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2021年11月13日11:29

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ねぇおじーちゃん − 久保田耕民に捧ぐ 第11話

 話は耕民の生前にもどるが、耕民は有秋会という、画風に捉われない自由な画壇を創設し、主宰していた。有秋会は毎年秋に、天王寺の市立美術館で展覧会を開く。私たちは祖母に連れられ、開催中、よく会場へ足を運んだものである。私は絵を見るというよりも、美術館の中で遊び回っていたというところであろうか。当時の私にとって美術館とは絵画に親しむ場所ではなく、遊び場でしかなかった。天王寺の美術館の佇まいは今もあの頃と少しも変わっていない。
 その有秋会展の打ち上げだったりしたのであろうか、ときどき祖父の広い画室は宴会場に変異した。会員の画家たちや花柳流の踊りのお師匠さん、芸者さんたちも参加する、賑やかな大宴会であった。私も覗きに行ったものだが、幼い私は「耕民先生のぼん」と芸者さんたちにペットのように可愛がられたものであった。

      フォト
    これはずいぶん古い写真のようで筆者は写っていない。

 その有秋会のメンバーと、合宿であったのか宴会であったのか、日生町の鹿久居島へ祖父に連れて行ってもらったことがある。何歳のときかはは憶えていないが、1960年代であったろう。おぼろげで極めて限定的な記憶の中に、ドラム缶風呂に入ったことや画家たちが立小便をしている姿、蝦蛄(シャコ)の殻を皆で苦労して剥いた場面が遺っている。
 一般的な旅館でなかったことは記憶の欠片からも明らかである。ドラム缶の風呂、立小便、蝦蛄の殻剥き、そんなことを客にさせる宿はあり得ない。一体どんなところに泊まったのか。露営などという活動的なことをする年齢や人種とは思えないし、そんなものが流行っていた頃でもない。ずっと不思議に思っていたのだが、耕民の作品を展示している加古浦歴史文化館の学芸員さんが、今はもう建物も遺っていないが、かつて誰かの別荘か何かがあったのだと教えてくださった。きっと耕民も画家たちも私も、そこに宿を借りたに違いない。
 いずれにしても祖父は、有秋会の主催者として、他の画家たちに慕われていたと思う。つきあいの深かったメンバーには私も可愛がってもらったものだし、何人かはお名前も憶えている。耕民と年齢的に似通った人が多かったので関係に上下はなく、自由で平らなつきあいという印象であったが、祖父は若い画家たちからも同年配の人たちからも一目置かれているように感じた。
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