mixiユーザー(id:4209164)

2022年04月01日11:16

28 view

空海と、カバラ。

フォト


〈前回の「魂の学校」の記事に
ちょっと、対応してます)


この2つは、
個人的に見て、すごく
似てる部分がある気がしていて。
 
 
空海は、
顕教(けんきょう:目に見える教え)と
密教(みっきょう:目に見えない教え)を
ある本で語っているのだけれど
 
その深い部分では
共通の部分があるように思う。
 
それは、
〈流れ〉自身に、責任と
影響力を持つことに
端を発してる事のように思う。
 
 
時代時代によって
神秘家は、永遠の今と
合一する事を述べた
 

–なぜ、教えが必要なのか???–
 
 
空海の密教の深い部分では
永遠の今としての
遍在である事から
まず始まって
 
それは、個を
ある創造(たとえば地球)の
内側に創造することで
 
ある種の力を用いて、
流れそのものに
影響を与える

与えるというか
促進するものだと思う
 
 
つまり、
永遠の今

と言うものがある
 
そして、
個を創造すること
 
と言うものがある
 
 
その上で、遍在の応用は、
 
「流れているパターンを
促進する個として
何が出来るのか??」
 
 
という
新たな問い
が出てくると思う。
 
 
空海が説く
密蔵(みつぞう)が
極めて理解困難なのは
 
永遠の今との合一を
示していないからだ
 
それは、
さらに踏み込んでおり
 
 
通常、
無について語る人
(ほぼ、知的に行き詰まり、勘違いしてる人)
にも、知的な理解は不可能であろう
 
 
なぜ、理解できないのか?
 
それは、
微妙なニュアンスになるけれど
 
まず、生命として実像として
遍在的に立脚することも
わからないし
 
その〈流れ〉に責任を持っている個
というニュアンス自体が不明で
あるからだと思う


〈伝統的教え〉が
永遠の今 に合一することを
ゴールとしていたのなら
 
空海は、なぜ
そこをゴールとして捉えないのか?

なぜ、そこの存在に
指をパチンと鳴らし気づかせ
 
先に進ませようというのか?
(空海の「秘密曼荼羅 十住心論」より)
 
 
もちろん、その教えもある
 

けれど、なぜ空海は、
さらに密教を提示したのか??

永遠の今と
合一した後に存在として
する事があろうか?

真の合一を識る者からすれば
それは、ある種のゴールだった
のかもしれない
 
しかし、
何が提示されうろうとするのか?

空海が示したことは

そこがゴールではないと
さらに道を示した

それは、日々続くこの
創造(現実世界)についての
さらに深い理解と
 
責任を持つ自己を
創造する事で
さらなる促進が可能と成り得ることを
理解したのだと思う
 
 
このニュアンスの部分は、
通常、顕教(言葉に現せる教え:けんぎょう)
では不可能と語っていると思う
 
 
空海は、
遍在を持つ身体〈身密〉を
さいど、世界にも持つ事に
端を発して
示していたのでは無いかと思う

それは、
創造に関する
一連の再理解と

存在に関しての
進化のようなものだったと思う


なので、
誰もついていかれなかった
のかもしれない

それは、永遠の今との合一ではなく
その応用であったと思う



その存在は、
個人として強烈に個を立脚させるが
同時に遍在としての生命曼荼羅を
その法身とし、
 
同時に、二者を取る中から
始まるのかもしれない

わからないが、
個人的に思う、言える事は


それは、
文明の創造に関して
責任を持つ
 
強烈な個として
生命曼荼羅としての
この世界に立脚しており
 
その強烈な立脚から成された
応用の技は

良く、その文明の
生命曼荼羅としてのタオを
促進するだろう
 
 
それは、
曼荼羅に精通しており、
曼荼羅に浸貫(しんかん)し、
生命に寄り添っていて、
生命の真隣(まとなり)
にいる優しさがあり、
 
生命に対して
文明に関して
さらなる目覚めを促進するために
優しさを持っていた

「永遠の今の気づき」を
得てもなお
生命の苦しみに寄り添いあった結果

熟考し、
さらなる一歩を踏み出し
永遠の今との合一を果たした
永遠から離れた

永遠から離れる事で
創造世界に降り立つが

創造世界は、もう一度、
観察され、熟考された

敢えて、
永遠の今という
真理から離れて
(もちろん縁は残る)

立脚した個から
再び理解された
 
 
創造を促進する個としての
立脚は、まだあったのだと
 
バラバラの生命として
遍在的に立脚しながら
考えられたのかもしれない
 
 
なので、
空海は、(空海が言う)密教を

最後に持ってきたのではないだろうか



※空海が言う
十の心の成長のなかで

●第八 一道無為心(いちどうむいしん)
●第九 極無自性心(ごくむじしょうしん)


この2つの心は、
悟りを得た(人間)の
覚者の在り様(ありよう)だと、
読めば分かるかもと思う。



●第十 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)

ここの心を持つ者は、
一般的には知られていない

それは、あの時代であれば

空海という名になるのだろう。
 
 
この地球に、日本に
その時あった小さな点を
空海と呼ぶのなら

この空海が何を行なったのか?
が鍵になる事と思う。
 
 
曼荼羅精通者が
曼荼羅として遍在的に
実像として立脚を行う時

その身体は、
まるで巨大な何かを模すようでもあり
 
それは、
時間と空間という創造に対して
なんらかの影響力を
与える可能性があるのかもしれない。
 
 



※ちょこっと詳しく(Wikipediaですが)

『顕教』
衆生を教化するために姿を現した釈迦如来が、
秘密にすることなく明らかに説き顕した教え。
 
『密教』
真理そのものの姿で容易に現れない
大日如来が説いた教えで、
その奥深い教えである故に
容易に明らかにできない秘密の教え。
3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する