mixiユーザー(id:12898330)

2022年08月01日00:45

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ピダハン語

ピダハン語には複文や数の概念がないらしい?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%80%E3%83%8F%E3%83%B3%E8%AA%9E

具体名詞から抽象名詞や、高度な文法や、数などを表す言葉を人間が獲得する過程はおそらく、それらの言葉で指し示したほうがコミュニケーションがうまくいくケースがあったたために、そのような言葉を「うまく言ってみる」試みが周囲の賛同を獲得し周囲も真似して使うようになってやがてその社会でその新しい言い回しが共有されるようなプロセスを経るのではないかと想像している。
逆に、いままで「不足していた」あたらしい品詞や文法を新しい言い回しの形で使ってみる試みに対して「うまく言い当ててる」という賛同が得られなければ、周りの人から重宝されず、社会全体で共有されるように至らず、結果としてその社会はその品詞なり抽象名詞なりあるいは複文のような文法を獲得するに至らなかったのではないだろうか?

ちょっと違うかもしれないが、従来までうまく言語化できないけど、何とかうまく言い表せる言い回しがなくて悶々としているところに、ある文化人やコピーライターやあるいはお笑い芸人が「まさにそれ!」って言い回しを「発見」あるいは「発明」して使う試みをした際に、ある社会集団やある世代の中で共感されて流行語あるは流行の言い回しとなってやがて社会に定着するということを繰り返して言語は今日のように高度化したのではないだろうか。

「数」という概念に関して言えば、自分の財産である家畜や収穫した農産物の正確な数を把握して倉庫に保管して来年までストックしておいて後から見直してストックの増減を正確に把握したいというニーズが無ければ数えたり計算するのに便利な数や演算などの概念をその社会は獲得しなかったであろうと想像する。
つまり肥沃なアマゾンのジャングルの中に合って、彼らは腹が減ったら果実や獲物を「比較的」労せず獲得し、在庫をストックして冬を越す必要もなかったたためにニーズがなくて過去を温ねて未来のために計画するという行為自体が賛同を得られずこのために要請される「数」の概念を獲得しなかったのではないかと俺は勝手に想像する。

恐らくは最初の人類は身の回りにある物質名詞に対して自分の声帯から発する音の組み合わせを対応させて言い当てる試みをする者がそれぞれの社会に現れてその試みが便利だということでその人の周囲に居る人に共有されて、親せきや友達や隣の集落の人との何からの共同作業の際にそれぞれの物と言葉の対応関係をそろえる(あるいは翻訳)するようになって共通語なども生まれてより広い社会の言語となったのだと俺は思う。
やがて、物質名詞だけではコミュニケーションではうまく言い当てきれずに悶々とする事態があって、より複雑な意思伝達を成功させるためにだれかが「うまく言い当てる」試みを発見もしくは発明することが何段階も起こって今日のようにどの自然言語もたいてい備えるひとそろいの品詞、文法、数、演算などの一そろいのセットを獲得したのではないかと俺は想像する。
そして、その一そろいのセットとは、今日のどの地域の言語どうしでもお互いに「翻訳」しあえる事実がから推論されるように、「十分成熟した言語」にはそのために備える基底に当たる文法要素がもれなく定義されるに至ったのだと思う。
このことから逆に「十分成熟した言語」とはホモサピエンスの言語野の鋳型から生み出せうるフルスタックな言語要素というものが(多分形式科学的な見地で)存在することも想像しえると思う。

もちろん、よくわかんないけどw
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