山道を歩きながら、いろんなことを思った。
チベットのこと、国境や国家、法華経のこととか宗教のこと、私がめざす合気道は?とか、一人でいる意味は?とか、過去のことや家族のこととか。
いろいろ。思いは涌いては消え消えては湧いた。
呼吸と合わせて足を進める步行は瞑想だった。
以下は、そんなもののひとつ。
『あなたに言われたくない』、と言われた。
歳下のお坊さんに。
言われたのは、ルンビニでの法要準備している時で、もうだいぶ経っているけれど、
どうにも気にかかってしょうがなく、ツラツラ考えているのです。
言われた頃は、正直なところムカッパラたっていて、その人への批判的反感しかなかったけど。
今では、そう言い返してきたその人の心理をおよそ理解できる、と思っている。
つまりは、その人に、もっと認められたいとか評価されたいとの思いがある、けれど、それは満たされていない、だから、自分への批判に反発してしまうのだ。
あるいは、そもそも私を見下していたのか??まぁ、私に対して尊敬する気持ちがあるとは、明らかに思えないわな。
しかしながら、それにしても、どうも理解しがたい気持ちが拭えないでいる。
じゃあいったい誰からならいいというのだ?とか、いったいにどういうわけで出家したのだ?とか。アレコレ。
三宝に乗せるミカンのピラミッドを作ろうとしていた、その際、事前にO上人から、左右バランスを考えて同時進行でやってください、といったことを言われていた、にも関わらず、その人は自分勝手にさっさと作業を進めてしまって、私の方を気にもしなかった。
案の定、私の方に大きめのミカンは殆どなくなっていた。
だから私は注意した。それに対しての反応が、気にすることないよみたいなものだったから、私はつい言ってしまった。
『◯◯上人て相変わらず人の言うこときかないよね』と。
そうしたら、『あなたに言われたくないです』、ときた。
そもそも、全く、なんら、少しも、O上人の言ったことと私の方を、全然気にもしない、その態度が腹だたしい、と思える。
その人は、おそらく、協調性はないに等しい。他者との協同作業はできない!
何しろ、自分勝手にやってしまう、それで注意されても聞く耳をもとうとしないのだから。
最初に注意した私への対応で、もう少し柔軟な口利きすらしなかった。
『あ〜〜それじゃ大きめの少し其方へ』とか。
私に対する無礼な口利きも甚だしい、気もする。
その人は、尊敬に値すると自分が思える人とそうではない人との、対応の落差が大き過ぎると思える。
実際に、そういう態度をその後見かけている。
いったいに、なにゆえ、僧侶をしているのか?&なぜに出家した?と疑問に思えてしまう所以。
日蓮宗の、南無妙法蓮華経の、骨子たる但行礼拝は、全ての人に仏性があるとして、その仏性に尊敬礼拝する、人々との和合を通して平和を祈る、そういう但行礼拝を修行していくものと、私は理解している。
その、但行礼拝すべき宗派のお坊さんが、なんたる態度をとるのであろう。
全くもって、無礼も甚だしいと言うほかあるまい。
それでいまだに海外を行脚して回っているというのだから、なおさら、なにをやってるのだ??と、思えて仕方がない。
まぁ、前記した様に、私の言葉が、その人の地雷を踏んでしまったものと、そんな様に思えるけれども。
全く、いろんなお坊さんがいるもんだと、つくづく思う次第。
しかるに、言葉に気をつけて、むやみに敵をつくらぬようにした方がいい、との自分への教訓として、良く覚えておきたい。
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