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2022年10月25日12:18

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シンエヴァ。〜アディショナルインパクトと4体のアダムと4本の生命の木〜

フォト






シンエヴァンゲリオンをまた、
なんとなく、
一部シーンだけ見たんですけど

個人的な感想の追加ですが、、


たぶん、
監督さんが目指したのは
「神話からの解放と、人類の可能性」
っていうテーマがあったん
じゃないかと。


エヴァンゲリオンって
「ナウシカの続きみたいなもの」って
監督さんが言ってたんですよね。


ナウシカって映画しか
知られてないんですけど、、、

実は、漫画がハンパなく
すんごいんですけど、
そこにも似たようなテーマ(モチーフ)
があったと思います。

ミラレパ(神秘家)とかも出てたしね。



で、シンエヴァのなか
映画の中で、
アディショナルインパクト
というものがありました


四つのインパクトのあとに
人類の希望の槍で
作る未来みたいな


で、
話がちょっと変わるんですけど


西洋の神秘学の中では

アダムとイヴがいて
生命の木っていうと
知恵の木のが生えてて
その知恵の木のリンゴを食べた

って話がありますよね


あれ、寓話(意味がふくまされた話)
なんですよね


本当は、
4体のアダムがいて、
生命の木も4本あるんです


一般には
知られてないんですが、

4本の木は、
身体、魂、霊、神性さ
と対応しています


象徴的な意味だと思っても
良いと思うんですが

これが、
「汝は呼ばれ(神性)、
創造され(霊)、
形造られ(魂)、
形作られたり(身体)」

に対応しています。

で、
アダムの状態は、
この四つの木、
四パターンにそれぞれ
対応していて

この四つの木を
駆け上がる中で、
神性との合一がなされていきます。


この神性への到達の道を
西洋の神秘学であるカバラは
探究していたのでした。


それは、4本の木を
浄化していくなかで
到達していく
ある境地

カバラでは、
光の巨人として
寓話的に語られますが

要は、遍在する自己たちを
現していると思ってみてください。


で、面白くなってきたとこで
映画に戻ってしまうんですけど 笑


おそらく、神話がもたらした
あらゆる争いを止めるために
この四つの可能性意外を求め、

神話の外に出て、
新しい可能性から
再度、作り替える

ってのがテーマになってたと
思うんですね、個人的には。


ただ、
「ちょっと待たれぃ」
っていうのが
神秘の探究をやってる人からすると
あると思います


芸術家たちが
神秘学に触れて
行うのは、


宗教的神話と
その弊害、
そしてその画一性と窮屈さ
そして世界観という信念体系

への警鐘と
打ち破ることと
乗り越えること


を提示すると思うんですが


それは、思想について
ある論理体験についてであって

《神秘そのもの》
ではありません


水の味についての
論理体系をけんけんがくがく
語って、その論理について
あらゆる批判をしたとて

飲めばわかることは
違います


神秘について
その中に入ることと

その外に確立された点(観点)
から論じたり、考えたり
する事とは違います


哲学することと、
その源流にある
ヤコブベーメの
「直接の神性の体験」とは
違います


なので、
そのロジカルさで
外に確立された視点から
いくら論じようと

その人の
プロットされている場所は、
論じて考える以上、
外にしかありえないわけです

青春してた人と、
青春についてあれこれ考えた人とでは

青春の只中にいる経験が
あるなしになってしまうことと同じです


で、この手の
哲学にしろ、神秘家を分析する
学問にしろ、

外にプロットされた点から
論理的に観察して
ロジカルで説明し、
納得、あるいは批判するプロセスは
違うものになります。


人生を生きた人と、
人生はどんな感じが外で見る
霊?との違いです。


プロットされた点が
神秘に直接入るとき

人生そのものが神秘に
まさに入ったとも言えるかもしれません


最終的に、ブッダは、
神秘そのものとなり
プロットされた点は
遍在するあらゆる点というか

その点がはじまるまえ
宇宙が始まる前と終わる後にすら
そんざいすると思われる

そのものになったと
思われるわけです


ここんとこ、
色んな学問で洞察する時代が
あったと思いますが

あくまでも、
プロットされた点は
外にあって、
直接には識る、ここでは
味わうのほうがいいかもですが、
それは出来てないわけです。


なので、
頭は詳細に分析し、
バラバラにし、
論理立てて、形成しますが

そうじゃ無いわけです

それでは、慈しみが
溢れる気持ちや、増える事、
優しくしたい気持ち
などは育めないこともあるでしょう


「頭が人」だと思ううちは、
それをヨシとするかもですが、
おそらく、ブッダからすれば
知性がすべてだと思い
それに囚われている人は
未熟なものなのかもしれません


ここまで話して、
どこでエヴァンゲリオンに
戻るねん

って事なんですが。

エヴァンゲリオンって
何語かで「福音」って意味なんです


とすると、
シンエヴァンゲリオンの
シンも同じように
何語かの意味があるんかな?
っていうと


シンは、隠されたヘブライ語の意味は
全知全能の神なんです

全知全能の神の福音。

とも言えるわけです


ここで、映画の中の
新世紀の意味
アディショナルインパクトの意味

を当てはめると


「新しき時代への全知全能の神の福音」

とも、なるわけです。
(そうとも言えるってだけね)



けれど、実は、
神秘の話で言えば

確かに新しい時代がこれから来て、
これまでの余計なものも
去って行って欲しいけれど


神秘そのものの
源流についていえば、

キリストの神性の中心地
そのものの源流についていえば、

変わってないわけです

それが創り出した神話と
余計ないざこざと
その宗教観で作られた世界に
嫌気がさしたり
馴染みがなかったり

色々するとは思いますが


大切なことは、
ずっと永遠のいまここにあって
それは失われることは無かったわけです


神秘を見すえた
離れた点から
語られた
あらゆる余計な宗教観が
押し流されれば

4本の木の
手がかりも
消えた轍(わだち)となり


そこには、
見上げ、思い馳せられ、考えられた
誰も傷つかず、私という個性を消して
一つになる世界なんかではなく


考察された神秘学ではなく

神秘そのものが残ります


この《神秘そのもの》は、
悠久の時の前から存在していた
永遠であり


これにのっとっていえば、
真芯は、すでに
ぼくらのなかにあり

指針は、未来にしかれるよりも
永遠によって包括され

それは、人格神みたいな
聖者に投影されたイメージを
拡大したものですらなく

その中心地は、
学問や、思想になる
というよりむしろ


《傾向》として
洞察されることでしょう



たしかに、時代は、
アディショナル(プラスアルファ)な
追加の可能性へ向かって
開かれねばならないかもですが


神秘の中心には、
神話を否定せずともよく
それすら内部に内包する

ある巨大な
あらゆることの存在を許す
世界観というモチーフに
ふくまれてるわけです


なので、
言いたいことは、

確かにプロットされた視点から
洞察された乗り越え方も
あるかもだけれど

神秘学そのものを否定しなくてよく

神秘学の中心にある
神秘の叡智そのものには
時代を導いてきた何かがあり
知恵があり

それを
中国の古代の賢人
老子は、道と呼びました


神秘学のなかにも
その道を促進し
守る叡智があるんだよ

って言いたい

それは、外面的な
ロジックを破壊してしまう
事ではなくて

世界観を超えた
世界感を超えた

神秘の中心にある

とある力学とでも
とらえてみて欲しいって
事ですね。






※ちなみに
アダムは、知恵の実を食べて
エデンの園から追い出され
毛皮をまとって、
この世界に来たという話は

4本の木に連なる
アダムが霊の世界から
毛皮(この人間の肉体)をまとい
この地上世界にきたという話です


知恵がつけられる機能はあったけど、
永遠性(肉体のない神的な)を
失った人類という見方です

永遠性とは、1番上の木である
アツィルトの木。
つまり、その頂点にあるナニカ


アインや、エンと名のつく
神性界の頂点の名称

これらを構造学としてみるなら
旧約聖書の合理性も
ただの物語いじょうのものが
見てとれるのかもしれません。

その世界観は、
仏教にも貫通しています


神秘の貫きは、
おそらくカタチをもたないがゆえ
真性の宗教の本質にも
貫いているのでしょう。


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