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2022年07月12日21:42

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不思議の国のダギャー

実世界がもしもっとも整然としててシンプルだったなら、実世界は「無」であるべきではなかったのか?
なのに実世界は究極的なシンプルでなく整然とはしてなくてとっ散らかっていた。そのおかけでオイラもこの実世界に存在できるわけだが・・・

そして適度にとっ散らかっていた実世界は、なぜか徹底的にカオスではなかった。
つまりいくつかの蓋然性がなぜか備わっていた。
似てる物事もあった。
実世界には上記のような蓋然性がいくつか備わっててときどき何かと別の何かが互いに似てたりしていた。
このような実態がなぜかあった実世界には、観察される対象としての実世界の側と、観察する側であるヒトなどの生物の側と、さらに観察者と観察対象の中間に在って観察者が観察対象を模擬する「モノ」が「存在」した。
この最後の模擬する「モノ」とは形式科学と呼ばれる科学が解明しようとしている対象そのもので、模型、レゴブロック、水彩絵の具と画用紙、粘土細工の粘土、電子ブロック、プログラム開発言語、あるいは自然言語、そして数学などが実例だと思った。

水彩画の絵の具が模擬する対象は2次元平面に投影した風景や映像で、水墨画が模擬する対象はそのなかで映像の明暗だけで、レゴブロックが模擬する対象は立体形状だった。そんでいずれも模擬する道具は形ある物質で実世界に落っこちてた原材料を人間が創意工夫と改良を重ねて磨き上げて獲得した。

言語や数学は模擬もしくは記述する対象はときに形のない概念だった。(もちろん形ある物も対象に含むが)
それは自然法則、手続き、感情、備忘録などを書き留めた。さらに言語や数学は言語や数学自身も再帰的にかき留めた。これらの言語や数学も人間が長年かけて建設してきた。

模擬できるモノって模擬する対象と模擬するモノを互いに対応付けて考えられる「似てる」性質をうまく発見して活用してることに特徴があると思う。
ある範疇内の多様性ある実対象を網羅的に模擬しつくせるモノを人間は対象とする範疇ごとに何種類か発見&発明してきた。この模擬が対象の範疇全体を網羅するってことは言葉で言ってしまえば簡単だが多少分析的に見てみると、模擬するモノが有限個の道具に対して範疇内の模擬対象を網羅するということは模擬対象が無限のバリエーションや様相をもっていたとしたら、その過程に模擬対象を有限個の道具で取り扱えるように模擬ツールの側が模擬対象を模擬する上での基底を備えていることが観測される。(そうでなければ無限のバリエーションを模擬するのにやはり無限の道具が必要となり人間では無限個の道具を使いこなせないので有限の要素に無限を還元する必要があるので)

蓋然的な実世界が存在すること、オイラが実世界に存在し我思うこと、そしてそれらすべての有様を書き留め写実的に模擬し得る「モノ」が存在したこと
このいずれもが不思議なことだと思うダニ

思えば実世界ってすげえ中途半端だよね。
究極的な調和な「無」が一番シンプルなのに「何か」があった。
次に調和をとれるケースなら完璧なカオスだろうと思うがなぜか実世界には「中途半端な規則があった」
単純な生物から順番にこの多様な実世界に各々の仕方で適応した。
ヒトはヒトなりの仕方でこの実世界に適応する過程で複雑な情報を生み出し加工し記憶できる脳を器官として獲得しつつ、それで実世界でヒトが生存するために認識しうるいくつかの範疇を網羅しうるフルスタックな基底となる器官を備えるまでに進化した
実世界とヒトの中間に「存在する」言語や数学を発見するに至り、これをさらに改良し生活圏のほとんどの問題を解決する過程を模擬できるまでに洗練させるに至った。
実世界は一見複雑に見えながらそのくせ中途半端に蓋然性があり、違いがある者同士であってもときどき似てたために、人間は似てる性質を物質同士だけでなく物質と論理あるいは別々の論理どうしにも発見しその類似性を上手に使ってありとあらゆるものを少数の形式と結びつけて考える方法を発明した。
論理の実体は何か?
なぜ人は「無」と「有」とか「多い」と「少ない」とか個数とか量のような概念を認識しえたのか?
ヘレン・ケラーはなぜ「水」とwaterという単語に対応関係があると気づけたのか?
謎が解けない


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