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2021年11月16日10:40

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ねぇおじーちゃん − 久保田耕民に捧ぐ 最終話

 もうひとつだけ、祖父の死にまつわる明確な記憶がある。
 耕民は文化人であったし、人間関係も広かった。著名人の知り合いも多かった。だから親類縁者による密葬(自宅で行われた)と本葬と、2度の葬儀を行っている。密葬に私が参列しないことはあり得ないが、本葬はお別れの会的なものであったのかもしれない。大きな別の会場を借りて行われたが、その日、私には何かの所用があり、それを済ませてから会場に赴くことになっていたのだが、道に迷ったこともあり、到着が大幅に遅れてしまったのであった。私が慌てて会場に駆け込んだとき、既に式典は終わっており、屋外に多くの人たちが並んで集合写真を撮っているところであった。
 「間に合った。早く早く」と誰かに急かされ、私も列に加わり、写真屋がシャッターを押してフラッシュが光ったのだが、その途端、皆が「おーーっ!」とどよめいた。何が起こったのだ? 怪訝な表情の私に、誰かが事情を説明してくれた。
 私がなかなか現れないので集合写真の撮影は見切り発車ということになったのだが、写真屋が何度シャッターを押してもフラッシュが閃かず、撮影ができなかったのだと言う。原因がわからず、カメラマンも途方に暮れていたらしい。けれども私が列に加わった途端、フラッシュが閃いた。
 「あぁ、耕民さんは可愛い孫が着くまで待たしてはったんやなぁ」
 そんな情緒的で超自然的な話が本当に起こったのかどうか私には未だにわからないが、先にも書いたように、子ども好きであったはずの祖父に姉や私は遊んでもらっていない。 よその子どもの相手はしても家父長が我が子や孫と仲よく遊ぶような時代ではなかったのだろうと、姉は言う。私にはそれが正鵠を射ているのかどうかもわからない。けれども恐らく私が感じていた以上に祖父は私たち孫のことを大切に思ってくれていたのであろう。

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        祖父は最後に何を思いながら命を閉じたのか。
      
 今、祖父のあれやこれやを思い浮かべながらここまで駄文を弄し、その感はさらに強くなる。姉や私が祖父との間に存在した紗を思い切って潜り抜け、もっと祖父に甘えていたら祖父ももっと私たちと遊んでくれていただろうか。私にもっと記憶を遺してくれていただろうか。ねぇ、おじーちゃん。
 遥かな祖父への尽きぬ思いには到底釣り合わぬほど、私の記憶は乏しいのである。生前の祖父を知る人はもう片手で数えられるほどになった。耕民の作品や功績は遺り続けるであろうが、やがて姉と私も潰え、生きた耕民の記憶を持つ人は途切れるであろう。それが無性に寂しく、誰の目に触れる訳でもないが、書き記しておきたかった。
 もっと成長した自分で祖父との時間を共有し、ゆっくりと語り合ってみたかった。今はそれが心残りである。

 私はおじいちゃんが好きだった。我が祖父、久保田耕民を誇りにしている。

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                 (完)
                 
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