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2022年04月28日01:28

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4/27(水)旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国崩壊30年 コソヴォ紛争 ボスニア紛争 大セルビア主義と大アルバニア主義

4/27(水)付け 本題 旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国崩壊から丁度30年(前編)

 目次
・第1章 1992年4月27日、新ユーゴスラビアの成立後の厳しい船出
・第2章 コソヴォ自治州を巡る歴史
・第3章 大セルビア主義のミロシェビッチ大統領による政策

 今回紹介するのは、かつて6つの共和国で構成されたユーゴスラビア連邦社会主義共和国である。4月27日は、丁度社会主義の連邦体制が崩壊して30年の節目にあたる。1918年12月に成立した前進国家から2022年までの104年分の歴史を考察する。前編、後編から成る。
 
 第1章 1992年、新ユーゴスラビアの成立後の厳しい船出
 
ユーゴスラビア連邦社会主義共和国は、7つの国境、6つの共和国、5つの言語、4つの民族、3つの宗教、2つの文字を持つモザイク国家と呼ばれていた。同じ社会主義国のソヴィエト連邦とは、二次大戦後、早くから決裂し、交流はなかった。

 1985年にソ連時代の最後の指導者ゴルバチョフ書記局長が就任すると、言論や報道規制が緩和され、東欧各国に民主化の波が押し寄せた。ソヴィエトを構成した15の共和国は、1991年に相次いで独立を宣言する。ソ連の直接影響下になかったユーゴスラビアを構成した国々も、ナショナリズムの高揚により、連邦から離れる動きが高まった。

 1991年6月にスロベニアとクロアチア、92年3月に北マケドニア(当時の名称はマケドニア)、ボスニア・ヘルツェコヴィナが、独立宣言した。

 写真=旧ユーゴスラヴィア連邦共和国の地図 http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/W-map/Balkan.html
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 セルビア共和国と隣接するモンテネグロ共和国の間では、連邦維持に合意に達した。両者は、連邦結成前の1878年に、オスマン帝国から独立して以降、互いに協力しながら、バルカン半島内で一定の地位を築いてきた間柄である。人種や言語もほとんど変わらず、宗教も同じく正教徒が中心だった。1992年4月27日に、社会主義を放棄した「ユーゴスラヴィア連邦共和国」を結成した。国連への議席は一つ、共通議会は、国民による直接選挙により、立候補者から選ばれる。定数126のうち、セルビアから91議席、モンテネグロから35議席である。人口比は1000万のセルビア共和国に対して、モンテネグロ共和国は65万である。通貨に関して、セルビアはディナールを、モンテネグロはユーロを採用した。国家の中心はセルビア共和国であるものの、モンテネグロ共和国にも大統領職を認めた。

 外交の中心はセルビア共和国が担い、新連邦共和国の結成にあわせて、クロアチアとボスニア・ヘルツェコヴィナには、軍を派遣していた。軍事行動の目的は、それぞれの2つの共和国内のセルビア人の保護である。セルビア人の多くは、連邦維持派で、独立派と対立していたのである。

民族間での戦争の最中結成された新ユーゴスラビア連邦共和国は、国際社会から制裁をくらっていた。かつての構成国に対する独立運動に介入したことにより、スポーツ大会を含め、参加資格を停止されていたのである。民主的な西側諸国から阻害され、バルト3国を除く旧ソヴィエト連邦から成るCIS(独立国家共同体、93年1月に遅れてジョージアが加盟)とも距離を置いていた。国際基金へのアクセスが禁止され、財政不足に陥り、経済活動は大きく停滞する。長引く軍事活動により、戦費が重なり、物不足と通貨安が原因でインフレを招いた。1994年には1ヶ月で物価の上昇が300万倍に達した。インフレに歯止めがかからない中、通貨自体を消滅させることで、決着をつける。モンテネグロ共和国は、2000年11月13日に、法定通貨としてマルクを採用した。セルビアは、西暦2003年に、通貨をユーゴスラヴィア・ディナールから、セルビア・ディナールへと切り替えた。新ユーゴスラビアは、発足当初から、国際的に孤立し、厳しい船出になったのである。クロアチア紛争は1991年に始まり、92年2月に国連により国際連合保護運が派遣され、小康状態になった。セルビア人とクロアチア人は、共に歩み寄れず、95年11月11日のエルドゥート和平合意まで続いた。

 対して、ボスニア・ヘルツェコヴィナは、1995年11月21日のオハイオ州デイトンでの協議にて、国家の行方が決まった。当時のセルビア共和国の大統領スロボダン・ミロシェヴィッチ、クロアチア大統領のフラニョ・トゥジマン、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチと同国外相ムハメド・サツィルベイが参加した。同年12月14日にフランスの首都パリにて、正式に合意文章に対して、調印が行われた。第4付属書で作成された憲法により、セルビア人から成るスルプスカ共和国と、クロアチア人とボスニャク人が主体となるボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦に分かれたのである。共和国と連邦の境界線に位置するブルチコ行政区は、中央政府直轄領となった。

写真=ボスニア・ヘルツェコヴィナの行政区分 掲載元みなののんびり旅ブログより
https://ameblo.jp/mina-a0619/entry-12071816630.html
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 セルビア人の宗教は正教徒、クロアチア人はカトリック、ボシュニャク人は、イスラム教徒だった。紛争時、連邦維持派の正教徒セルビア人に対して、カトリックのクロアチア人とイスラム教徒が多いボシュニャク人が手を結び、戦ったのである。ボシュニャク人は、10世紀半ばから14世紀末までバルカン半島で普及したボゴミル派から、オスマン帝国の侵攻により、イスラム教へ改宗した歴史がある。正教徒からボゴミル派は異端と断定されていた。

協議においては、アメリカが仲裁に入り、セルビア人と、クロアチア人とボスニャク人は和解にいたった。一つの共和国と一つの連邦により、国家「ボスニア・ヘルツェコヴィナ」を形成した。和平合意によると、民族間の対立を避けるため、権力を分散する。新憲法第5条により、最高峰のボスニア・ヘルツェコヴィナの大統領評議会において、連邦からボシュニャク人とクロアチア人の2名、スルプスカ共和国からセルビア人の1名をくわえ、計3名が代表者に選ばれる。任期は4年、8ヶ月ごとに輪番制にて、一人あたり16ヶ月大統領職に就く。終戦後、民族間の目だった争いは起きていない。いまだにセルビア人と、クロアチア人、ボスニャク人との溝はいまだに深い。ブルチコ行政区では、民族間で棲み分け、それぞれ別々の教育を受けている。和平合意後もセルビア人に対し、ボスニャク人とクロアチア人は接触を避けながら、社会生活を営んでいる。

    第2章 コソヴォ自治州を巡る歴史
 
さて、セルビア共和国とモンテネグロ共和国から成るユーゴスラビア連邦は、結成4年後から少しずつ分離に向けた動きが進んだ。1996年にモンテネグロが新通貨マルクを採用し、翌1997年にモンテネグロの大統領選にて、連邦維持の是非が争点となった。1962年2月15日産まれの当時35歳だった独立派のミロ・ジュカノヴィチが当選し、セルビアに対して、共和国としての権利拡大を求めた。決断を後押ししたのは1997年から1999年まで2年にわたったコソヴォ紛争にある。イスラム系のアルバニア人が人口の92%に達するコソヴォは、北部のボイヴォディナと共に、セルビア共和国内の自治州だった。
 
写真掲載元 セルビア料理よりhttps://e-food.jp/map/nation/serbia.html
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社会主義連邦時代の1990年に、セルビア共和国の大統領に就任したミロセヴィッチ時代に、コソヴォへの締め付けが強化された。既に1989年にセルビア共和国内の憲法改正により、コソヴォとヴォイヴォディナの2つの自治州は、大きく権利が奪われていたのである。大セルビア主義を掲げる大統領は、中央集権型を目指していた。コソヴォは、目立った主要産業はないとはいえ、セルビア人にとっては故郷だった。コソヴォ自治州の長を、親連邦維持派にすげ替え、配下に置いたのである。
 過去を遡ると、コソヴォの土地は、セルビア人が主体の国家だった。文献によると、8世紀にヴラスティミル朝がセルビア公国を建国した。西暦822年にはアドリア海に面したダルマティア(現クロアチア)まで領土を広げ、870年にキリスト教を受容した。

 以下 ウィキペディア ネマニッチ朝から引用文 写真転用

「10世紀半ばには、アドリア海沿岸のネレトヴァ川、サヴァ川、Morava、シュコダル湖に広がる部族連合へと発展していった[6]。
ヴラスティミル朝の最後の当主の死後、領国はばらばらになった。ビザンツ帝国がこの地域を併合し、1040年にヴカノヴィッチ王朝のセルビア人がDuklja(Pomorje)で反乱を起こすまで1世紀の間支配した[6]。1091年、ヴカノヴィッチ王朝は、ラシュカ(ザゴリエ)を拠点とするセルビア大公国を建国した[6]。2つに分かれた地域は1142年に統合された[6]。
1166年、ステファン・ネマニャが王位に就き、ネマニッチ朝のセルビア支配が始まった
セルビアはネマニッチ朝の時に最盛期を迎えた。セルビア王国は1217年に建国され、1219年にセルビア正教会が設立された。同じ年に、聖サワはセルビアで最初の憲法を発表した[7]。
皇帝ステファン・デュシャンは1346年にセルビア帝国の建国を宣言した。デュシャンの統治中、セルビアは領土的にも政治的にも経済的にも最盛期を迎え[6]、ビザンツ帝国の後継者であると宣言し、当時バルカン半島で最も強力な国家だった。ドゥシャン法典として知られる広範な憲法を制定し、新しい交易路を開拓し、州の経済を強化した。セルビア中世の政治的アイデンティティは、この王朝の支配と、セルビア正教会によって支援され育てられた成果によって、深く形作られてきたのである[8]。
ステファン・デュシャンはトルコの脅威に対抗するために教皇との十字軍を編成しようと試みたが[9]、1335年12月に突然死亡した。帝国は息子のウロシュに引き継がれたが、ウロシュは弱者と呼ばれ、帝国も徐々に封建的な分断に陥っていった[3]。これは、アジアからヨーロッパに拡がり、ビザンツ帝国を征服し、その後バルカン半島の他の国々を征服するオスマン帝国という新たな脅威によって特徴づけられた時期だった。」
                                 引用終わり

 ネマニッチ王朝時代、コソヴォ自治州も領土に組み込んでいた。自治州の西部ペヤのルゴヴァ渓谷には、世界遺産に指定された赤色のレンガで建てられた修道院がある。緑一色に染まった林の中で、格調の高さが際立つ。西暦1346年にセルビア正教会がコンスタンティノープル(現イスタンブール)の総主教庁から独立したことにより、大主教座から総主教座へと格上げされた。

 写真 掲載元 GOTRIP!2017年10月13日付け https://gotrip.jp/2017/10/73940/
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 ネマニッチ朝断絶により、諸侯の間で権力を廻る争いは避けられなかった。王国から公国へと格下げされた。国の混乱に乗じて、西方への版図拡大を狙うイスラム系オスマン帝国が領土へと踏み込んだ。1389年6月5日には、正教徒対イスラムの宗教戦争の意味合いも強いコソヴォ平原での戦いが起こった。セルビア公ラザル・フレベリャノヴィチは、現クロアチア全域まで支配を広げていたボスニア王トヴルトコ1世と共に、スルタンのムラト1世と王子ヴァヤズィッド1世が率いるオスマン軍と戦った。世紀に残る決戦は、ムラト1世、ラザル・フレベリャノヴィチ等両君主が命を落とした。

写真=コソヴォの戦いの風刺画 ウィキペディアより
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セルビアには、民族叙事詩に残る英雄が登場する。公に仕えていた騎士ミロシュ・オビリッチが、ムラト1世の謁見の最中、剣を振りかざして、暗殺したのである。同時代の資料には書かれていないとはいえ、フィレンツェ共和国、セルビア王国、オスマン帝国、ギリシャの文献に書かれている。19世紀にセルビア教会では、聖人として列せられた。
 戦いは、オスマン帝国の勝利に終わり、父の後を継いだバヤズィッド1世によって、セルビア王国とボスニア王国は支配された。オスマン帝国に服属する代わりに、正教は保護される。コソヴォの地は、セルビア正教徒が中心だった。
 セルビア人の行方を左右したのは、西欧で絶対的な地位を築いたハプスブルク家の政策にある。ハプスブルク家は、神聖ローマ帝国時代、1523年のスレイマン1世によるウィーン包囲を耐え抜いた。1683年に宰相カラムスタファによる第2次ウィーン包囲により、再度危機に陥った。神聖ローマ帝国のレオポルド2世の呼びかけにより、コソヴォに住む正教徒が、ドナウ川の対岸へと移り住み、オスマン帝国からの国土防衛に当たった。第2次ウィーン包囲から継続する形で、1698年まで、対オスマン戦線を張ったロシアのピョートル1世、ポーランド・リトアニア共和国王ヤンソヴィツキが、神聖同盟を結成して、戦争に挑んだ。大トルコ戦争において、神聖同盟側の勝利に終った。1699年のカルロヴィッツ(現クロアチアの都市)条約により、神聖ローマ帝国はハンガリー、クロアチアのダルマティア、トランシルヴァニア(現ルーマニアの地方)を獲得する一方、コソヴォはオスマン帝国に残った。正教徒がいなくなった土地に、オスマン帝国側はアルバニア人を入植させたのである。現在のコソヴォ問題の発端となった。
 
2度目の転機は1877年から1878年にわたった露土戦争にある。汎スラブ主義を掲げるロシア皇帝アレクサンドル2世が、セルビアとモンテネグロの独立を後押した。1878年のベルリン条約により、オスマン帝国の主権から離れ、王国として認められた。。コソヴォを含めたアルバニアは、オスマン帝国領内にとどまったままだった。同1878年にコソヴォの地でアルバニア人によるプレズレン(都市名)連盟を立ち上げ、権利を主張する。現にベルリン条約により、アルバニア人居住区の一部が、モンテネグロとセルビアの2つの王国に割譲されていたのである。
 1912年10月から1913年5月まで7ヶ月にわたった第1次バルカン戦争によって、ようやく独立の機会が訪れた。オスマン帝国に対して、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシャのバルカン同盟が、勝利を収めた。戦争後のバルカン半島の行方を決める1913年5月30日のロンドン会議に、前年に独立を宣言したアルバニアの代表も参加権利を与えられたのである。出席者イスマイル・ケマルが、アルバニア人の居住区を国家としての承認を求めた。イギリスが仲裁に入った会議により、歴史的経緯からコソヴォは、セルビア王国を中心に、一部モンテネグロ王国へと組み込んだ。セルビア人は、コソヴォ・メトヒヤと呼ぶ。メトヒヤは、国土の西部の盆地のことをさす。アルバニア人が権利を主張するイピロスは、1887年のベルリン会議で決められたとおり、ギリシャが領有することになった。アルバニアは、独立国家として認められながら、民族統一の目標を果たすことが出来なかったのである。アルバニア人としても民族の結集の地コソヴォは、獲得を諦められなかった。セルビアが後に自治州とするコソヴォ・メトヒヤに住むアルバニア人は、1918年12月に、セルビアが中心となった第1のユーゴスラビアといえる「セルブ=クロアート・スロヴェーン王国」時代にもそのまま残った。民族主義者は、アルバニア本土とコソヴォ、ギリシャのイピロスを含め、一つの国家「大アルバニア」を主張する。コソヴォ、スルプスカ共和国を含める「大セルビア主義」と激しく対立した。

 サッカーの国際試合で顕在化した。2014年10月15日に、セルビアの首都ベオグラードで、EURO2016予選I組 第3節 セルビア 対 アルバニアのゲームが行われていた。0対0のスコアで進んだ前半42分のことだった。ピッチの上空からドローンによって持ち上げられた大アルバニア旗が風によってはためいていた。プレーは一端中断し、次第に高度を下げるドローンの行方を、両選手ともみつめる。ホームのセルビアサポーターは、騒然とする。会場には、かつての紛争経緯から、アルバニア系住民の入国は禁止されていた。手荷物検査もしっかりと行われる。ドローンが、ピッチ上に大アルバニア旗を置くと、セルビア人選手が、手荒く丸め込み、返還を求めるアルバニア人選手を無視した。旗の行方を巡って両選手の間で小競り合いが起こる。アルバニア人選手に敵対意識を持ったサポーターが、セルビア人選手に加担し、アルバニア人選手に対して暴力行為を行った。スタンドから発炎筒が焚かれ、投げこまれた。主審や副審の指示により、アルバニア人選手を先にロッカーへ下がるように指示を出す。試合は中断したまま再開されることはなかった。主催するUEFAから両国共処分が下された。不服を唱えて、両国共オランダにあるスポーツ仲裁裁判所に訴えた。CAS(スポーツ仲裁裁判所)は、試合中断の原因は、本拠地セルビア側のサポーターの暴動にあると判断した。セルビア側の管理責任を追及したのである。UEFA(欧州サッカー連盟)は、判決を受けて、新たに裁定を下した。試合は3対0でアルバニアの勝利、セルビアから勝ち点3を剥奪した。さらにセルビアには、ホーム開催2試合を無観客、10万ユーロ罰金処分を言い渡した。対して試合中にドローンを飛ばしたアルバニア側は、来賓席で試合を観戦していた当時のラマ首相の弟の関与が指摘されているものの、裁判の争点にはならなかった。アルバニア側にも混乱の原因を作ったことにより、UEFAによる10万円の罰金処分は、CASから妥当との判決が下された。

 詳細 写真掲載元 AFP BB NEWSより 2014年10月15日付け https://www.afpbb.com/articles/-/3028897?pid=14610443  CC BY-SA /Darko Dozet
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 UEFAの裁定が予選の行方を大きく左右した。5カ国が属したグループIで、アルバニアはポルトガルに次ぐ2位となり、初のEURO本戦出場権を手に入れた。対して、没収試合で負け扱い受けたうえに、勝ち点3を剥奪されたセルビアは、プレーオフラインの3位デンマークより下回り、4位で予選敗退したのである。EUROでは2020年大会は、アルバニアもセルビアも本戦の出場権を逃した。Wカップに関して、セルビアは、2018年ロシア大会に次いで、2022年のカタール大会の出場権も獲得している。

 第3章 大セルビア主義のミロシェビッチ大統領による政策

 さて、1992年4月27日に、新ユーゴスラヴィアが発足時、コソヴォ自治州内では、イスラム教を信仰するアルバニア人の間で、1989年に民主連盟が結成されていた。連邦内では非合法とされ、参政権は認められず、厳しい監視下に置かれていた。初代大統領を務めたのは1944年12月2日産まれのイブラヒム・ルコヴァ(以下写真 ウィキペディアより 2004年2月撮影時)だった。穏健派の彼は、インドのガンジーに倣い、非暴力主義を訴えた。コソヴォ建国の父と評され、2006年1月21日に61歳で亡くなるまで大統領を務めた。
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1997年にミロセヴィッチは、セルビア共和国内での大統領職の任期切れにより、ユーゴスラビア連邦の大統領に鞍替えした。アルバニア系住民が多いコソヴォを代表して、ルコヴァは、ミロシェビッチと交渉に臨むものの、自治権回復には至らなかった。セルビアとの対話が難しいと判断したアルバニア人の過激派は、ついに行動を起こす。麻薬や武器の取引で財を成し、海外を拠点に活動していたアルバニア・マフィアの支援の元、セルビアからの独立を目指すコソヴォ解放軍が武力攻撃に打って出る。同1997年2月に、自治州の過激派コソヴォ解放軍が、武力を駆使してセルビア人殺害事件を起こした。自治州内の聖堂も破壊行為が行われていた。神に対する冒涜、セルビアに対する敵対行為と判断した連邦政府は、討伐軍を派遣し、コソヴォ解放軍と戦った。戦況は泥沼化し、セルビア軍によるアルバニア系住民の無差別殺害が指摘された。事態が長期化するにつれて、NATOが介入するにいたった。初めに紛争が始まって1年後の1992年2月6日に、フランスの首都パリ郊外のランブイエ城にて、セルビア大統領のミラン・ミルティノヴィッチが出席し、NATOのハビエル・ソラナ事務総長の和平に対する提案を受けた。連邦大統領のミロセヴィッチは首都ベオグラードに残り、ミルディノヴィッチに予め指示を出していたことは明白だった。NATOが突きつけたのは、コソヴォ自治州をNATOが統治する、NATO兵士の連邦内での無条件での通行等、4項目であった。
 セルビア側は、態度を保留にし、戦闘を続けていた。当時のロシアのエリツィン大統領が、セルビア側に加担し、NATOに合意案の修正を求めたのである。
 NATO側も、武力介入自体は避けたかった。コソヴォ自治州内での戦闘激化を危惧して、ついに決断を下す。1999年3月24日に、ついに「アライド・フォース作戦」と題したセルビア軍の軍事施設に限った空爆を行った。4月には、コソヴォ自治州内のアルバニア人保護を名目に、軍を派遣した。圧倒的な軍事力を誇るNATOに対して、セルビア軍は圧倒される。セルビアとの関係が深いエリツィン大統領と共に、中立のフィンランド側もミロセヴィッチに、NATOの和平案に応じるように働きかけた。

写真=NATOによる空爆を受けたセルビアの自治州ヴォイボディナの州都ノヴィサドの町 CC BY-SA /Darko Dozet
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6月11日に、ミロセヴィッチの降伏により、NATOの軍事作戦は終了したのである。翌6月12日には、NATOの治安部隊がコソヴォに駐留した。セルビア側は、事実上コソヴォ自治州に対する意思決定を行えなくなった。ヒューマン・ライツ・ウォッチ(アメリカに本部を置く国際人権団体)によると、90回のNATO軍の爆撃で、488名の民間人が犠牲になったとの見通しを発表した。 一連のNATOの武力介入により、コソヴォは実質ユーゴスラビア連邦共和国から離れた。紛争において、連邦内の政治体制に、多くの国民が反感を抱く。西暦2000年の連邦大統領選挙にて、ミロセヴィッチは再選を果たしたものの、不正疑惑が指摘された。反ミロセヴィッチ派の国民が、選挙の無効を訴えて、暴徒化する。一連のブルドーザー革命により、ミロセヴィッチは退陣した。大統領職を失うと、不逮捕特権の効力も無くなる。ミロセヴィッチは、コソヴォ紛争によるアルバニア人虐殺の嫌疑がかかった。身柄を旧ユーゴスラヴィア刑事裁判所(オランダ・ハーグに設置)に移され、人道に対する罪で起訴される。裁判所に所属する検察の証拠集めに難航し、裁判開始まで時間がかかった。2006年3月11日、拘置所の独房の中で、心臓発作によって死亡が確認された。64歳だった。一方で1992年から95年に起こったセルビア人司令官ラトコ・ムラディッチ被告は、2017年11月22日に、終身刑の判決が下された。起訴された11の罪状のうち10件で有罪となった。2011年にセルビア内の農村で身柄を確保され、翌2012年の公判開始経て、6年の歳月を費やした。1995年に、7000人のボシュニャク人とクロアチア人が無差別に殺害されたスレブレニツァの大虐殺の主導的な役割を果たしたとみられている。今なおボスニア・ヘルツェコヴィナでは、紛争の傷跡が残っている。
 詳細 BBC NEWS 2017年11月23日付け https://www.bbc.com/japanese/42090766

 1992年4月27日に発足した新ユーゴスラヴィア連邦は、社会主義時代から続いた民族問題を抱えていた。1990年にセルビアの大統領にミロシェヴィッチが就いたことにより、イスラム系アルバニア人が中心のコソヴォとの間で、亀裂が深まった。アルバニア本国側は、コソヴォ解放軍の支援に直接関わってはいない。1997年に国家ぐるみの犯罪行為ねずみ溝により、経済が低迷すると、国内で暴動が起こった。失業者らが、給金目当てに解放軍に加わったとみられている。後編では、モンテネグロの行方、また1918年の前進国家の結成まで遡り、第2次世界大戦後に現れたカリスマ指導者チトーの政策についても考察する。

 参考文献
ユーゴスラヴィア現代史 柴宜弘著 岩波新書

以下 ウィキペディア
ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国
コソヴォの戦い


 



 
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