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2021年11月11日00:23

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新宮・熊野市紀行13 産田神社 / 熊野市歴史民俗資料館

 10月9日土曜日はJR有井駅から、伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)・軻遇突智尊(カグツチ)等を祭る産田(ウブタ)神社〔郷社〕を目指して西北へ向かいました。
 途中、有馬本城跡〔熊野市指定史跡〕がありました。
 https://www.google.com/maps/@33.879847,136.0819579,17z
 鎌倉時代に有馬氏によって築かれた平城です。有馬氏は熊野別当家の出である榎本氏がこの地に来て産田神社の神官となり有馬氏を名乗ったとされています。
 南北朝時代には当初南朝方でしたが、後に幕府方に転向し、永徳2(1382)年に北山合戦で兄弟三人とも討死してしまいました。
 応永年間(1394〜1428)の有馬和泉守忠永の頃には、東は九鬼(クキ)・行野、西は阿田和(アタワ)までを領する国人領主に成長しましたが、その子有馬和泉守忠親に嫡子なく、甥の河内守忠吉を養子として跡を継がせました。忠親は鬼ヶ城に隠居しましたが、後に実子が生まれたため、忠親は忠吉を自刃させています。この仕打ちが親族の怒りを招き、北山郷の者と協議して忠親の鬼ヶ城を攻め落としたため、忠親は自刃に追い込まれました。その後、忠親の実子孫三郎が家督を継ぎましだが、孫三郎にも子がなく、新宮の堀内出羽守氏重の二男楠若を養子に迎えて忠勝と名乗らせました。しかし、天正2(1574)年、堀内氏重父子が病没したため、忠勝は堀内家の家督も継ぎ、堀内安房守氏善と改名、南紀州一帯を制覇する戦国大名に成長したのです。有馬氏の名跡は氏善の五男氏時が継ぎました。
 有馬本城跡は田畑や宅地となっていて明瞭な遺構は残っていませんが、北を除く三方に一段低くなった畑があり、堀端などの地名が残っています。
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 周辺では背高泡立草(セイタカアワダチソウ;Solidago canadensis var. scabra)が沢山咲いていました。最近の研究によると、この花が秋の花粉症の元凶だとの話は濡れ衣だったそうです。
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 産田神社に到着しました。
 https://www.google.com/maps/@33.8785599,136.0801576,17z
 
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 「産田」は産所の意です。『日本書紀』には、伊奘冉尊が火の神である軻遇突智を産んだ時に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に埋葬されたと記されており、産田の名称は伊奘冉尊の出産した場所を意味しています。また、付近に位置する花窟(ハナノイワヤ)神社が、亡くなった伊奘冉尊の墓所であるとされているのです。
 産田神社の創立は人皇第10代崇神天皇〔位;97B.C.〜30B.C.〕の御代だとされ、長承元(1132)年には人皇第75代崇徳天皇が産田神社へ行幸した事が『熊野年代記』に記されています。
 古代の祭祀の場である神籬(ヒモロギ)の跡が本殿の両側にあり、祭祀用土器も出土しているため当社境内は「産田神社祭祀遺跡」〔熊野市指定史跡〕となっています。境内周辺は弥生式土器の出土する津の森遺跡でもあり、太古から信仰の場所となっていた可能性が高そうです。
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 永正18(1521)年霜月14日の棟札〔熊野市指定有形民俗文化財〕には「奉棟上産土神社二所大明神」とあり、『紀伊続風土記』よると「二所大明神」は伊弉冉尊と軻遇突智尊の二神を指す事から、当初は伊弉冉尊と軻遇突智尊が祀られ、後に夫神である伊弉諾尊が併祀された模様です。
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 天正年間(1573〜92)に近隣の安楽寺が兵火に掛かった際、社殿が延焼してしまったため、社宝や由緒書が焼失してしまい、古代・中世の詳細は不明になっているのです。
 慶長5(1600)年に権中納言豊臣秀頼から二王門が寄進され、享保17(1732)年には紀州藩主の権大納言徳川宗直より灯籠が寄付されて社殿が修復されました。
 明治40(1907)年には政府の神社統合策によって村内の小社5社を合祀したため、天照皇大神(アマテラスオオミカミ)・大山祇命(オオヤマツミノミコト)・木華開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)・神武天皇も祭神に加えられています。
 当社では、神事の最後である直会(ナオライ)の際に、汁かけ米飯・骨付きさんま寿司・赤和え(アカイ;生魚の唐辛子和え)・神酒からなる奉飯(ホウハン)と呼ばれる膳が振舞われる儀式が古来行われて来ました。
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 このため、当社は「さんま寿司発祥の地」とも称しています。
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 当社の社叢〔熊野市指定天然記念物〕は暖地性植物の宝庫でもあります
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 宇迦之御魂神を祭る摂社稲荷神社です。
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 拝殿です。伊弉冉尊は多くの神々の母である事から、古くより安産・子授け・子育ての祈願が行われて、周辺住民の信仰を集めて来ました。
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 昭和4(1929)年再建の本殿です。屋根に鰹木のある神明造となっています。
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 本殿前には白石が敷詰められており、土足厳禁となっています。靴を脱いで歩くのは痛かったです。ww
 また、安産祈願の際に目を閉じて拾った石が丸いと女子、細長いと男子が産まれるとされています。Hな発想ですね。ww
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 産田神社西側には産田川が流れます。
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 ここから来た道を引き返し、有井駅東方にある熊野市歴史民俗資料館へ赴きました。入館は無料です。
 https://www.google.com/maps/@33.877491,136.0827862,17z
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 一階では主に先史時代・古代史関係の展示が行われています。
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 花の窟木版画〔熊野市指定文化財〕です。
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 天保15(1544)年の作です。
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 二階では主に近世・近代関係の展示が行われています。
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 有馬忠親の居城だった鬼ヶ城です
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 江戸時代の紀州藩奥熊野代官所付近の絵図です。
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 国鉄時代の有井駅駅名標です。
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《続く》
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