田水脈氏はネット右翼の中でも「後発組」〜後発がゆえの過剰同化〜
 杉田氏の世界観を、典型的なネット右翼(ネット保守とも)と呼ぶのであれば、同氏の活動は2014年を端緒(杉田氏は、維新→旧次世代の党で落選してのち、ネット右翼に極めて親和性の高い発言や著作を発表し、その下野中”2014年〜2017年”に急速に認知度を高めたのち、2017年の衆議院比例中国で優遇されて当選を重ねてきた経緯がある)としており、「決して古参」の分類ではなく、明らかに「後発組」だ。

 この業界の中で最も古参とされるのは、民社党(民主社会党・旧社会党右派から分裂等)の西村眞悟氏への熱心な支持者などからなるグループ(旧民社グループ)であり、或いは『新しい歴史教科書をつくる会』などの支持者で、いずれも1990年代からの伝統的な活動歴がある(これを業界的には”古典派”ないし”第一期ネット保守”などと言う)。2000年代ですらなく、2014年という10年代中葉(2022年から考えても10年を経過していない)から活動を始めたのだとすれば、杉田氏のネット右翼歴は比較的新しく、まさしく「後発組」と言えるのである。杉田氏の一連の差別発言問題等は、「杉田氏が長年そういった主張をしてきた」のではなく、「ここ最近言い出した」ことにこそある。これを私は「保守村(ホシュ村)への過剰同化」の典型事例ではないかと思うのである。

 杉田氏の発言は、明らかに既存のネット右翼が長年持っていた世界観の強化バージョンである。とりわけ同氏の発言等が独自のものでも発展させたものでもない。既存のネット右翼が憚らず本音として持っていた部分を拡大再生産させたかなりの部分が杉田氏の世界観には厳然としてある、とみてよい。つまり杉田氏の世界観は独自の価値観ではなく、既存のネット右翼的世界観の強化版にすぎないということである。

 はてさて過剰同化とは、ある特定の共同体に対して、後発に参入するものが「生き残り戦略」ないし「より手っ取り早く承認されたい(常に注目されたい)欲望の実現」のひとつとして往々にして採る態度とされる。例えば日本社会に後から帰化した外国人が、「自らがより日本人=既存共同体の新たな構成員」であることを強く示して共感を得たいがために、「より日本人らしく」(例えば―和装したり伝統文化に勤しんでいることを過剰に喧伝するなど)振舞う―、などと言うのがその一例である。勿論、この逆も然りで後からアメリカ社会の市民権を得た移民が、ネイティブ、つまり元から住んでいた人々からの共感や承認を得たいがために、市井の生活の中で「よりアメリカ人らしく(誰よりもアメリカナイズされた生活態度等)」振舞い、積極的なアメリカの対外戦争やタカ派的価値観に参画していく、などの事例が見られる。

・「受け入れられるための過剰同化」問題

 仰々しくなったが、過剰同化は何も「日本⇔外国」の場合だけに起こるのではない。すでに共同体の構成員の流動性が乏しく、確固とした秩序が完成されているある種の階層に「後発」の者が入っていこうとすれば、一番手っ取り早い手段こそが過剰同化なのである。何かしらのサークルや、なにかしらの政治勢力にあって、「後から入り込もうとする」人間は常に劣位である。当たり前のことだが、「ずっと前から活動をやってきた」古参の人間の経験にはかなわないし、既存のメンバーには「新参者のくせに何を言っている」と警戒されるからだ。

 そういった拒否感、警戒感を払しょくして、なおかつ既存の共同体の一員として承認される一番有効な手段は、「既存の共同体の構成員よりも、より強く過激な意見を主張する」という姿勢である。もちろん既存の政治的共同体の中にも、過激な主張をするものはあるが、活動が長くなればなるほど広範な共感を得にくいので、そういった「尖った主張」は鈍磨する。要するに、ある特定の共同体の構成員を長くやればやるほど、それが政党であれ、文芸サークルであれ、市民団体であれ「中道」に寄っていくのだが、後から唐突にその共同体に参加しようとするものからすれば、そういった穏健を追認するだけでは既存の構成員に広く、爆発的には認めてもらえない。なぜならよそ者だから、という負い目があるからだ。

「お前はよそ者なんだ」という既存の共同体構成員からのレッテルを跳ねのける最大の飛び道具が過剰同化である。「確かに私はよそ者だけど、あなたたち以上に理念に共感しているんだ!」として過激な物言いをして、既存の構成員から望外の歓心を得ようとする。こうすることで承認欲求は満たされるばかりか、自らがそのサークルの中で爾後有利な政治的立場になることも約束される可能性が高い。これが過剰同化の本質だ。

 そしてこの新参者の過剰同化にコロッと共感してしまうのは、既存の共同体構成員の中にある「もともと持っていた過激な部分」ということこそ、彼らの本音だからであり、新参者がその代弁をしてくれているからだ。共同体の中でのみ活動が長くなっていくと、そういった過激な主張を全面に出していると支持が広がらないというジレンマに陥り、穏健路線に修正する。既存の共同体における人間関係や歴史、秩序、上下関係などを飛び越えることのできる「新参組」こそ、彼らの「本当は言いたい本音」を代弁する機能がある。こうして、後発組は過剰同化を遮二無二発露して、「後から来た人間がでしゃばるな」というレッテルを帳消しにし、共同体の秩序の中において「もはや言いづらくなった」ことをズバズバと言ってくれる「新星・新風」に強烈に期待・承認することになるのである。

・「ホシュ村」の中で生き残るためには

 保守業界(ホシュ村、保守村とも)は、巨大なムラ社会である。私の過去論考等にもあるように、全国的にはその規模200万人〜250万人程度であるが、国政政党として考えるとそれがすべて比例票に振り分けられたとしても、例えば社会民主党の2倍程度、れいわ新選組と同等程度なので、必ずしも巨大な存在とは言えない。とはいえ全く零細・弱小といわけでもないから、その中でさまざまな秩序を有するのである。

 保守業界は基本的に60歳以上の高齢男性が寡占しており、その頂点には全国紙『産経新聞』と月刊論壇誌『正論』があるが、元来非産経系の『WiLL』『Hanada』なども勢いがあり、実際には業界の中で主導権争いがある。まったく新興のDHCがここに乗り込んで『虎ノ門ニュース』などが絶大な人気を得た経緯があるが、親会社の都合によって急変するので、それも不変ではない。

 比較的若い世代(50代以下)が、こういった村社会、業界の中で栄達を考えようとすれば、基本的にはジャーナリスト路線か過剰同化路線しかない。ジャーナリスト路線は自衛隊や神社などを丁寧に取材してきた経験を積み重ねて連載や単著を出す、という風になるがなまじジャーナリストとしての中立性が邪魔をして「保守業界大絶賛」の記事を連打するわけにもいかない(とはいえ最近ではそれをかなぐり捨てる人もいる)ので、下手をすれば10年単位の時間がかかる。もともと名のあるコメンテーターの場合はこの限りではないが、経験と実力が最終的にはものをいう。

 これに比して、こういった「下積み」をジャンプないしは限りなく短縮して業界内での人気を高めることのできる方法こそ過剰同化である。肩書は、現職或いは前(国会地方を問わず)議員・元議員・非常勤講師・経営者・元公務員・著述家・ブロガー・ユーチューバーなど、そこまで高いハードルではないが、それさえあればひたすら「既存の構成員が言いたくても言えない本音」を主張する。

 これによって共同体から「よく言ってくれた」の認知度が高まる。近年、杉田氏を含めて、誰とは言わないが近畿圏での地方議員などもこの手法を用いることが有意に観測されるようになった。共同体から多くの賞賛を得ようとすればするほど、後発組は既存構成員よりも「より過激で、より尖って、より垂直的な物言い」を躊躇なくすることで歓心を買おうと腐心する。過剰同化はこのように既存の構成員に受け入れられ、共同体の側からすると「新しい人が入ってきてくれた」という事実をもって留飲を下げることができる。しかし実際には、旧態依然とした構造を「疑似外部(者)」から是認されているだけで、何も変わっていない。

・常に「過剰」を期待され…

 過剰同化の結果、共同体から受け入れられて認知され、構成員として受け入れられた人はその後どうなるのだろうか。過剰同化が怖いところは、最初の動機はあくまで「共同体に受け入れられたいから」というリップサービスを何割かでも含んでいることを「自分が自覚している」ところだ。過剰同化路線をなぜ採るのかと言えば、共同体に迎え入れて欲しいという承認欲望があるからなのは当たり前だ。その結果、共同体の一員になれば、理屈上としてはこれ以上の過剰同化は必要が無いとなる。いったん共同体の構成員になってしまえば、その後は穏当で穏健な路線に進んでいけば現実的という評価もされる。

 しかし、過剰同化の過程でその人を支持したものは、「同化」の後も過剰を期待する。彼らの側からしたら、業界に同化したのは良いが、その後も「過激なことを言い続けてくれる存在」としてしか認知しないからである。そうすると困ったことに、過剰同化の結果、共同体の一員になったとしても、「過剰」の部分は抹消されないまま存続される。「常に過激なことを言い続けてくれる仲間」としての役割が固定化され、その路線を修正することができなくなる。こうして過剰同化により共同体に迎え入れられた人間は、よほどのサプライか何か(政治環境の激変等)がない限り、永久に「過剰」な役割を期待されて、それに応えないと政治的生命が危ういという自己強迫観念にとらわれるのだ。

 杉田氏がこの通りとは言えないが、仮に同氏が2014年から突如、保守業界という村社会に過剰同化し、議員復活(比例中国)後も、この路線を捨てきれなかったのだとすれば、全ての辻褄があうとは思えないか。既存の保守層は、杉田氏に「現実的な路線、穏当な路線に修正しろ」などとは全く思っていないはずである。「下野時代もこれからも、私たちの本音を代弁してくれる存在でないと、支持・認知しない」という有形無形の圧力(支持者の反応)があったのかもしれない。実際、ネット右翼から相当の支持を受けた稲田朋美代議士が、、LGBTQへの親和的な姿勢を見せただけで、「保守業界から総すかん」を食らって怪文書まで出回る騒ぎになったことは記憶に新しいのであるが、これが示す通り、過剰同化の結果業界に入った人には、最後まで過剰が求められるのである。

 杉田氏が今後どのような道を歩むかは分からないが、よく言えば彼女は「保守業界の寵児」であったのであり、それが故に必然的にあらゆる場面で「過剰」を求められる役割を担ったともいえる。勿論、「そんな評価や承認などは必要が無い。自分の評価は自分で決める」などと超然的に開き直れば、そもそも杉田氏は議員になっていない(保守系作家やコメンテーターとしての活動の目は十分にあっただろう)のであるから、こんな騒動も起こらなかったともいえる。つくづく、保守業界(ホシュ村)に消費されたのかな、とも思うが実際は同氏の今後の去就にもよるところも大であろう。
(了)

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