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2021年11月20日02:25

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空海について想うこと。

の動画を撮ろうとしてるんだけども



空海の著書を読んでいると、

とんでもなさに気づくって思う。



多くの人は、
四国のお遍路とかのイメージがあると
思うけれど

空海についての本とかも
読んだことあると思うけれど


空海の語ったことって
ほとんど知られてないと思う。



空海が書いたものを
読むと


ここまで精緻に吟味されて
推しはかられ、
書かれてるものに
圧倒されると思う
 


吽字義(うんじぎ)という
本があって


阿吽(あうん)の呼吸の

うん の字


に注目した本で
その中で
空海は一大体系を述べてるのだけど




これが非常に興味深く
仏教用語でクラクラするかもだけれど
あたりまえなので
ジャンジャン飛ばしながらでも
眺めてみてほしい。



「吽字(うんじ)の中に
訶字(あじ)があり、
これは因縁の意味であります。

こう考えれば、因縁によって生ずる
あらゆる教えが含まれていますし、

それらの教えも、外道(仏教以外の教え)、
二乗(声聞乗と縁覚乗、南方仏教、小乗仏教)
及び大乗諸教が含まれ、

それらの教えがそれぞれ勝手に主張し合い
争い合って自分の教えこそ最もすぐれているといい張るのですが、それはいずれも
正しくないのです。

外道、二乗、大乗諸宗で、
人有り、法有り、因あり、果あり、常あり、我ありといって有に執着していますが、これらは麼字の一点(空点)の中におさまってしまうものです。

これらは有に執着するという意味で
増益の一辺に片よってしまっていて、
いまだ中道の正観を得ておりません。


またこれと逆に
人無し、法無し、因果無し、
常なし、我なしなどと断定するのも
これも無の一辺に執着しているのであって
中道に立っていないのですが、


こうした種々の見方は
すべて汙字の一点の中に
含み尽くされているのです。

もし空に非ず、有に非ず、
非常、非断、非一、非異などに執着する見方は、
阿字の中の非の義(前出)の中に
含まれるものであり、

不生、不滅、不増、不減などの
いわゆる八不に執着する見方は、
阿字の中の不の義(前出)の中に
含み尽くされております。

さらにまた、
無色、無形、無言、無説などと
執着している見方は、

これも阿字の中の無の義に
含まれ尽くしているのです。

そしてこれも真実の義とは言えないもので、
これらは皆、すべてを否定しながら
真実に迫ろうとする立場であり
極端な見方であります。

これらの偏見を持った人々は、
この世における真言密教の密号とか
名字のありさまとか、
大日如来の真実語とか
如義語を知らない者たちなのであって、

彼らの用いる
あらゆる言説、思惟、修行
といったものは、
みな正しくないといえるのです。
あえていえば誤っているのです。

最も奥の深い
真言密教の教えを知らないからです。




--角川ソフィア文庫の訳より」




これは、
空海が言わんとしてるところは、
世の中にある

無を主張する人や
虚無主義など


さまざまな教えの中で
偏りがあり、本意気ではなく

真実ではないってのを
語ってるのだけれど


途中の道半ばにいるものたちが
多く陥ってしまうことを
そうではないと語っている


もちろん空海は、
真言密教なので
大日経ゆらいの密教の重要さを
語っている



そして、個人的に思うのは、
空海の理解はもはや、

通常の
遍在の体験的理解(悟りの本懐)を
もってしても近づけないもので
あるように思う



まず仏教に惹かれる人は、
空(くう)を知り、
それを目指すと思う


それは、ある生命が
生命自身の本質を問う中で
生きた学びの中で進んでいく

そして、
空で在りたいと思い

それを想い目指し
一体化しようとする


そして、空の思想ではなく

悟りそのものに貫通する事で
そこがゴールだと思う


もちろん、切り離された
個体生命が
その命の本懐である

悟りを得る事は、
ゴールだろう


しかし、その遍在性を立脚にすると
そこはゴールから
通過した存在への光輝な道に
変わると思う


ここで、存在は、
ある理由から、
その場を離れようとする

(さらに大きな責任を担おうとする)

ときに、

自分が経た境地すら
離れようと思う

遍在を横に置いといて
再び熟考する


そして、思い立って
マンダラ(遍在的な命たち)から
離れて

独り、再度
離れたところで
存在を確逸(かくいつ)する



つまり、マンダラ(遍在性)を
識ってはいるが
離れた個人として
世界に降り立つ


なので世界は
カラフルな極彩色にみえる

空と極彩色が
一致している


つまり、存在が
人間の思念を離れる中で
ついに得た繋がりを

バラバラの世界に
切り離された遍在から離れた自己として
完全に見出す


無色の中に見つけようと
己を空しくして
みつけようとしたものを


完全な個人の中で
あらゆるものに見出す


ここで行われる身技には
ジャンプがある


ここを空海は、
真言密教という立場で
捉えて使っていたかと思うが


遍在を目指す
世界においては
理解される事はなく


空海は、遍在性が体得され
とうぜんの世界から
来たかのようだ




遍在性を、目指す
世界線においては、
悟りが目指され


遍在性を、常用のものにする
世界線から来た者は
悟りが応用される


それは、遍在に執着しない

それは、遍在を
身技に困る事で

世界の目覚めを促進しようとする



なので、空海は、
在る こと について
多感に喋ってないと思う


これは、空海は、
さらに上の世界線というか
世界観から来た可能性が
あるように思う


それは、遍在性という
世界の中に
自己を創り出し

マンダラ(遍在性)の
身技を持って
行われる一連の
行(ぎょう)に思われる



しかし、これ以上語るのは

空海が
顕行(けんぎょう:言葉で表せられる教え)
ののちに

密教(言葉であらわせない教え)
を置いたように


理解や、知的理解という
浅はかなもの を超えて

機根(きこん: 向いている事)
がある者にふさわしいのだと思う




思う、、、が
この空海の世界観と立脚は、
あらゆる宗教においても参考に
なると思う


あらゆるものを包含できる
ある特殊な立脚が
あの時代にあった

その地球における点
その小さな場所に存在した
名前を 空海と呼んだのだろう


時代は、まだ、
気づかない


しかし、真言密教の優先を
とくのではなく(自分は無宗教なので)


彼の示した指針は、
とんでもない域にあり

時代が彼の指針を
正着として
学ぶ時代が来ると思う


それは、
到達すること ではなく

到達した生命が
他の生命に出来る
あらゆることを熟考した結果


歩んだ歩みにもたらされた
ある特殊なタオと
言えるのかもしれない。



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