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2021年11月10日13:56

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11/10(水)11月10日でナゴルノ・カラバフ紛争停戦合意1年、アルメニアとアゼルバイジャンの歴史(前編)1922年のトルコ革命と共に1991年のソビエト崩壊を振り返る その他水族館のチンアナゴについて

11/10(水)

東京都のすみだ水族館は、同水族館が認定した11月11日のチンアナゴの日にあわせて、ユニークな企画を実施する。同日午後10時から12時までの2時間あまり、解説つきで300匹のチンアナゴの水槽の中の様子をライブ配信する。イベント企画名は「チンアナゴとねむリウム」参加に必要な視聴料は100円に設定された。水族館の開園時間外のチンアナゴの様子は、一般の人々に知られていない。砂地から細長い体を伸ばして揺れ動くチンアナゴを、スマホを通して布団の中から眺めると、緊張感がほぐれる。視聴者が、催眠術がかかったかのように、寝落ちすれば、企画は成功といえる。

スカイツリーの中に入る水族館は、立地的のよさはもちろん、定期的に打ち出される企画にも注目されている。

 今回のテーマは、中東のナゴルノ・カラバフ自治州である。同地域は、国際的にイスラム系アゼルバイジャン領と認定されながら、キリスト教を信仰するアルメニア人が実効支配する。2020年9月27日に紛争が始まり、11月10日にロシアが仲介に入り、停戦した。前編・後編の2回にわたって、アルメニアを中心にアゼルバイジャン、隣国トルコの歴史を紹介する。

第1章 古代アルメニア王国の歴史

 アルメニア共和国は、2021年9月21日に独立30周年を迎えた。同国は、人口290万、首都エレバンには110万人が暮らす。国土の大部分はアルメニア高原に位置し、西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランと接する。2020年9月27日、世界中でパンデミックの終結に向けて、ワクチン開発が進む中、西アジアとヨーロッパの狭間に位置するコーカサス地方で、戦闘が勃発した。1991年に解体した旧ソ連を構成したアルメニアとアゼルバイジャンの係争地ナゴルノ・カラバフ紛争である。同地域は、京都府ほどの広さに16万人が暮らす。アゼルバイジャンの自治州でありながら、住民の7割以上はアルメニア人である。アゼルバイジャンとアルメニアは、20世紀初頭から宗教観の違いで、対立関係にあった。国民の7割がイスラム教・シーア派のアゼルバイジャンに対し、アルメニアは西暦301年に世界で始めてキリスト教を国教とした。当時から山岳地帯のカラバフは、古代アルメニア王国の領土に含まれていた。

 写真=古代アルメニア王国の最盛期の地図 掲載元 古頑迷より http://yosaburo.web.fc2.com/coin/buzantine/arumenia-ancient.html
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 過去の歴史からアルメニア人は、トルコ系民族から迫害を受けてきた。振り返ると、アルメニア人の居住区は、現在のアルメニア共和国の周囲の地域まで広がっていた。アゼルバイジャン西部、ジョージア南部、トルコの東端、一部イラン北部の国境沿いにもかかっていた。国内最高峰標高5205mのアララト山は、長く信仰の対象になり、ノアの洪水が起こった場所と信じられてきた。前6世紀中頃、イラン高原に興ったアケメネス朝ペルシアに征服され、ダレイオス1世により、20のサトラップ(州や県に相当、皇帝に任命された監督官が置かれる)の一つになる。相次ぐ戦争により、アレクサンドロス帝からセレウコス朝へと統治国が変わった。セレウコス朝のアンティオコス3世(在位:紀元前223年 - 紀元前187年)が、マグネシアの戦い(紀元前190年 - 紀元前189年)でローマ軍に敗れると、歴史は転換点を迎える。

 写真=セレコス朝の地図 掲載元世界の歴史まっぷ セレコス朝シリアより
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アルメニアのサトラップ(太守、総督)であったアルタクシアスとザリアドレスは、ローマ軍の賛同を得て独立を宣言した。各地に成立したヘレニズム文化の一つとして、それぞれアルメニア王国、ソフィーネ王国を建国する。唯一ティグラネス2世(在位:紀元前95年から95年頃)は、帝冠を頂、アルサケス朝(イラン古代の王朝の一つ)の弱体化により、メディア地方からシリアまで領土を広げる。最も脅威に感じたのは、古代ローマ帝国だった。紀元前69年には、王国の首都ティグラノセルタの戦いで、ローマ軍に包囲されたことにより、放棄した。翌紀元前68年アルタクタサの戦いにも敗北を喫する。ローマとの戦いには、力強い味方が必要だった。そこでパルティア王フラーテス3世に支援を求めた。ローマ帝国からも要請を受けたことにより、承諾には応じず、日和見を決め込む。ローマの軍隊は、国内の反乱により、一時的に撤退した。アルメニア側では、ティグラネス2世の息子である小ティグラネスが内乱を起こして、父から権力を奪おうともくろんだ。パルティア側は、息子の小ティグラネスに援軍を送り、内部からアルメニア王国を突き崩しにかかった。王様ティグラネス2世は、息子小ティグラネスとフラーテス3世軍との戦いで勝利を収める。敗れた小ティグラネスは、ローマの将軍グナエウス・ポンペウスの保護下に入った。ポンペウスは、親であるティグラネス2世に息子との分割統治を働きかけた。ローマとの戦いに2度も敗れた経緯から、親のティグラネス2世が承諾したことにより、古代アルメニア王国は分割された。以降ローマの介入により、国力の衰退に繋がった。ローマの五賢帝時代、最も領土拡張に成功した2代目トラヤヌス(在位:紀元後98年から117年)時代には、属州の一つとなった。続く3代目ハドリアヌス帝時代に、ローマの宗主権を認めて、保護国となる。5代目マルクス=アウレリウス=アントニヌスの統治下では、宿敵パルティアを破った。アルメニアは、ローマ帝国と台頭するササン朝ペルシアの間で板ばさみにあい、国土を分割され、不安定なままだった。

第2章 5世紀の異端扱いから迫害が続く

古代ローマ帝国とは、宗教観の違いから、対立した。古代ローマ帝国は、紀元後392年テオドシウス帝の時代に、キリスト教を国教化した。アルメニア教会とは、イエス・キリストの生誕説について異なる見解を持つ。アルメニア教会は、キリスト経の三位一体説を認めず、単性説を唱えている。三位一体説では、父(神)と子(イエス)と聖霊は、三つの位格を持つものの、本質的には一つと信じられている。ローマカトリック教会、ギリシャ正教、宗教改革後のプロテスタントの諸派も、三位一体説を支持する立場に変わりない。対して単性説は、キリストの人生は神と融合するとの考えである。
西暦451年に開かれたカルケドン公会議で、アルメニア教会は異端との判定を下された。主催したのは当時の東ローマ帝国の皇帝マルキアヌス、現在トルコのコンスタンチノプールのアジア側に位置する東岸のカルケドンで開かれたキリスト教に関する重要な会議である。

 写真=都市カルケドンと周辺の地図 掲載元 KANAISME部ログより https://kanai.hatenablog.jp/entry/2013/08/27/131839
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異端とされながらもアルメニア人は、信仰を守り続けた。7世紀以降、イスラム勢力の支配を受け、トルコに国を事実上乗っ取られる。西暦1098年から1135年に、現在のトルコ領南端の一角で、アルメニア人による小国家が築かれていた。キリキア・アルメニア王国という。東方で勢力を伸ばしたイスラム系セルジューク朝から逃れるようにキリスト教を信仰するアルメニア人は、当時ビサンツ領の一角に自国民による小国家を建国した。西暦1071年にマンジケルトの戦いで、ビサンツ帝国は、セルジューク・トルコに敗れ、衰退する運命にあった。1244年に、アルメニア人は十字軍国家のひとつであるエデッサ伯国の建国に加担したことにより、トルコ系民族が打ち立てたザンギー朝から迫害を受けた。後世の歴史家は、トルコ人による最初のアルメニア人の大虐殺事件とみている。エデッサ伯国は、西暦1089年に第1回十字軍がユーフラテス川上流に建国した国家のひとつである。住民の大半はアルメニア人、第1回十字軍で先頭に立ったフランスの騎士ボードワンが、伯領として建国したことに始まる。主権を握るボードワンは、エデッサ伯として、聖地エルサレムを宗主として仰ぐアルメニア人が中心の十字軍国家を統治した。間もなく歴史の転換点が訪れる。西暦1099年6月7日から7月15日まで、聖地エルサレムを狙い、第1回十字軍とイスラム系ファーティマ朝との間で最終決戦が行われた。トゥールーズ伯レーモンド4世とゴドフロワ・ド・ブイヨン(後にエルサレムの初代聖墓守護者)が率いる十字軍が、戦いに勝利し、聖地エルサレムを手に入れた。西暦1100年に、フランス人の騎士ボードワンが、聖地入りし、新たに王として戴冠したのである。エデッサ伯領は、同姓同名の従兄弟に引き継いだ。従兄弟の方も後にエルサレム王2世となる。西暦1118年には、第1回十字軍の途中退却組みからなる「西暦1101年の十字軍」の一人であるジョスランが、第3代目となる伯爵として統治した。

 写真=エデッサ伯国周辺の地図 掲載元 Wikiwand キリキア・アルメニア王国より 
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 エデッサ伯国を治めた最初の3人の君主は、カルケドン公会議で異端と断定されたアルメニア教を信仰する人々の中に溶け込んだ。嫁にはアルメニア人から貰ったのである。最初の君主ボードワン1世は、1度目の妻が西暦1097年に亡くなると、2度目はキリキア・アルメニア王国の君主コンスタンティン1世(在位:1095年 - 1099年)の孫娘、アルダと結婚した。アルメニア人が中心となる伯領は、台頭するイスラム勢力に圧迫される。

西暦1127年、現在のトルコを中心に西アジアを支配していたセルジューク朝の組織が弱まり、内部分裂が起こり始めた。武将の一人であるイマードゥッディーン=ザンギーが、現在のイラクのモスルで、新たにザンギー朝を開いた。創始者ザンギーはセルジューク朝のマムルーク出身でアタベク(君主の子弟の養育係)として実験を握った。セルジューク朝に代わって十字軍との戦いで先頭に立ち、イスラムを代表する武将として名を馳せた。過去の戦いで、キリスト教勢力に太刀打ちできず、後手に周り、西暦1198年には聖地エルサレムを奪われた過去がある。ザンギーは、イスラム勢力としての劣勢を挽回した。西暦1144年に十字軍国家の一つエデッサ伯国を滅ぼしたのである。実質最後の伯爵となったジョスラン2世は、東ローマの皇帝ヨハネス2世コムネノスと遠征を共にしていたものの、ザンギー朝の陰謀から引き離された。トリポリ伯国から支援を拒まれ、孤立した状態だった。ティヤルバクル(現トルコ南東部の都市)で開いたアルトゥク朝の領主カラ・アスラーンが、戦いに加わってくれたものの、強大なザンギー朝との戦いでは力を発揮できなかった。作戦を見破られ、エデッサの西のテル・バーシルまで出かけた際、首府エデッサを空っぽの状態にしてしまったのである。

 写真=ザンギー朝周辺国の地図 掲載元 Twitter 理表 2020年10月18日付 https://twitter.com/rihyo37/status/1317378037264961536
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ザンギー朝の軍隊は、エデッサを包囲し、町に残るわずかな守衛隊と司教に降伏を求めた。エデッサ側の代表者が、条件を飲めず、拒否する。冷酷無情なザンギーの軍隊は、多くの民衆が町に残る中、焦土作戦に出た。
西暦1144年12月24日、キリスト生誕前夜となるイブの日に、街の北側の城壁を攻略し、油をまいて火を放った。司祭の不手際により、城郭に閉じこもっていた人々は、固い扉によって逃げ口を阻まれた。5000人の住民が、城郭の中で命を落としたといわれている。2日後の12月26日、町はザンギーによって明け渡された。アルメニア人やアラブ人の住民は、解放されたといわれている。西洋人は、持っていた財宝を没収され、捕虜として、アレッポ(現在のシリアの都市)へと送られた。エデッサの主ジョスラン2世は、遠く離れたテル・バーシルで、一連の悲劇の出来事を知らされた。キリスト教世界も反撃に出る。西暦1147年から1148年、ローマ教皇エウゲニウス3世の呼びかけにより、フランス王ルイ7世、ドイツ王コンラート3世が指揮する第2回十字軍が結成された。エデッサ伯国の弔い合戦となる、現シリアのダマスクス攻防戦で敗退を喫した。ジョスラン2世は、残存勢力と連絡をとり、首府奪還に向けて準備する。折りしも軍才を発揮したザンギーは、西暦1149年に急死した。ザンギーの息子ヌールッディーンの攻略により、再度首府エデッサから逃れたのである。西暦1150年にヌールッディーンに捕縛され、アレッポへ送られると、西暦1159年に死を遂げた。


キリキア・アルメニア王国は、西欧から十字軍の支援を受けて、イスラム勢力から保護される形になった。奇しくも1189年から1192年にかけて、教皇グレゴリウス8世主導の下、サラーフディーンから聖地エルサレム奪回をめざし、第3回十字軍が結成された。キリキア・アルメニアの統治者レヴォン2世は、カトリックの十字軍に近づき、味方についた。フリードリヒ1世など神聖ローマ皇帝の後援をうけて、公国から王国へ格上げに成功したのである。第3回十字軍遠征は、失敗とも成功ともいえなかった。

 写真=第3回十字軍の移動ルート 掲載元 山武の世界史より https://yamatake19.exblog.jp/15049437/
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十字軍に入ったイギリスのリチャード1世は、1192年9月2日に、サラーフッディーンと1年以上にわたる休戦交渉に決着をつけた。アッコンを含みティールからヤッファに至る沿岸部のいくつかの港をエルサレム王国の管理下に置く。一方でエルサレムはイスラム教徒が統治するのである。イスラムが支配しながら、キリスト教の巡礼は認められた。キリスト教徒は、聖地奪回には失敗したものの、キプロス島を初め、港を抑え、海運貿易による国家発展には貢献した。キリスト教勢力と台頭に渡り合ったサラーフッディーンは、休戦交渉の1年後の1193年に死去している。
王国へ格上げされたキリキア・アルメニア王国は、一時的に十字軍に守られながら、やがてイスラム系のマルムーク朝の支配下に入り、西暦1137年に滅亡している。以降アルメニア人は、国家を持てず、異民族の支配に苦しみ、各地へ分散していく。

 5世紀に、カルケドン公会議で異端とされたアルメニア教は、西アジアの一角に国家を持ち、十字軍の遠征舞台と協力しながら、イスラム勢力と渡り合った。アルメニア人がまとまって暮らす土地は、サファビー朝(現在イラン)、ロシア帝国、オスマン帝国の3国に統治された。3国は、共に利害関係から戦争を起こし、アルメニア人を分断させた。

      第3章 帝政オスマン帝国の下で、2度目の迫害

時を経て、アルメニア人は、2度目のトルコ人により、虐殺された。西暦1894年、現アナトリア東部ビトリス県(現在のトルコ共和国)で、ムスリム系とアルメニア人の大規模な内戦が起こった。当時のオスマントルコ政府が、ハミディエと呼ばれる非正規部隊を投入し、武力を駆使して、鎮圧したのである。オスマン帝国の末期、アルメニア人勢力は、少しずつ力を伸ばしてきた。1905年7月21日、アルメニア革命連盟が、キュステンディル近郊の村で密かに製造した爆弾を抱え、スルタンのアブデュルハミト2世の暗殺を試みた。護衛26人は命を落としたものの、ターゲットのスルタンは、保護された影響からか、軽傷にとどまった。専制主義を貫くスルタンのアブデュルハミト2世に反対する運動は、トルコ人の間でも起こっていた。ギリシャのサロニカで結成された統一と進歩委員会(青年トルコ党)が、打倒スルタンに向けて動いていた。1908年にサロニカから武力攻撃を仕掛ける。スルタンは、革命勢力と戦うように命じるものの、軍からも完全な信頼を得られない。軍の中には、少なからず青年トルコ党に味方するものもいた。アブドゥルハミト2世は、内戦を避けるべく、青年トルコ党の要求を呑み、廃止した民主的なミドハト憲法の復活を宣言した。

写真=サロニカの位置を示した地図 掲載元 講義 西アジア・アフリカ史 
http://eurekajwh.web.fc2.com/kougi/kougi/nisiA/ot02.html
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ミトハト憲法とは、二院制議会・責任内閣制・言論の自由の3本柱から成る。宰相ミドハト・パシャによって起草され、1876年に公布された。1877年に露土戦争の勃発により、公布1年後にアブドゥルハミト2世によって停止されたのである。31年ぶりにミドハト憲法の復活により、市民によって下位院議員選挙が行われる。5万人ごとの都市に1名選出される仕組みだった。新たに政治に参加する青年トルコ党の中には、中央集権型と地方分権型に別れていた。革命の主導者エムヴェル、タラート、ジュマルの3人は、中央集権型に属したものの、党員の多くは地方分権型の社会を目指していた。選挙において、分権派は「自由党」を結成して、出馬を果たす。革命の功績を挙げた集権型の「青年トルコ党」との戦いに敗れた。青年トルコ革命後、中央集権型を目指す方向になる。多数派であった分権派の「自由党」は、政治の場から排除されることになる。議会を握った青年トルコ党は、打倒スルタンを掲げた同士分権派のメンバーと折り合えない。1909年3月31日に、新たな政治体制に疑念を抱くイスタンブールのメドレセ(神学校の生徒)と、革命前の将校らが結束し、クーデターを起こす。予測不能な出来事に青年トルコ党は太刀打ちできず、一端はイスタンブールから離れ、建て直しを図る。第3軍団を指揮するサロニカに駐在するマフムート・シェヴケト・パシャに支援を要請し、内乱の収束を図った。ムスタファ・ケマル(後に1923年に建国されたトルコ共和国の初代大統領となる)とエンヴェル・パシャを参謀に据えた鎮圧部隊は、反乱部隊を抑え込み、事態を収束させた。一連の3月31日事件を受けて、新たに国会が開かれた。クーデターに関わったとの疑いを持たれたアブドゥル・ハミド2世は、4月27日に議会によって、退位させられたのである。後を継いだのは、弟のメフメト5世だった。政治の実権は青年トルコ党が握り、スルタンは飾りに過ぎなかった。政権が、トルコ党に移っても、帝国の領土内だったアルメニア人の暮らしはよくならない。同1909年4月13日、アダナ(現トルコ共和国中西部の都市)にて、アルメニア人1万5000人から3万人が、イスラム系住民によって無差別に殺害された。地中海に隣接するアレクサンドレッタ(現・イスケンデルン)にあるアメリカ大使館には、亡命を求めるアルメニア人が殺到したという。イギリス、フランス、アメリカの3国が、オスマン帝国内のアルメニア問題に介入するようになった。1913年1月23日、中心人物エムヴェル、タラート、ジュマルの3人のパシャが計画を練り、部下に対して、大宰相府の襲撃を命令する。クーデターは無事に成功し、陸軍大臣のナズーム・パシャを暗殺した。事件の責任を大宰相のキャミール・パシャに転嫁し、辞任に追い込んだのである。反対者を引きずり下ろし、青年トルコ党が完全に政権を掌握すると、アルメニア人の迫害が激化する。

 写真=1915年当時のアルメニア人の居住区 掲載元 アルメニア人のニュースより
https://missuniversejapan.com/xx/?a=/a/20160603033004.html
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第4章 トルコ革命が起こる

1915年第一次世界大戦の渦中、オスマン帝国内で、アルメニア人排除の動きが加速化した。アルメニア人は、敵国であるロシア帝国と内通しているとの噂が広まったのである。青年トルコ党は、アナトリア地域のアルメニア人を、当時帝国の領土内であるシリアの砂漠地帯の町デリゾールの強制収容所へと死の行進政策を開始した。1世紀のときを経て、現アメリカ大統領のジョー・バイデン氏は、アルメニア人追悼記念日となる2021年4月24日に、声明を発表した。オスマン帝国による、アルメニア人の強制移住政策について、特定民族による無差別殺戮を意味する「ジェノサイド」と認定したのである。犠牲者は推定150万人、オスマン帝国の後継国家トルコ共和国の第12代エルドアン大統領は、大量虐殺を明確に否定している。あくまでも、敵国ロシアと内通していた反乱者への取り締まり行為だと主張した。オスマン帝国は、第1次世界大戦において、1918年10月30日に連合国側との間で「ムドロス協定」を結び、休戦した。イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下、アナトリア半島とエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。地中海のキプロス島もイギリスが支配した。首謀者エムヴェル、タラート、ジュマルの3人は、連合国側からのアルメニア人問題の追及から逃れるべく、亡命した。個人による敗戦の責任は問われなかったものの、国家として制裁を食らった。最終的に、1918年7月に即位したメフメト6世が、連合国と和解を求めて、1920年8月10日に「セーブル条約」に調印した。条約の内容には、アルメニア人国家の独立、クルド人の建国、東トラキアをギリシャに移譲等である。

写真=セーブル条約による領土 掲載元 世界の歴史まっぷ セーブル条約より
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一方で、アンカラには、青年トルコ党の一員ムスタファ・ケマルが率いる大国民議会政府が出来上がっていた。トルコ国内は、二重政府状態だったのである。ムスタファ・ケマルは、第1次世界大戦で敗北したオスマン帝国の中で功績をあげた。1915年4月25日に英仏軍がガリポリ(エーゲ海に突き出た半島)上陸作戦を開始した際、徹底抗戦し、前進を食い止めたのである。首都イスタンブール防衛に成功したことにより、トルコの占領は免れた。同年6月に大差に昇格し、パシャの称号を得た。青年トルコ党の主導者3人の亡命により、彼が権力を握っていた。領土の回復を目指して、戦闘準備を整える。アナトリア半島を侵攻した打倒ギリシャを掲げて、1919年から1922年にわたり、希土戦争が勃発した。最終的にムスタファ・ケマル率いるアンカラ政府が、勝利し、トルコ国民から大きな支持を得たのである。ケマルは、1922年9月9日に西南都市のイズミルを奪回し、ギリシャ軍を駆逐した。11月1日にスルタンとカリフを分離したうえで、スルタン制度を廃止する。第36代皇帝メフメト6世は、アンカラ政府に逆らえず
、受け入れたのである。同月17日にイギリスの軍艦でマルタに亡命し、1926年5月16日に65歳で永眠した。600年以上わたって続いたオスマン帝国は滅亡したのである。一連の出来事を「トルコ革命」という。

1923年7月24日、アンカラ政府は、イギリスとフランスを中心とした連合国との間で、新たにローザンヌ(スイスの都市)条約を締結し、トルコ共和国としての独立の承認を得た。セーブル条約で認められたクルド人による自治区制定を取り消し、希土戦争で奪回したイズミルやエディルネの領有を連合国側に承認された。

 写真=現トルコ共和国の地図 掲載元 livedoorブログ 江戸川の畔(ほとり)2021年10月28日より http://blog.livedoor.jp/liveokubo/archives/52354727.html
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影響を受けたのはクルド人だった。1920年のサンジェルマン条約により、一定程度の権利が保障された自治区が認められながら、ローザンヌ条約によって取り消されたのである。一つの民族が、オスマンから独立したイラク、シリアと共に、イラン、トルコの4国に分断された。イラクやトルコ、シリアでも、この100年で政府から迫害され、故郷を終われ、難民の数が耐えない。クルド人も、アルメニア人と同じ道を辿っているのである。トルコ共和国は、1923年10月29日に建国された。初代大統領ムスタファ・ケマルは、西欧化を推し進めた。古いイスラム法は、国法としての地位を喪失する。建国2年後の1924年にオスマン王家のカリフを首都イスタンブールから追放した。イスラムとして初の世俗君主国家として、積極的にアメリカからも投資を受け入れる。経済成長率は、2011年で過去最大となる前年比プラス11%を達成した。コロナ禍の2020年もプラス1,7%を維持し、2021年は、前年比プラス8,95%を記録している。

 詳細 世界経済のネタ帳 最終更新2021年10月13日付 https://ecodb.net/country/TR/imf_growth.html

アルメニアと隣国トルコとの亀裂は深い。両国の関係悪化は、カラバフ紛争へと繋がる。次回は、アゼルバイジャンの歴史と共に、ナゴルノ・カラバフ戦争を考察する。
 


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