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2021年11月09日00:10

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新宮・熊野市紀行11 妙心寺 / 神倉神社入口

 10月8日金曜日は宗応寺に参拝後、真言宗妙心寺へ赴きました。
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 妙心寺は慈覚大師円仁(794〜864)によって天台宗寺院として創建され、円仁建立と刻銘された法華供養石碑が境内に伝わります。天仁元(1108)年に熊野比丘尼(クマノビクニ)を統率するため永信尼が入寺し、尼寺となりました。大治3(1128)年には白河院が熊野御幸の折に堂舎を造営しましたが、その際女官の一人が帰京せず、当地で出家して妙心尼と号し、妙心寺の中興となりました。
 鎌倉時代には、臨済宗法燈派の開祖である法燈国師(ホットウコクシ)心地覚心(シンチカクシン;1207〜98)が母と共に住んだと伝えられ、臨済宗に転向します。覚心は聖(ヒジリ)や比丘尼の組織化を図ったため、妙心寺は神倉聖や熊野比丘尼を統率して神倉神社の造営修理を担う神倉本願になったと考えられています。神倉本願には妙心尼寺の他に金蔵坊華厳院・寶積院・三学院があり、この三つ院は何れも修験兼帯寺でした。南北朝の動乱で荒廃した神倉神社の復興に際しては妙心尼寺が勧進(カンジン)権を掌握しており、延徳元(1489)年には妙心尼寺の妙順尼が神倉神社の再興のための勧進を行い、さらに大永年間(1521〜28)から享禄4(1531)年まで弟子の祐珍尼等と共に諸国を巡って奉加を募り、これによって再興を成し遂げました。この功績により、天文元(1532)年には本願職(ホンガンシキ)が改めて公認されています。天正16(1588)年10月16日には大納言豊臣秀長の木材奉行の放火によって神倉神社が焼失してしまいましたが、翌年には祐心尼は金蔵坊祐信(当山派)、及び熊野新宮の楽浄坊行満(本山派)の二人の修験者の協力を得て西国九ヶ国に勧進に赴いています。なお、当山派とは真言宗系修験道、本山派とは天台宗系修験道の事です。
 その後、元和8(1622)年7月付の「妙心寺由来」に真言宗を宗旨とする旨が記されているため、それまでに真言宗へ転向した模様です。慶安年間(1648〜52)以後、熊野三山の社家と本願との間で社務を巡る紛争が続いたことから、延宝3(1675)年に幕府寺社奉行が介入し、本願寺は修験を廃して本願の職に専念するよう申し渡しました。この時、妙心寺以外の本願は修験を廃する事を拒んで退転したため、妙心尼寺が唯一の神倉本願となったのです。
 しかし、その後も本願所に対する規制は厳しくなる一方であり、元禄年間(1688〜1704)には勧進活動には公儀の許可が必要となり、享保6(1721)年以降は熊野三山造営のための勧進状が公儀から発されるのが通例となるに及んで、本願活動は有名無実となってしまいました。その後も引き続く社中と本願の相論は、延享元(1744)年に再び寺社奉行の介入を招き、本願は社中の下位にある事が明確化されただけでなく、宮社破損の際の補修の願出はもとより、修覆権すら認められなくなってしまったのです。これ以後、利権を失った妙心寺以下の新宮の本願所は困窮の度を深めて行きました。
 そこで妙心尼寺は、寛政5(1793)年に大納言高辻胤長(タカツジタネナガ)の娘亀姫に入寺して貰い、それ以後は京都の公卿家の息女を住持とする門跡尼寺としての格式を喧伝して行く事となりましたが、明治元(1868)年の神仏分離令で神倉神社と分離され、最後の住持だった貞宝尼が桜本姓を名乗って還俗してからは無住化して衰微してしまいます。
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 今日では小さな堂宇一つを残すのみで、熊野速玉大社の管理下に置かれています。毎年2月6日に行われる御燈祭(オトウマツリ)では、上り子たちが神倉山上に上る前に参詣する潔斎の場となっています。
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 妙心寺の寺宝に托鉢用の木鉢〔和歌山県指定文化財〕があります。高さ11cm・口径18.5cmの木製の素地に黒漆が固塗りされた物で、法燈国師が神倉山に登った際に寄進したと伝えられ、その際に所持した竹の杖も現存しています。
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 妙心寺に隣接して天照大神(アマテラスオオミカミ)と高倉下命(タカクラジノミコト)を祭る神倉神社〔村社〕〔史跡〕〔UNESCO世界文化遺産〕の神橋があります。神橋の内側は吉野熊野国立公園エリアです。
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 神橋右手前の「下馬」標石〔史跡〕は寛文12(1672)年銘のある物で、刻銘によれば、陸奥国盛岡藩領志和(シワ)郡の人物が、子孫繁栄を祈念して熊野参詣七度を達成した事を記念した物です。
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 神倉神社は標高120mの権現山(神倉山)〔史跡〕山頂の巨岩ゴドビキ岩を御神体とする神社で、周囲は100m近い断崖絶壁となっています。
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 『日本書紀』等によれば紀元前662年に神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト;神武天皇)が東征の際に上陸したのは当地付近だとされています。
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 神日本磐余彦命一行は熊の姿をした悪神の毒気により倒れてしまいますが、天照大神(アマテラスオオミカミ)の命を受けた高倉下命(タカクラジノミコト)が天磐盾(アマノイワタテ)の山で神日本磐余彦命に神剣を奉げると一行は息を吹き返し、天照大神の遣わした八咫烏(ヤタノカラス)の道案内で大和へ軍を進めたとされます。その天磐盾こそがゴトビキ岩の事だと伝えられているのです。
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 ゴドビキ岩付近からは弥生時代の遺物も発見されており、太古から磐座(イワクラ)信仰の地だったと推定されていますが、後に熊野権現の熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)と熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)が最初に降臨した場所であると説かれるようになりました。熊野速玉大神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)、熊野夫須美大神は伊邪那美命(イザナミノミコト)の事だとされ、人皇第12代景行天皇58年(A.D.128)にゴドビキ岩から熊野河畔に遷座して熊野速玉大社が創建されたため、ゴドビキ岩の社は神倉神社と改名、元宮と呼ばれる事になりました。そして、速玉大社が新宮と呼ばれる事になったのが、新宮の地名の由来です。
 また、人皇第41代持統天皇〔位;687〜697〕の時代に裸行上人(ラギョウショウニン)が神倉山の社殿・伽藍を整備したとの伝説も残ります。
 平安時代以降、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野三山詣の際には神倉神社にも参詣する場合が多かった様です。『平家物語』巻十によると寿永3(1184)年に敵前逃亡した右近衛権中将平維盛(タイラノコレモリ)が参拝しており、鎌倉幕府を開いた源頼朝が急勾配の鎌倉積み石段538段を寄進したと伝えられています。建長3(1251)年2月14日には火災によって焼失してしまいましたが、執権北条時頼の助成も受けて再建されました。上述の様に鎌倉時代には神倉神社の造営修理を担う神倉本願として妙心尼寺等の四寺が指定されていました。
 南北朝時代の動乱で荒廃しましたが、室町幕府第3代将軍足利義満の側室だった北野殿が応永34(1427)年に「神の蔵」へ参詣した記録が残っており、参詣は続行されていた模様です。
 江戸時代に入ると新宮城主浅野忠吉の崇敬を集め、慶長7(1602)年には社領として63石を与えられ、次の新宮城主水野氏も正保2(1645)年に一年の祈祷料として米3石6斗と燈明料米1石8斗を与えています。
 天保10(1839)年に完成した『紀伊続風土記』によると、当時の境内には社殿と並宮の外、崖上に懸造の拝殿があり、大黒天を祀る御供所(ゴクウショ)・満山社・子安社・中の地蔵堂等がありましたが、明治3(1870)年の台風で倒壊して荒廃してしまったため、由緒ある神社であるにも拘わらず村社の社格しか与えられず、明治40(1907)年には熊野速玉大社に合祀されてしまったのです。
 しかし、大正7(1918)年に至ってゴトビキ岩下に祠を再建したのを手始めに、昭和初期に社務所・鳥居等も再建されました。現在は社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社の境外社の扱いとなっています。
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 平成16(2004)年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一環としてUNESCO世界文化遺産に指定されてからは欧米人の参拝客も増えています。
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 三宝荒神(サンポウコウジン)と猿田彦命(サルタヒコノミコト)を祭る末社です。
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 境内には小さな滝もありました。 
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 一の鳥居です。既に1600時を過ぎていましたし、538段もの石段を登るのは40年前の20歳の時でもキツかったので、今回は断念する事にしました。ってゆーかー初めからその気が無かったんですけどね。ww
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 上に登るとこんな感じになっています。
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《続く》
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